氏作。Part33スレより。




彼女はまさしくあの女(ひと)の再来であった。
容貌や声のことをいっているのではない。魂が同質だった。
尤も、あのひとにしろ彼女にしろ、
誰にもよりかからず凛と一人立つ女性ゆえそのような言われ方は好まれまいが。




今にいたるまでオヴェリア様の護衛担当は数年単位で次々入れ替わった。
元老院からの命、近衛の任務とはいえ生涯宮廷とは無縁の王女付きなど、
危険もないかわり騎士としての栄達も得られないことを知っているからだろう。
たとい戦場で無残に散るにしろ、
生きているのか半分は死んでいるのかもわからない
あまりに静か過ぎるここの日々よりましだということだろう。
だが私は己の直感を大いに信頼している。
次に来る騎士こそは、オヴェリア様に生涯の忠誠を誓う信頼すべき人物であるとその直感が告げる。
アグリアスオークスという名前の響きも耳にうるわしく、佳き知らせであるように感じられた。
学僧には忍耐も必要だがふとしたひらめきが素晴らしい研究成果を生むこともある。
何とはなしに手に取った一冊の本から新たな世界が開けることも少なくない。
肉体的な美と健康、社交性などを持って生まれなかったかわり私にはそれがあった。
家系だという。
武家のはずの我が家でごくたまに、虚弱なかわりにこのような人間が出るのだと今は亡い父が教えてくれた。
神を信じなくなった今も私自身のこの直感は頼るに足るもので、
つまりは魔法をあやつるものにとっての広義の信仰心、
「精霊や魔法など科学では説明のつかない不思議な力や現象を信じる心」とやらはさして失われてはいない。
ここで使う必要のある魔法といえば回復魔法一辺倒ながら、
異端者を断罪するのに魔力を行使した時となんら変わりも支障もない。
地下書庫での密かな愉しみと探索にも大いに役立っている。


アグリアスオークスです。
 元老院の命によりオヴェリア様の護衛にあたることとなりました」
その髪も瞳もあのひとのものとは全く違う色合いだというのに、顔立ちも全く違うのに、
快活な笑みや涼やかな声が示す彼女の内面の美しさにしばし恍惚の境地にいた。
彼女のなにもかもが、私が永遠に失ってしまった女性の血を汲むあかしのように思えて仕方なかった。
「もしやおばあ様のお名前はマチルダ・エインズワースと、あ、いや嫁ぐ前の旧姓がエインズワースでは
ないでしょうかとお聞きしたほうがよいでしょうか。
 オークスのお家自体は私も昔から名前だけなら聞き及んでいますがなにぶんこのような隠居の身のうえ
嫁いだ女性の消息というものはなかなか、
 あ、誤解をされないでいただきたいのですが私とマティ…マチルダさんはなにもやましい関係などでは
なく母同士が友人で幼馴染でして」
私の口は何を口走っているのだ。
私の耳は私の口が垂れ流す言葉をまるで他人事の調子で拾う。
「え、あ…。いいえ、そのような名前の女性は身内にはおりませんが、その方と私が似ているのでしょうか?」
きりりとした佇まいが崩れ、少し慌てたときについ覗かせるかわいらしさすら彼のひとを想起させる。
「先生?シモンせんせい?私の騎士殿がおこまりですよ?」
私にとって娘ともいうべきオヴェリア様のまっすぐで邪念のない瞳が私を正気に引き戻す。


妹がいた。だから、オーボンヌに篭ってからの生活にも戸惑いはなかったはずだった。
女性との肉の交わりを禁じられた聖職者として生きてきたなりに、
妹を思いだして娘や孫よりも若い修道女たちと接すればよいと考えていた。
事実それで問題なくやってこれた。
私の第一の関心ごとがいまも昔も知識欲に尽きたからだろう。
ライオネルではなにやら素行に問題のある聖職者もいると聞き及んだが私には無縁ときめてかかっていた。
否、あのひとを失ったからそうしていられたのかもしれない。
あるいは、あのひとをほかの男に奪われたのを認めるのが怖かったのか。
チルダ武家のものとして凛々しく戦場に赴き、そこで恋に落ちたこと、
親の決めたいいなずけとは別の男性との人生をみずからの力で勝ち取ったことが母を介して伝わった。
婚礼のあかつきには私に縁結びを頼みたいとのことだったが、異端審問官になるための勉強を口実に断った。
弱く情けない自分をごまかしたくて本の世界に逃げ込んだだけなのかもしれない。
チルダと出会ったときはとっくに聖職者として生きることを決めていたから?
聖職者は妻を娶ることなど禁じられているものだから?
異端審問官の役を拝命してこのかた実に多くの人々を炎の彼方に消し去った。
なかには親や孤児院の意向で聖職者の道を歩まざるを得なかったもと聖職者もいた。
処刑台までずっと冤罪だと泣き叫ぶものもいたなか笑っていたものもいた。
神に捧げない人生を選び取ったことに後悔はないと胸を張っていた。
淫乱で邪悪な異端者よ、一度は神に捧げた身でありながら肉慾に溺れた、汚らわしい、堕落しきった邪教徒よ。
あのころは私も信じていたはりぼての教えに反逆した、惧れを知らぬ傲慢なものたちよ。
そうだ、私はお前たちがうらやましかったのだ。
身分にも神にも他人に押し付けられた道にもとらわれることなく高らかに愛をうたうお前たちが。 


