氏作。Part37スレより。







「暑いな」
 初夏。太陽の季節
 頭上で猛威を振るう丸顔を、ラッドは忌々しそうに手で遮った。
「暑いね」
 彼の呟きに同調したアリシアも、やはり同じように手を額に掲げている。
「疲れた?」
「ううん…」
 ラッドが気遣うと、アリシアは笑顔で首を振った。言いながら、首筋にしたたる汗が、陽射しを
浴びて照った。
 嘘つきめ。ラッドは苦笑する。強がらなくても、この暑さじゃ無理も無いのに。
 そこへちょうど、林檎売りが土間声を張り上げてきた。ラッドはポケットから銅貨を支払うと、
それから林檎をナイフで切り、二人分け合った。
 暑さで干上がった喉に、豊潤な果汁が染みわたる。
 食べ終わって、もう一度尋ねた。
「疲れた?」
「全然」
 屈託のない返事。ラッドは今度こそ安心して、アリシアに手を差し出した。アリシアはその手を
しっかりと握りしめる。それだけで、二人は満たされた。 
 手を繋ぐくらい、珍しくもない。子供だって繋いでいる。そこら中に、ありふれた光景。それで
十分なのだ。他に何があろうというのか。
 凡庸は苦にはならなかった。特別なことは何もいらない。必要なのはお互いがそこにいること。


 ラッドは思い出す。
 生まれも育ちも卑しい自分が、王立護衛騎士という立場の彼女に話しかけようとしたとき、どれ
だけ緊張したことだろう。思い出すだけでも息が詰まりそうになる。そして、その後彼女がくれた
素直な笑顔に、どれほど心を打たれたことか。
 アリシアは思い出す。
 突然、傭兵などと行動を共にしなければならなくなったとき、彼がかけてくれた優しい一言に、
どれだけ安らいだことだろう。思い出すだけでも、心臓が熱くなる。そして、いつか彼が自分への
想いを告げてくれたときに、どれほど心を打たれたことか。
 だから今日も、二人はありふれた日々を共に過ごす。
「で、どこに行こうか?」
「小物屋。髪留め、新しいのが欲しいの。町外れにいい店があるらしいんだ」
「えぇー。…………それ似合ってるのに」
「面倒だからって適当なこと言わない。ほら、ほら」
 少しばかり赤くなりながら、アリシアはラッドの背中をせっつく。
「わかったよ、わかりました」


 幸せが二人を包んでいる。
 なぜなら今日は……。

















「ありゃ、アリシアとラッドだ」
 頬杖ついて、ぼんやり通りを眺めていたラヴィアンは声を漏らした。
「なんでわざわざここに来るかなー…」
 とっさに顔を伏せながら、溜息をひとつ。


 ラヴィアンとアリシアは、学生時代からの腐れ縁。
 入学式で意気投合して以来の付き合いであるから、かれこれ十余年か。
 自然、ラムザの隊に加わった後も、いつも彼女とつるんで隊の噂話などにかまけていたのだが、
今日のところは気を利かせてやり、ひとり、このへんぴな料亭に赴いていたのだった。
 それも、田舎町の外れも外れ。犬猫ですら歩かぬような場所を選んだというのに。
 こういうのも気が合うっていうのかしら。
「こら、そのままどっか行け。来るな来るな」
 顔を伏せたまま上目遣いで二人をちらちら窺い、しっしと手を払うラヴィアン。傍から見ると、
胡散臭い以外の何者でもないが、当人が気付く由もない。
 一方のアリシアたちは、もともとこの先にある小物屋がお目当てなので、ラヴィアンになど目も
くれない。友の苦労も知らず、まもなく通りの角へと去っていった。
「やれやれ…」
 ふたたび頬杖をつき直し、ほっと一息。それから店内をぐるりと見回した。
 しみったれた店内とはいえ客は一応いる。常連らしき中年の男達、老人の連れ合い、休憩時間の
農夫。そこかしこで飛び交う楽しげな会話は、内容は聞き取れずとも耳に心地よい。ラヴィアンは
目を閉じて、しばし彼らのにぎわいに心を任せた。


 ラヴィアンは生来の話好きだ。話すのも、聞くのも大好きで、言葉に包まれていると落ち着く。
年がら年中口を開いており、食事と睡眠を取るときぐらいにしか休まない。食事中も、合間合間に
よく喋る。淋しさとか、静けさとかとは無縁の人間なのだった。
 もっとも、女としては、今一つ静かな方が需要があるらしい。噂はするが、自分のこととなると
とんと縁がない。目線を下げると、行儀悪く組まれた足が目に入った。
「この辺が差なのかしら…」
 先ほど通り過ぎていった二人の姿が頭に浮かぶ。
 仲が良いとはいえ、彼女とアリシアは大分違う人種だ。アリシアも話好きだけれど、ラヴィアン
ほどは喋らない。今の泥臭いその日暮らしを始めてからも、昔とあまり変わらない上品さを纏って
いるし。平たく言えば、ずっと女らしい。
 損な性分なのだろうか。そんなことを思いながら、短く揃えた前髪をいじってみる。
 もっと伸ばした方が良いかしら。そうした自分を想像して、人知れず笑みがこみ上げてくる。
 あぁ、なるほど。このへんが駄目なのか。


 とはいえ、これが生来のものなのだから。しょうがない。損得など知ったことか。
 ふふんと小さく笑うと、ラヴィアンは颯爽と足を組み直した。
「たまにはひとりもいいもんね」
 ぽつりと呟いてみる。
 まんざら強がりや気取った響きでもなかった。






「お待たせ致しました!」
 不意に頭上から快活な声が響き、ラヴィアンは慌ててテーブルから身を引いた。
 気付けば両手に大皿を乗せたウェイトレスが立っていた。
「マシュー海老のパスタ・バグロス風と、ミノタウロスのソテー、季節のサラダになります」
「待ちわびたわ!」
 テーブル一杯並べられてゆく料理に、ラヴィアンは歓声を上げる。さっきまでの考え事など忘れ
去り、たちまち目の前のご馳走に夢中になった。
 実は彼女、料理に目がない。旅の最中訪れた街ごとの名物を食べるのは、彼女の秘かな楽しみで
あった。何をかくそう、こんなへんぴな店に来たのもアリシアのためというよりは、ここが穴場と
聞いていたからだ。
 さっそく評判の料理を検分にかかる。まずはマシュー海老。40cmを越える巨体と、その身に
恥じぬ大鋏。自分より大きな魚も捕食するという噂も、まんざら嘘に聞こえない。てっぷりと肉の
つまった殻が、赤々とゆで上がった様子はもう堪らない。
 その海老のゆで汁を使っているグミル麦のパスタからは、やわらかい潮の香りが漂う。ソースを
用いない、天然の塩味だけで仕上げられており、透き通った太麺は職人のアルデンテ。
 香りではソテーの方も負けていない。癖のあるミノタウロスの胸肉の臭いがバターと混じり合い、
最高のスパイスとなって鼻を刺激する。ナイフをあてがうだけで切れるほど柔らかい肉は、もはや
口に運ばずにはいられない。
 季節のサラダは、裏の山に生えていた野草だ。


 溢れんばかりの衝動を抑えて、初めは一口ずつ食すに留める。
 心をこめて、ゆっくりと、丹念に丹念に味わった。
「あぁ……」
 両の目から、とめどなく涙が溢れた。
 なんて味だろう。海老が、肉が、野菜が、一つ一つの食材が口内で混ざり合い、競い合うように
荘厳な協奏曲を奏でる。頬が落ちるとはこのことか。感無量とはこのことか。
 もはや忍耐は無用だった。深呼吸をすると、聖アジョラに祈る間もなく、彼女は食に走った。
 久々の当たりで、胃に火がついてしまったようだ。普段から我慢し通しで溜めていた分、今日は
この店でとことん食い倒れてやろう。



 あまり隊費を使うと後が怖いのだが、今日ぐらいはいいだろう。
 なにしろ今日は……。















「うわぁ、ラヴィアンてば……見かけによらず、すごいのね」


 キッチンからラヴィアンの様子を覗いていたウェイトレスは唖然としていた。彼女のオーダーが
とても女ひとりで食べきれるような量ではなかったので、心配になって見ていたのだ。
 それが、なにやらぶつぶつ呟いていたかと思うと、急に凄まじい勢いで食べだしたものだから、
驚きのあまり食べっぷりに見とれてしまった。料理を運んで数分も経たないのに、マシュー海老が
もう殻ごと姿を消している。
 海老のような赤ら顔の店長が、奥から声をかけた。
「どうだい、ラファちゃん。あの姉ちゃんは食いきれそうかい?」
「どうもなにも、店長、あれじゃあ店のもの全部食べちゃいそうですよ」
 まだ覗いたまま、彼女も声を返す。
 それが妙に緊迫した物言いなので、店長は大笑いした。
「そいつぁいい。となると、追加の海老をゆでておく必要があるな」
「それにしてもすごい食べっぷり。男の人みたい」
「ああいう細っこい女が案外大食いなのさ。それより、ほら、こっち手伝ってくれ」
「はーい」
 陽気な返事をすると、ラファは店長の隣に落ち着き、食器を磨きだした。皿を洗う音と、料理の
音が、こぢんまりとした厨房に響く。
「それにしても、世の中って狭いわね」
 もう一度ラヴィアンを見やりながら、ラファはぽつりとひとりごちた。



 ラファがこの店に来たのは今朝早くのことだった。
 街を歩いていた折り、何ともなしに目に留まった店の雰囲気が気に入って、戸を叩いて言った。
「お給金はいらないので、今日だけここで働かせてもらえませんか?」
 仕込みの最中だった店長は、眉を顰めた。少女とはいえ、このご時世にそんなことを言ってくる
人間は疑わしい。
 一通り、素性やその他のことを尋ねられ、いくらか意地の悪い質問などもされた。それでも話を
しているうちに彼の表情は和らいでゆき、結局のところ雇ってもらえるところとなった。
 もともと人の好い男だったし、人手はあるに越したことは無い。見れば可愛らしい少女である。
気まぐれに花を愛でるような心境だった。
 ラファにしても、こういう頼みごとは初めてではないので、なんとなく気に入られるコツのよう
なものを身につけていた。第一印象で、雇ってもらえそうかどうかを判別するのも肝心だ。彼女は
時折空いた時間を見つけると、こうして日雇いの労働をするのが趣味なのだった。
 仕事の内容はさして重要ではなかった。強いて言えば、その仕事が平凡なものであること。それ
がラファの望みであり、目的でもあった。
 物心ついた頃から陽の当たらない世界にいたラファは、平素に生きる人々の暮らしを知らない。
そこに憧れながら、飛び立つことも、目を背けることも出来ず、ただただ深い闇へ沈んでいった。
 良いことなど何ひとつなかった。目を覆いたくなるような毎日の連続。それに慣れてゆく自分も
怖かった。今この瞬間も着けている腕輪の下には、あの頃の躊躇い傷が無数にある。
 兄と共にラムザに救われてからは、世界が変わった。自分を好いてくれる仲間ができ、心の穴が
埋まっていった。不思議なほど、明るい自分に出会えたのだった。


 ラムザ達も決して表立った生き方が出来ているわけではなかった。異端者という重苦しい烙印。
それでも、ラファには彼らがとても立派に見えた。大事なのは生きている場所ではなく、心の持ち
ようなのだと悟る。
 ラファは平素に生きる人々の心を知りたいと思った。いつも太陽の下で生きているあなたたちは
どんな生活を送っているのかと。そうして、おずおずと手を差し伸べてみたのだ。
 自分の考えは間違っていなかったとラファは思う。何度も何度も人々と仕事を共にするうちに、
ようやく気付けた。誰もが顔を上げている。ひたむきに笑っているのだ。そうして顔を見上げると、
自分の頭上にも太陽が輝いていた。
 いつだったか、死ぬことしか考えられなかった時期。兄に、辛いことだって無駄にはならない、
だから生きるんだと、慰められたことがあった。今ではよくわかる。あの不幸な日々があったから
こそ、今がこんなにも楽しい。
 ナイフを磨くという作業が、こんなにも愛おしく思えるなんて。
「ラファちゃん、どうした?」
「え?」
 思い出して、少し涙が出ていた。
「あら、玉ねぎが染みたみたい」
「大丈夫か、疲れたなら休んでもいいんだぞ」
「平気、平気。それよりちゃんと働くから、約束忘れないで下さいよ」
「へっ。ちゃっかりしてんな」
 給金はいらないと申し出たとき、それでは流石に悪いと思ったのか、今日一日しっかり働いたら
自分の手料理を振る舞ってやると、店長が約束してくれたのだ。
 兄への土産ができたと、これにはラファも大喜びだった。