私の脳裏を昏い悦びが支配している。
剣の稽古で生き生きと立ち回るアグリアスの肢体は健康美にあふれている。
その光景はマチルダがふざけ半分に私に剣の相手をしてくれた遠い日に酷似していた。
「あははっ、シモンったら勉強はできるのにこういう事はさっぱりだよね!だらしないなあ!」
私を男として見てくれないかわりに自身が女であることへの意識もなかった、
少女時代のマチルダの声が耳の奥で鮮やかによみがえる。
紅で淡く染めたあえかな唇から気迫のこもった叫びと荒い息が吐き出される。
修道女ではない彼女は宮仕えの身、貴婦人のたしなみとしてごく薄く化粧する習慣がある。
あくまで身だしなみの範疇で引かれるだけの紅の緋色がどんなに男を惹きつけているかすら知らない。
とうに衰えて脱ぎ捨てるときも近づいたこの肉体は
いまさらこの手に女性を抱き、男女の交わりを欲することもない。
いつわりの信仰に捧げた青春であれ、私の肉体は若い時分から美しさに恵まれていたとも言い難い。
己の選択した人生についての後悔はもはやない。
そのかわり、あの若く美しいアグリアスも生涯肉の悦びを知ることもないだろうと秘かに期待している。
生涯修道院で独身を貫くべしと強要されるであろうオヴェリア様にならい、
彼女がどこかへ嫁いだりどこぞの男と恋仲になることもないだろうと。
そうしてくれ、アグリアスよ。私のかわいい娘とおなじくその身に男を迎えないでくれ。
いつまでもその魂も肉体も誰かに与えることなく清らかでいてくれ。
いずれ死が訪れたあかつきにはアジョラの御許でで永遠にともに過ごそう。
つい習慣で信じてもいないグレバドスの教えにのっとた言い回しを使い
心の中から彼女に呼びかけてしまっては苦笑する。
アグリアスが剣を構えなおす。「神に祈りを捧げて行使する」聖剣技だ。
チルダも聖剣技を身に着けようといつも稽古を欠かさなかったが、
きみは結局どうだったのだろうな、マチルダ
「鬼神の居りて乱るる心、されば人かくも小さな者なり! 乱命割殺打! 」
彼女が信ずる教えは空虚なのにその刃からは実に清らかで力強い光が放たれる。
ああ、本当にそうだな。人間は、私という人間は実にちっぽけな存在だ。
チルダアグリアス、マチルダアグリアスアグリアスアグリアス


私のかわいい娘は哀れなことに、はりぼての祭壇に何時間も熱心な祈りを捧げている。
己の体に流れている王家の血が彼女の唯一の矜持の拠りどころであるが、
それすら実のところ虚構なのだということなどもやはり知るよしもない。
護衛に雇った礼儀知らずのガフガリオンが文句をつけた。
「無礼であろう、ガフガリオン殿。王女の御前ぞ」
傭兵の不躾な物言いにアグリアスがやり返す。
気の強さもその高貴な魂もまったくもってあのひとと同じだ。
私は気の強い女性が好みだったのだとこの齢になって初めて知る。
「これでいいかい、アグリアスさんよ」
いらつきながら部下たちにも礼を糺すよう促したところで、
アグリアスと彼の部下のひとりの視線が交差した。
老いさらばえた私とは、いや、かつての少年時代の私とも比べるべくもない、
瑞々しく涼やかな佇まいの少年だった。
顔立ちは違うもののそのまなこはどこかかの天騎士バルバネス様を思わせた。
そのとき彼らは何を感じたろうか。
神を信じるという意味での信仰心はとうに失せたもののなんら変わりなく魔法を行使できる。
それはひとえに、理性や理屈を超えた己の直感が真実を言い当てた経験がしばしあったからだろう。
神はもはやいないことを知ったがそれ以外にも目に見えないものはある。
傲慢だといわれようと私はそれらを信じている。傲慢と裁く存在としてのアジョラはただの人間だった。
この邂逅はやがて私にとっては面白くない結果をなすだろうと、最初に気付いたのも私だけだったはずだ。
オヴェリア様が騎士らしい男にさらわれていったあの日とおなじ日、おなじ場所。
彼が私の修道院から、私の世界からアグリアスを連れ出していってしまった。