 そういえば、兄は今頃どこにいるのだろう?
 まぁ、おそらくどこか街外れを、あても無くぶらぶらうろついているに違いない。
 だって今日は……。
















「なあ」
「なんだい」
「いつまでついて来るんだよ、あんたは」
 腕を組んだまま、不機嫌そうに歩いていたマラークは振り向いた。
 いつもの騎士服ではなく、洒落た衣装を纏ったベイオウーフが肩をすくめる。
「いつまで、というか、さっきから言ってるようにだね」
「話をしないか」
 憮然とした顔で、マラークが先を継ぐ。ベイオウーフは顔をほころばせた。
「そうそう。なにしろ我々はあまり話したことが無いからな。良い機会じゃないか」
「あまり話さないなら、このまま話さなくてもいい」
「しかしだね、もう話している」
「そういうやり取りはやめてくれ。大体、あんた女房は放っといていいのか?」
「なに、年がら年中一緒にいてもね、飽きてしまうだろう?」
「飽きるのか?」
「まさか」
 またもや顔をほころばせ、今ここにいない女房を自慢するかのように腰に手をやるベイオ。
 マラークは溜息をつき、そのまま歩き出した。やはりベイオウーフも続く。お互いに無言のまま
夏の街道をなおも歩いた。
 やがて、通りのむこうから十数人の子供の群れが走って来た。誰も手に手に風車を持っており、
車を回そうとはしゃぎながら走り抜けていく。その一団が二人を通り過ぎると小さな風が舞った。
子供は風の子、か。マラークは無感情に、口の中でそう呟く。


「別に俺が嫌いというわけでもないだろう?」
 背後から、ベイオウーフが言った。
 いつもの穏和な調子ではない、くだけた口調だった。やや驚いたが、マラークは歩を緩めなかった。
「……変な奴だ、あんたは」
「よく言われる」
 後ろでくぐもった笑い声がする。その仕草も、かなり野卑たものだった。まったく、変な奴だ。
さっきまでは完璧な紳士だったくせに、まるでつかみどころがない。
 だが、嫌いじゃない。
 それは彼の言う通りであった。基本的に、貴族の臭いのする人間は好きになれないはずなのに、
ベイオウーフに対してはその類いの嫌悪感はまるで沸かない。というか、気のせいかどこか自分に
近しい臭いすら感じられる。まっとうな生き方をしてこなかった人間の空気。
 騎士団長の座を追われ、長く諸国を放浪していたという話だが、色々あったのだろうな。いや、
もしくはもっとそれ以前に…。
 気付けばベイオウーフは隣に並んでいた。マラークは固く組んだ腕を解いた。 
「なんで俺なんだ?」
「言ったろ、話をしたいと」
「わざわざレーゼを放ってくるほどのか?」
「レーゼがいたら話にならないんでな」
「男の話、ってわけか」 
「なあ」
 不意にベイオウーフが立ち止まる。つられてマラークも立ち止まった。
 先ほどまでとは打って変わって真面目な表情だった。気付けば人通りは無く、彼ら以外に人影は
なかった。あたりに静かな時間が流れる。
 やがて、ベイオウーフがゆっくりと口を開いた。 



「お前、女に興味ないのか?」



 マラークは停止した。
 あまりに予想外な問いかけに、言葉を失う。
「聞いてるんだ。あるのか、ないのか?」
「………」
「女はいいぞー。あんなにいいものはない」
「……あんた」
「俺は大好きだ。男なら当然だ。お前はどうなんだ」
「俺は………おい、何だこの話は! 馬鹿にしてんのか!」
「それとも」
 ベイオウーフの口元が意地悪く歪んだ。
「妹にしか興味ないか?」
「なんだと?!」
 突如、湯が沸騰したようにマラークの血が上った。怒りに身を任せて目の前の男に掴み掛かる。
「ラファを侮辱する気か!」
「おい、落ち着けよ」
 襟首を掴まれても、ベイオウーフは一向に介さずへらへらしている。
「ただの質問だぜ。答えられないのか?」
「黙れ!!」
「まさか図星だったのか?」
「貴様、それ以上言うと……!!」
「ラファ、ラファ、ラファか。お前、何のために生きてるんだ?」 
「なんだと…」


 マラークの手の力がわずかに緩んだ。
 その途端、先のマラークよりもずっと乱暴にベイオウーフが彼の襟首を掴んだ。持ち上げられ、
両の足が宙を漂う。
「くっ……」
「聞けよ、マラーク」
 マラークは顔を歪め、ベイオウーフの手を引き剥がそうとした。
 しかし、首を掴む右手は微動だにしない。
「なあ聞けよ。俺はさ、今の仲間が気に入ってるんだ」
 ぴくりとも動けなかった。ただ、ベイオウーフの声だけが聞こえる。 
「どいつもこいつも、胸張って生きてるだろ。かっこいいもんさ。
 何するにしても、とにかく連中、頑張ってるよ。お前の妹の、ラファもそうだ」
「……」
「ところでだ、お前は何してるんだ。一人日陰で砂いじりか?
 そうでもなきゃ、地面に模様描いて瞑想か?
 大の男が日がな天幕に籠って、そりゃ気持ち悪いったらないぜ。
 それをご親切に仲間が話しかけてきても、ろくに返事もしやがらねえ。何様なんだ、お前は」
 言葉と裏腹に、ベイオウーフの声は穏やかだった。息もせず、ただ自分を見下ろしているマラー
クに、彼は言葉を続ける。
「妹の幸せが望みなのか? 結構な話だよ。ラファが成長して、美人になるだろうなぁ。それから
いずれは所帯持って、子供も産まれるだろうな。母親似の可愛い子供が。幸せだろうな。それで、
お前は『マラークおじさん』にでもなりたいのか? それがお前の幸せか?」
 ベイオウーフはなおも言う。
「それがお前の人生なのか?」



 ベイオウーフはもう一度問うた。それから、ゆっくりとマラークの身体を下ろした。マラークの
顔からは激情が消えていたが、その目は依然として彼を見据えていた。
 ベイオウーフは言う。
「……そうやって、ラファのせいにして生きるのか?」


 マラークは無言で襟を直すと、ベイオウーフの手をゆっくりと解き、それから少しだけむせた。
沈黙があたりに染み渡った。
 どのくらいの間、そうしていたのかは分からない。ただ、やがて口を開いたマラークの顔には、
怒りや迷いの色は無かった。
「そういうわけじゃないんだ」
 静かな口調。
 ベイオウーフもよれた襟を直し、彼の言葉に耳を傾けた。
「妹のせいにする気はないんだ。確かに、甘えちまってるなと思うことはよくあるんだが。
 ただ、そうじゃなくて単純に……」
「慣れないのか?」
「そうだと思う。居心地が、良すぎる」
 マラークは頭をかき、どこか淋しそうに言った。
 頷き、それからベイオウーフは笑う。やはり自分の見込みは間違っていなかった。
 この男は、とても優しい人間なのだ。しかし、汚れに浸かっていた時間があまりにも長過ぎて、
妹以外にその感情を注ぐ相手を知らないのだ。そのすべを知らないのだ。
 良い奴なのだ。髪型は変だが。
「でかい割に案外ガキだなお前は」
「大きなお世話だ。で、どうすりゃいいんだ?」
「俺に聞くのか、それを」
「白々しいな。全部分かってたくせによ。それが話の本題なんだろうが」
「まあな。じゃあ、教えてやる。とりあえずお前に必要なのはダチだ。親友だ」
「そりゃまた、なぜだ」
「今みたいに自分を話さないから、中が腐るんだ。で、そういう話はラファにはできないだろ?」
「まあな。……親友か、ハードルが高いな。で、誰を親友にすればいいんだ」
「俺だ」
「やっぱりな」
 ニヤリと笑みが溢れる。男二人、しばらく気持ちの悪い笑い声を上げた。
 それからマラークが言った。
「それで、親友として、まずはなにをすればいい?」
「何事においても、人間関係ってのは共通の体験を通して深まるもんさ」
「つまり?」
「これから女を漁りに行く。付き合え」
「そこに戻るのかよ」
「なんでもいいんだが、俺が教えられそうなのはこれくらいなんでな」
「あんた、ほんっと変な奴だな」
 マラークはまた笑った。
 それでこの男はこんな格好をしていたのか。変な奴だが、凄い奴だ。
「そういうわけだ、さっそくクラウドチョコボを借りに行くぞ。足が無いナンパは冴えない」
「しかし、こんな田舎町でどこに女を連れてくんだ?」
「町外れに穴場の料亭があるらしい。季節のサラダが食わせるとか、そこにしけこむとしよう」
「笑えるほど慣れてんな。なんでも付き合うぜ、友人」
「そこはベイオで行こう。俺もマラとでも呼ぶ」
「それはやめろ」
 笑い声。
 話も決まり、二人連れ立って歩き出した。
「今からだと少し、遅くなりそうだな」
「構うか。今日は帰る必要がないんだ」
「それもそうか。しかし、レーゼにバレても俺は知らんぜ?」
「親友てのは秘密を共有するもんだ」


 肩を組みながら、二人はチョコボの厩舎へと向かっていった。今日のところは帰らないだろう。
 というのも今日は……。

















「二人乗りはするなよ」
 ブラシで毛を梳いてやったばかりの二羽を引き渡しながら、クラウドは警告した。
「分かってる」
「そんなこと夢にも考えないさ」
 言われたマラークとベイオウーフはいやに上機嫌で、それぞれ自分のチョコボに鞍を乗せると、
いそいそと厩舎を飛び出していった。
 二人を見送って、クラウドは小さく舌打ちをした。
「あの調子じゃ………やるな」
 もっとも今日は鎧具足で乗るわけでもないようだし、それほど毛も痛まないだろうが。いずれに
しても戻って来たらブラシをかけ直してやらないとな。
 今日は特別むし暑い。少しばかり外の風に涼んでから、クラウドは再び厩舎へと戻っていった。
 そこは彼の仕事場であり、家であった。


 異世界人のクラウドラムザ達の仲間に加わったとき、いくつかの面倒があった。
 クラウドの仕事を決めるときも、そうだった。異世界人など、言っては悪いが得体が知れない。
口には出さなかったが、みな扱いに困るという様子だった。彼の愛想がもう少しよければまた話も
違ったのだろうが、その点に関しては聖アジョラでも救いようがなかった。
 仲間のそんな様子を察してしまったものだから、ラムザもどうしたものかと困っていたのだが、
事態はあっさりと好転した。
 このとき、考え込むラムザの後方で、ラッドが持ち物を運んでいた。ところが、昼寝をしていた
ボコに気付かずに足を引っかけ、誤ってボコの上に荷物を落としてしまったのだ。仰天したボコは
野営の中を猛烈に走り回る。天幕や荷物に衝突し、辺り一面にものをぶちまけていくボコ。慌てて
ラムザ達が止めに入ろうとしたそのとき、ヒュッと鋭い口笛がなった。
 途端にボコは首をもたげ、先ほどまでの暴れっぷりはどこへやら、口笛の主の元へと駆け寄って
いった。一同呆然として、ボコを撫でるクラウドの姿を見つめたものである。


 そういうわけで、一も二もなくクラウドチョコボの世話係となった。
 一人で全部やってくれる上に、仕事は何の問題もないとくれば、文句の一つもない。
 文句もなければ要望もなかった。興味本位で話しかけてくる連中も、初めのうちだけ。やがて、
無愛想に呆れて去っていく。だから、ラムザを除けば、ほとんど誰も彼に話しかけなかった。
 クラウドは何も話さなかった。


 
 *



「そういえば、ベイオ」
 悠々とチョコボを走らせながら、マラークは思いついて言った。
クラウドのことは、何か知らないのか?」
 並走するベイオウーフは、少し考え込んでから言った。
「知らないな。知る気もない」
 マラークは少し驚いた。
「意外だな。随分不人情じゃないか」
「そうかもしれないが」
 ベイオウーフはどうどうと手綱を引き、チョコボの歩を緩めさせる。マラークもそれに倣う。
「俺たちは、あいつのことを何も知らない」
「あぁ」
「もちろん、今の仲間にしたって知らないことはあるが、あいつのは意味が違う」
「そうだな」
「あいつは俺たちとは違う人間だ。あいつにもいろんな事情があるようだが、それは全てあいつの
世界に置いて来てしまったんだろう。だから知らないし、知りようがない」
「それで、あいつは、大丈夫なのかね」
 思案顔のマラークに、ベイオウーフは上機嫌で笑った。
「他人を気にかける余裕は出て来たみたいじゃないか」
「茶化すなよ」
「まあ、クラウドが何を考えているにしても、それは今この世界での話だ」
「ふむ?」
「向こうの世界のことは、向こうの世界でなきゃ解決しないだろうさ」
「そうだろうな。それで、俺たちはあいつを戻してやるためにも聖石を探す、と」
「そういうことだな」
「しかし本当に戻れるのかね、聖石さまのお力で」
「さあな……。ただ」
 ニヤリと笑って、ベイオウーフは鞭をならした。
「戻れるといいな、とは思う!」
「おい、急に飛ばすなよ!」
「見つけたぞ、二人組だ! 連れの姿も見当たらない!」
「え、あ、おい待てって!」
 慌てて鞭をならすマラーク。
 二人と二羽の姿は、あっという間に街道から姿を消した。


 *


 厩舎に戻ったクラウドは、途中であったボコの手入れをすませてやると、飼い葉が詰まった桶を
持って来て彼にあてがってやった。それから伸びをして、身体をほぐし、ボコの身体に寄りかかる
ように腰掛けた。
「美味いか?」
 くえ、とボコは威勢良く答え、また熱心に飼い葉に貪りつく。食べるたびに揺れる羽毛の感触が
心地良い。クラウドは満足して、目を閉じた。眠りに落ちる前に、懐から一つの宝玉を取り出し、
それを両手で抱いた。
 イヴァリースと呼ばれるこちらの世界にやって来てからというもの、以前の記憶がだいぶ薄れて
しまっていた。断片的に思い出せる事柄は、女装したり、豪壮な男と観覧車に乗るものだったり、
不確かという以前に頭が痛くなるような出来事ばかりだった。