ライオネルの枢機卿倪下が「ラムザ・ベオルブと名乗る邪教徒」によって殺された。
ついでにあの素行不良で悪名高いブレモンダも死んだらしい。
生臭坊主ががくだらない理由で騎士団長を追い出したせいでライオネル聖印騎士団では相手にならず、
倪下が雇われた百戦錬磨のガフガリオンすらその手にかかった。
ラムザはかつて彼の傭兵団にいたとのこと、傭兵の世界で頭領ごろしは重罪だとのこと。
俗界から切り離されているはずのここにまで聞きたくないことばかりは伝わってくる。
アルマ様の兄、バルバネス様の三番目のご子息が出奔したとは聞いていた。
あの日アグリアスと視線を交わした若者は、もしや。
誘拐事件以来消息の知れなかったオヴェリア様は政争の具としてゴルターナ公の手に落ちた。
オヴェリア様から短い文面の手紙を戴いた。
「先生、オーボンヌの花々は今の季節いかがですか。蝶はまだ戻ってきませんか」
アグリアスの安否を問う符牒であることにすぐ気付いた。アグリアスの行方は杳として知れない。
手紙はこう続く。
「ルグリア氏には大変お世話になりました。
 もしオーボンヌに立ち寄られたら私からもよろしくとおつたえください。
 ルグリア氏なら蝶の行方についてもお詳しいかもしれないので、
 ルグリア氏なり蝶のことなり、何かわかればお返事を下されば幸いです」
ガフガリオンに護衛を依頼したときの記録はまだ手元にある。
ガフガリオン以下部下数名の名前が記され、ラムザ・ルグリアという名前は果たしてそこにあった。
アグリアスラムザと共にいるよ、私の脳裏であの日一瞬見詰め合ったふたりの姿がそう教える。
ラムザドラクロワ倪下がおもちだった聖石を奪い、ライオネル城を壊滅させた。
さらには異端審問官をも手にかけた。
ここの修道女たちの口にまで怖れと共に彼の名がのぼる。
教会の権力に真っ向から反逆したと宣言したもおなじだ。
私がゲルモニーク聖典を開示すれば、いつわりの神を後ろ盾に保ってきた教会の権威も地に墜ちる。
ラムザの名誉も回復するかもしれない。
だが、書庫をとりあげられたくなかった。
アグリアスが彼と想いを通じ合わせたか否かを知りたくもなかった。


血が流れてゆく。私の命も流れゆく。
命よりなにより執着した私の書庫もならず者たちに蹂躙されつくした。
それでもいい。それでかまわない。
ほら、アグリアスがもどって来てくれた。忘れられるわけがない。この声は彼女だ。
私の死を嘆いてくれている。ラムザ・ベオルブも一緒だ。
ラムザは本当に父君に似ている。
まっすぐすぎて損な役回りも多い、だけどどこまでも暖かい人間らしい人間。
うすぐらい書庫から一歩も踏み出せなかった私とは違う。
ゲルモニーク聖典を託した自らの血塗れの手が邪魔だ。
下げようとしても凍りついて言うことをきいてくれない。
アグリアスはどんな顔をしている?
ラムザ、少しよけて彼女を見せてはくれないかな。
一瞬だけ彼女の姿が視界に入る。悲嘆にくれてなお美しい。
出会ったころよりなお。
もうどこぞの男の手で女になったのかもしれない。ラムザか?
まあいい。彼にならアグリアスを任せてもいい。
アグリアスはマチルダの代用品でもなんでもない。
私もようやく初恋を卒業できたのだと思うと何だかおかしくなる。
満ち足りた私の世界はゆっくりと暗転する。