 その頼りない記憶が、この宝玉は「マテリア」というのだと答えた。マテリアがどんなものかは
思い出せなかったが、これが自分の世界との繋がりだと思うと、自然と大切に感じられた。
 そうしてマテリアを握っていると、声が聞こえた。声は無数に広がり、誰も彼もが勝手なことを
忙しく喋っていた。そのほとんどが見知らぬ難解な言語だったので、クラウドにはよく聞き取れな
かったが、時折それに混ざって彼に呼びかける声があった。
 その声は、優しく、暖かく、ささやき、慰め、懇願し、笑いかけた。何度も聞き、何度も記憶を
辿ることでおぼろげに悟る。自分にも、かつてラムザ達のような仲間がいたこと。
 とてもよく知っているはずの声だった。でも思い出せない。分からなかった。ここに来てから、
何もかもが分からなかった。
 歯がゆかった。顔に霞のかかった相手と話しているようなものだ。なんとかそれをかき消そうと
しても、あやふやな記憶は答えない。やがて声は聞こえなくなってしまう。そのたび、彼は自分に
苛立った。
 けれど、その声は、いつも同じ言葉でお別れを言った。


「みんな待っているから」


 クラウドは目を開ける。
 夢の終わりはいつも同じ。幻を求めて目を開けても、そこには誰もいないのだ。
 それでも、落胆はしなかった。



「こら、よせ」
 クラウドが起きたのを見計らい、ボコが盛んに髪の毛を甘噛みし始めた。単に撫でて欲しいだけ
なのかと思ったが、いやにしつこい。桶には飼い葉がまだ残っていたので、空腹なようでもない。
ふと、ボコがやたらと首の縄を引いているので、思いついた。
「なんだ、外に出たいのか?」
 すぐさまボコが、くえ、と嘶く。どうやら借り出されて外に出かけてゆく仲間達を尻目に、自分
だけ留守番役を食らっているのが不満だったらしい。
 どうしたものか、とクラウドは考えかけて、すぐにやめた。そういえば今日は別に仕事をしてい
なくてもいいのだ。俺が出かけても問題ない。


「…よし、久しぶりに走るか」
「くえ!」
 縄を解いてやる。途端にボコは喜び勇んで表に飛び出た。世話はしていても、自分が乗ることは
意外に少ない。クラウドも久々の騎乗に、少しばかり心が沸いてきた。
 鞍を持って表に出ると、ボコが尾を振りながら待機していた。
 準備万端というところらしい。クラウドは苦笑する。さっと軽やかにボコの背に飛び乗り、耳の
裏を撫でてやった。
「行くか」
 そのとき、不意に頭のなかで声が響いた。
 



「第4レース! 開始、十秒前……!」





 同時に、クラウドの周囲に、幾人もの騎手の幻影が浮かび上がった。
 誰もが勇猛そうなチョコボにまたがり、すぐ隣の騎手はクラウドに中指を立てて挑発して来た。
 クラウドは呆然と周囲を見回した。やがて、ふっと笑う。
「こんなことも、あったっけな」
 またひとつ、戻って来た、故郷の記憶。胸が暖かく高なってゆく。



 クラウドはボコに座り直し、体勢を改めた。チョコボ本来の、羽を思うさまばたつかせる走法が
できるようにだ。それから先ほどの騎手に向けて、親指を下ろしてみせた。
 気付けば、ボコも息を荒くして左右に目を配っていた。背中越しに躍動が熱く伝わってくる。
「お前にも、見えるのか?」
 苛立たしげにボコは鼻を鳴らしてみせる。
 当たり前だ、と言いたいらしい。苦笑して、囁いてやる。
「いいとも、町外れまで、休みなしだぞ」
 カウントダウンの音がせまる。
 3、2、1………。クラウドは、懐のマテリアにそっと手を添えた。
「…必ず戻るさ。だから待っててくれよな」


 二人にしか聞こえないピストルの音が響き、クラウドとボコは飛び出す。
 金色の風が一陣舞い、街道を駆け抜けていった。


 風は当分止まないだろう、少なくともレースが終わるまでは。
 なぜなら今日は……。


















 表でひと際大きな風の音がしたあと、窓からひらひらと羽が迷いこんで来た。
 どこに落ちるのかと見守っていたそれは、やがて彼女の目の前に舞い降りた。つまみあげると、
艶の良い黄金色が光る。
「ふむ、どうやらうちのチョコボね」
 これだけ良く手入れされたチョコボが、失礼だがこんな田舎町にいるとは思えない。先刻街中を
歩いていたときだって、チョコボ自体をほとんどみかけなかったのだから。しかし、誰が乗り回し
ているのか知らないが、教会の前を全速で駆け抜けるとは、礼儀知らずな奴だ。
 それにしても、今日は暑い。床を拭いていた手を止め、ローブの中にばたばたと風を通す。
 そこへ教会の神父がのそのそとやって来た。
「騎士様……、少しお休みになられませぬか?」
 慌てて、彼女、メリアドールは佇まいを直した。
「ありがとうございます、でも、もう少しで済みますわ」
「さようでございますか。しかし、騎士様にこのような雑務を押し付けてしまって……
 誠になんと申しあげて良いやら」
「いえ、神に仕える者として、当然のことですわ。神父さまも、どうかお祈りにお戻りを」
 そう言って後押しするように微笑んでやると、気弱そうな老神父は恭しく頭を下げ、のそのそと
壇上へ戻っていった。それから、ちらほらと見える信者に向かってまた説教を説き始めた。


 田舎とはいえ、どこの町にも教会の一つぐらいは存在する。けれど、きちんとした聖堂があり、
立派なブロンズの十字架を架けている教会などごく稀である。ほとんどの教会は、その町の町民が
寄り合って建てた粗末なもので、この教会もまた、中央に木彫りの神像を掲げている点を除けば、
ほとんど周囲の家と大差ないようなものだった。
 教団側も、こんな類いの教会には目もかけない。先ほどの神父も、教団本部の派遣員ではない。
町民のひとりなのだろう。だから、さっきから聞こえてくる説教も、神殿騎士として正式な教育を
受けたメリアドールからしてみれば、間違いだらけの代物である。


 メリアドールは微笑む。そんなことは所詮、問題にならないのだ。神父の辿々しい、けれど心の
こもった言葉を聞き、ここに集った人々が、わずかな時間神の御心に触れる。これこそが、信仰の
本質であり、こんな田舎町にあってでもその姿が息づいていることに、彼女は感謝していた。
 信仰は尊ぶべきものだ。
 聖石の魔物や、教会の企み、多くの偽りを目にして来た後でも、やはりその想いは変わらない。
「いいお話ね」
 メリアドールと同様、神父の話に聞き入っていたレーゼが声を漏らした。
「知ってるの、この話?」
「『目のない人と、耳のない人』。ちょっと違ってるみたいだけど、よく覚えてるわ」
「そういえば、あなたは教会暮らしが長かったんですものね」
「お互いね」
 クスクスと笑い合う二人。それからまた、お互い床を拭く作業に戻った。
「でも驚いたわ、たまたま訪れた教会で、まさか神殿騎士様が雑巾がけしてるなんてね」
 拭きながら、レーゼがおかしそうに言う。とはいえ、まんざら偶然というわけでもなかった。
 レーゼは初め、一人で町中を散歩していたのだが、ふと先を歩くメリアドールの姿を見付けた。
そこで声をかけようとしたところ、メリアドールは建物の一つに入っていった。近づいて、戸口を
眺めると小さな十字架が架けられている。
 で、好奇心から中を覗いてみた。もちろん、彼女はそれほど詮索好きな性格でもないので、少し
様子を確かめたらすぐに立ち去るつもりだったのだが、まさかいきなりメリアドールが雑巾がけを
しているとは夢にも思わない。驚きのあまり、つい話しかけ、結局成り行きで自分も手伝うことに
してしまった。
 そういうわけだから、たまたまと言えばたまたまだが、むしろこの場合、
「主のお導きよ」
 ぼさっとメリアドールが呟くと、レーゼは吹き出した。
 メリアドールも笑い、そのはずみにフードが下りて来た。苛立たしげにそれをたくし上げる。
「ああもう、鬱陶しい」
「脱いだら? 下にも服は着ているんでしょう?」
「いいのよ、このままで」
「見てるだけで暑そうよ」
「大したことないわよ」
「でも」
「わかってるでしょ?」
 少し強く言うと、レーゼは頷く。
「ええ、わかってるわ。脱がないのよねそれは」
「そうよ」
 それから二人、また雑巾がけに没頭した。


 メリアドールは神殿騎士の法衣を決して脱がない。それはレーゼのみならず、ラムザたちみなが
知っていることだった。
 理由を聞いても答えないことは分かっていた。だから、誰も深く気に留めたり、しつこく詮索を
するようなこともしなかった。それでも、おぼろげに察することができたのは、メリアドールは、
自分たちの仲間であっても、決して異端者ではないのだろうということだった。
 言うまでもなく、彼女は隊の中で最も敬虔なグレバドス教信者であり、その心底には深い信仰を
携えている。それでも、教会に対立しているラムザ達を密告したりはしないし、それどころか現状
行動を共にしてすらいる。傍から見れば、彼女の行動は矛盾だらけなのかもしれない。
 それでも、メリアドールは法衣を脱ごうとはしない。


「もう少し身軽な衣装だったら良かったのに」
 床に垂れたローブの裾をつまみ、レーゼが憐れむように言った。
 今度はメリアドールも笑って答える。
「いいのよ、これくらい地味で分かりやすい格好の方が、どこにいっても認知されやすいもの」
「それで、どこにいっても掃除を手伝うことができるのね?」
「働き者は等しく救われるのよ」
「『労働は美徳』」
 レーゼが説話の題の一つを挙げた。
「その通り、それ、私の好きな話」
 指を立てて応じるメリアドール。それから言った。
「さっきはごめんなさいね、レーゼ」
 レーゼが顔を上げる。
「突然、泣いたりして」
 微笑むメリアドールの目元に、涙のあとが滲んでいた。
 数分前に突然溢れ出し、レーゼを驚かせ、そして消えていった、涙だった。






「時々ね、辛くなるのよ」 
 いつのまにか神父の説教は終わり、ミサは賛美歌の段を迎えていた。小さな教会に、子供たちの
鳩のような歌声が可愛らしく響く。レーゼが言った。
「泣くのは悪いことじゃないわ」
「そうね」
「抱え込むばかりでは、いられないもの」
 よくわかる。メリアドールは頷いた。今の私は、幸福なのだ。以前ならば、本音を曝け出すこと
など到底できなかった。そうさせてくれる相手が、どこにもいなかったから。
 ただ一人を除いて。


「私、きっと父上を殺すのね」
 呟き、メリアドールは遠くを見つめた。彼女の目に、父親が、弟の姿が映っていた。
「誰にもあなたを止められないわ」
 レーゼはまた、床を拭いていた。拭きながら、メリアドールには目もくれずに言う。
「それが正しいと思うから、そうするんでしょう」
「ええ」
「その法衣を脱ごうとしないように、ね」
 メリアドールは目を丸くして、レーゼを見つめた。
「あなたって、なんでもお見通しなのね」
 返事はなかった。彼女はただ幸せそうに、床の木目を磨いていた。






「さて、一段落」
 雑巾を絞りながら、レーゼは息をつく。
「働いたら、お腹がへったわね。遅めのランチにしない?」
「いいわね。そういえば今日、彼は?」
「いいのよ今日は」
「あら珍しい、喧嘩?」
「年がら年中一緒にいても、飽きてしまうでしょ?」
「飽きるの?」
「まさか」
「知らないわよ、縄も着けないで。浮気されちゃったりしてね」
 メリアドールは意地の悪い声をかける。すると、
「その場合は」
 微笑みながら、レーゼはぐっと雑巾を絞り、
「面白いことになるわね」
 途端に、ざばーとおびただしい量の水が流れ出した。
 笑いながら、背筋を震わせるメリアドールだった。


 のそのそと足を引きずりながら、老神父がやってきた。
「お二方とも、お疲れ様でございました」
 丁寧に頭を下げ、感謝の辞を述べる。
 禿げ上がった頭が、かすかに照った。
「生憎、ろくなお礼もいたせませんのですが、もしお食事がお済みでないようでございましたら、
町外れにせがれのやっとる料亭がございます。そこそこ評判にもさせていただいているようで、
ぜひお立ち寄りいただければと……」
「あら、素敵」
「ありがとうございます、神父さま」
「私からの紹介と言えば、せがれにも伝わりますので」
 そう言うと、神父はまた頭を下げ、のそのそと歩いていった。
「いい神父さまね」
 遠ざかる、小さな背姿を見送りながら、レーゼが言う。
 メリアドールも頷いた。
「そうね。あれだけ感謝してもらえると、労働の甲斐もあるし」
「いつも教会に立ち寄るのは、このため?」
「それは半分、やっぱり教会って、いると落ち着くのよ。
 でも誰かのために頑張って、感謝されるって、素敵なことよね」
「もっとも、」
 ふと、レーゼが意味ありげに微笑む。
「『誰かさん』は感謝してくれないでしょうね」
 メリアドールも不敵に笑う。
「そこは、それ、無償の愛というものよ」
 二人クスクスと笑った。
 それからバケツと雑巾を片付けにかかった。


 時を知らせる教会の鐘が鳴り響く。
 鐘が鳴っているうちは、二人の笑い声はやまないだろう。
 なぜなら今日は……。
















「………つまりだね、遠く離れた陸地の遺跡に、驚くほどの類似点が見付けられたって事なんだ。
このことから、かつて全ての陸地は一つだったなんていう説も打ち立てられているぐらいさ」
「なるほど、興味深い」


 町からやや離れた小高い丘の上。
 講釈をする青年と、それを聴く老人。町の方角から、優しい鐘の音が四つやってきた。
「おっと、こんな時間か。少し休憩しようぜ、八号にも油を注したいしさ」
「うむ、私にも手伝えそうかな?」
「見るだけにしてくれよ。おっさんが手を出すと、壊れるからな」
 青年がけらけら笑うと、老人は微かに心外そうな皺を寄せたが、それはすぐに和やかな苦笑へと
変わった。そうして、少し離れた木陰に休ませている労働八号の元へ、連れ立って歩き出した。
 生意気な物言いの青年はムスタディオ、落ち着き払った大柄の老人はオルランドゥ伯であった。 


 この二人、実はことあるごとに行動を共にしているのだが、どういうわけでつるんでいるのかは
隊の仲間も疑問に思うところであった。それというのも、片や諸国に名を轟かせる、名将オルラン
ドゥ伯であり、片や隊の中でも道化者として軽んじられるムスタディオである。誰がどう見たって
釣り合うような取り合わせではない。
 それどころか、ムスタディオの言動がまた、滅茶苦茶なのだ。肩を組み、軽口を叩き、酒を飲み
交わし、あげくのはてには、頭を叩く。おまけに「おっさん」呼ばわりである。ラムザ隊の中のみ
ならず、畏国広しといえども雷神を「おっさん」呼ばわりするのは彼だけだろう。かつての主君で
あるゴルターナ公ですら、そうは言わなかったに違いない。言うはずもないが。
 そういうわけで、ムスタディオが伯と話すたび、ラムザを筆頭にして仲間達はみな、いつ雷神の
怒りが爆発するものかと、はらはらしつつ見守っていたのだが、当の本人達はどこ吹く風、陽気に
笑い合うばかりなのだった。
 もっとも、何事にも始まりはある。彼らの付き合いにも、一応の過程が存在した。


 今の仲間達がそうであるように、ムスタディオも以前は伯を畏れ、敬っていた。むしろ、元々の
身分の差もあって、人一倍恐れていたといえる。もちろん話そうなどと、夢にも思わない。
 そんなある日、労働八号の整備をしていたときのことだ。ふと作業をやめて顔を上げると、すぐ
横を伯が通り過ぎていった。たちまち震え上がりながらも、一応の挨拶を交わす。もちろんそれが
精一杯で、後はすぐまた作業に没頭した。内心で、早く去ってくれることを祈りながら。
 ところがどういうわけなのか、伯はいつまでたってもその辺をうろうろしている。それどころか
チラチラと自分の方を窺っているではないか。
 ムスタディオの方は気が気でない。いったい俺が何をしたってんだ。自問をするも答えはない。
そのうち、とうとう伯は彼のすぐ後ろにやって来た。辛抱しきれず、恐る恐る振り向いた。
 すると、意外にも伯の視線は自分とずれていた。顔ではなく、もう少し下方、作業を続けている
手のあたりに向けられている。どういうわけだ、と考えていると、視線に気付いた伯が慌てて目を
逸らす。不意に、ムスタディオは閃いた。
「………機械に、興味がおありで?」  
 途端に雷神は眉間に皺を寄せ、何度か目を瞬く。
 それから、照れくさそうに頷いた。


「趣味なのだよ」
 そう言った伯は、昔からからくり仕掛けの類いに目がなく、老いてからも、貿易商などからこと
あるごとに、その類いの代物を仕入れたりしていた、けれど大抵は二束三文のガラクタで、いつも
息子のオーランに窘められているのだが、どうにもやめられない、労働八号も初めて見たときから
なんとか一度、中身を覗いてみたいと思っていたのだ、そんなことを語った。
 結論から言うと、話を聞き終わるから終わらないうちに、ムスタディオの態度はどんどん崩れて
いった。今まで畏怖すら抱いていた伯のあまりに平凡な顔を見て、ツボにはまってしまったのだ。
もともと馴れ馴れしい質のムスタディオである。伯が話し終わったときにはもう、「雷神シド」は
「おっさん」に変わっていた。
 ただこのときは、彼にもまだ、今より若干の遠慮が残っていた。要するに、伯が懇願するので、
うっかり労働八号をいじらせてしまったのだ。そのため、配線をちぎられた八号が暴走し、辺りに
砲撃を乱発するという顛末を得た。
 以来、ムスタディオは伯の機工学の師ということで、付き合いを続けている。



「どうした、おっさん」
 そう呼ぶのを躊躇っていた時があったことなど、すっかり忘れているムスタディオは、後ろから
遅れてやって来る伯に声をかけた。
「疲れたのかい?」
「いや、なに、少し考え事をな」
「やだねえ、年寄り臭え」
「生憎と年寄りでな」
 伯は笑う。いつもながら、ムスタディオの軽口は容赦がない。
 周囲の者はどうやらいつも懸念しているらしい。自分がいつ、この青年に腹を立てるものかと。
その心配は理解できる、実際腹を立ててもいいのではないかと思うこともあった。しかし、それが
どうにもできなかった。
 ムスタディオの人柄のせい、というわけでもない。どちらかと言えば、彼は叱りつけやすい方の
部類だ。現によく、他の仲間にどやしつけられている姿を目撃する。そうではなく、ただ彼と話を
していると、どこか懐かしい想いにとらわれるのだった。
 最近になってようやく分かった。ムスタディオは、自分に友人として接してきているのだった。
倍以上も年の離れた自分を友人扱いしている。あまりに意外すぎて、そんなこともわからなかった
のだ。友人など、失って久しい。
 かつて自分にも存在した多くの友人達は、みなこの世を去っていった。それも時の流れなのだと
ずっと納得した顔をしていた。年をとるということは、そうやって、徐々に何かを失ってゆくこと
なのだと。いつかこの世を去るための準備なのだと。
 ムスタディオに気付かされた。どれだけ老いたとはいえ、友人がいないというのはとても淋しい
ことなのだと。自分は淋しかったのだ。感謝したい。
 とはいえ、そんな話をムスタディオにすれば、笑って言うだろう。
「年寄りは、面倒なことばかり考えやがる」
 そうなのかもしれない。ムスタディオは若さを体現するかのように、どこまでも実直だ。対する
自分は、やはり面倒くさいのだろう。もう随分年をとったのだ。それも悪くないと、今は思える。
出会いというものがあった。
 とにかく、伯はこの年の離れた友人を気に入っていた。
 そしてまた、別の理由で評価もしていた。



「ところで、これが完成したのだが」
 そう言って伯は手荷物からそれを取り出した。
 先日からムスタディオの指導の元で製作していた、魔力で火を灯す、油いらずのランプである。
「お、できたのか。どれどれ拝見しましょう」
「しかし、どうにも動かん。言われたとおりに作ったつもりなのだが…」
 ムスタディオはしばらく受け取ったランプをいじっていたが、やがてずいと突き返した。
「おっさん、ここ、線が違う。赤、赤、緑だ」
「なに。赤、緑、赤ではなかったか」
「違うって。赤、赤、緑。こうしないと、魔力が循環しないんだよ。
 だから火、つけてもすぐ消えちゃうだろ?」
「確かに、なるほどなるほど」
 シドは頷き、感服の声を出す。大したものだと、改めて思った。
 彼が世間話のように話してくれる、機工学の知識。それらが今の世にとって、革命的とも言える
ほどのものであること、それが機械に疎い自分にもおぼろげに分かるのだ。王宮付きの学者どもに
この話を聞かせたら、目を丸くするに違いない。いや、現実には、認めようともしないだろう。
 だが、事実は違う。いつかこの戦乱が終わりこの国に平穏が戻ったとき、必ず彼のような人間が
必要とされる時代が来る。どれだけ貴族が認めたがらずとも、それは覆せない。
 いかに身分の差のくだらないことか。しかし、今はそれが厳然と存在する世界なのである。
 それが自分が戦場に身を置く理由かもしれない。いつか彼らが表舞台に立つことが出来るよう、
世界を救う。命をかける理由としては、十分ではないか。
 そしてまた、一人の友人としても、喜んで自分は尽力するだろう。





 夕日が丘を赤く染め、その上に佇む三つの人影を照らしていた。
「気分はどうだ、八号?」
「各部、異常アリマセン」
 ムスタディオが声をかける。油を注したばかりだからだろうか、無機質な音声が、いつもよりも
どこか上機嫌なように聞こえた。


「うむ」
 ムスタディオは草生えに腰を下ろし、どっかりと胡座をかいた。
「おっさんの番だぜ。さ、聴かせてくれや」
 ニヤつきながら、催促するように手を叩く。
 伯は笑った。時折、妙に無邪気なところがある奴だ。
「どこまで話したかな?」
「娼館に行ったら、愛人二人が鉢合わせたところからだよ。で、どうなった?!」
「そうだったな」
 記憶をたぐりながら、伯も腰掛けた。今度は彼がムスタディオに講釈をする番なのだった。
 というのもこの愛すべき友人は、どうやら女運に恵まれないらしい。隊の娘たちにちょっかいを
かけていることがよくあるが、どれも実を結んでないようだ。まあ傍から見れば、ふざけていると
しか思えないような行動ばかりなのだが、ともかく熱意はあるらしい。自分の過去の女遍歴などを
話してやると、熱心に耳を傾けてくる。
 もっとも、こんな話を学んだところで実際は何の足しにもならないのだが、これほど熱心に聞い
てもらえるのならば、伯としても断る由もない。つまるところ、これが彼らの習慣となった。
「しかし、その事件は少しばかり話が長くなるな」
 ムスタディオがゲラゲラ笑った。
「おっさんの話はいつも長えよ、なあ?」
「統計デハ、平均ニシテ四時間二十三分十四秒ホドデス」
 いつのまにか、ムスタディオの隣に腰掛けていた労働八号も応える。
 伯は苦笑し、丘下の彼らの野営を見下ろしてから、言った。
「そうか、それに今日は時間を気にする必要もないのだったな」
「そういうことさ」
「ソウイウコトデス」
 陽が落ち、空に青い幕が張りだした。
 ムスタディオはランプに火を灯し、伯が話しやすいように足下に置いた。


 ランプの火が消えることはないだろう。
 四時間二十三分十四秒が過ぎた、その後も。
 それは、今日が……。


















 くしゅん、と小さなくしゃみの音がした。
 街から離れた雑木林の中、今朝方設営した野営、ラムザアグリアスの二人だけがそこにいた。
 陽は丘の向こうに遠ざかり、あたりに静けさと闇が立ち籠めた。昼間の猛暑はもう姿を顰めて、
ほんのりと涼しい空気が二人を包んでいる。ラムザは荷物に手を伸ばし、毛布を取り出した。腕の
中で眠るアグリアスにかけてやる。
 いくつも並ぶ天幕。そのどれを探しても、誰もいない。この小さな空間に二人きりだった。
 ラムザは夜空を仰ぎ、そしてこの場にいない仲間達へ、そっと感謝の念を抱いた。今夜は決して
誰も帰って来ることはない。自分とアグリアスの二人だけなのである。
 なぜなら、今日はアグリアスの誕生日。この状況は、不器用な恋人見習いであるふたりのために
用意された、仲間達からのささやかなプレゼントだった。


 ふと、ラムザの傍らに、小さな包み箱が転がっているのが目に入った。先ほど毛布を取り出した
ときに転がり出たのであろうそれを手に取りながら、ラムザは苦笑する。ほんの少し前まで、彼の
心をかき回していたものだった。
 本来なら恋人として迎える、初の誕生日である。恋愛事に不慣れなラムザだが、この日のために
彼なりの用意をしていた。その包みもそう、精一杯心を込めて選んだ贈り物。揶揄される覚悟で、
隊の女性達に相談までしていた。
 そうして今日、日がな語り合った時間が過ぎ、しんみりとした夜が訪れて、今か今かと贈り物を
手渡す機をうかがっていたのだが、そうこうする内に、当のアグリアスが眠ってしまったのだった。
彼女らしい話である。自分の誕生日など、自覚もしていなかった。ラムザも、どっと気が抜けて、
起こす気にもならなかった。


 出かけていった仲間達は、今頃、何をしているのだろうか。
 帰って来た彼らに何と言い訳したものか。ラムザは思案する。相談相手になってくれた女性陣は、
とても許してくれそうにないな。情けない笑みがこぼれる。
 その微笑みも、その下の寝顔も、幸せなものだった。





 星が所狭しときらめいていた。
 遠く街の灯も消え、焚き火の火も尻つぼみ。アグリアスは静かな寝息を立てていた。
 ラムザは念のため、何度か彼女の名を呼んだ。以前、一度寝たふりに騙されたことがあるのだ。
それでも、何度目かでどうやら眠っているらしいと確かめた。そうして、彼女を起こさないように、
そっと小さなキスをした。
 贈り物が出来なかった彼にとって、この瞬間だけが、彼女を祝えるささやかな時間。
 形の良い耳に顔を近づけ、囁いた。


「誕生日おめでとう、アグリアス



 耳にかかった吐息がくすぐったかったのか、アグリアスはわずかに身をよじった。
 その寝顔に満足して、ラムザも目を閉じる。


 夜が明けて、真相を聞かされたアグリアスはどんな顔をするだろうか。
 ラムザは想像し、やがて心地よい眠りに落ちた。





 終