氏作。Part30スレより。






「私はおまえを信じる!」


 …あの言葉は本心だった。
 そう、ほんの少し前まで、私の中に存在した確固たる本心だった。


「どうしたんですか? アグリアスさん?」


 その男の声は、いつものように穏やかで、まるでそこが戦場であることを忘れさせるような、
とても落ち着いた声だった。


「はあ、はあっ…!」


 私は今、その声の主から…逃げている。ただひたすらに逃げている。
 武器はない。あの男が奪ったから。
 防具もない。部隊内の防具を整理すると言われ、丸め込まれて、ほいと置いてきた。
 夜の帳に包まれた砂漠を、間抜けな私はただただ走っていた。


「そんなに慌てて、アグリアスさんらしくないですよ?」


 着の身着のままテントから逃げてきた私の姿は、果たしてあの男に見えているのだろうか。
きっと見えているのだろう。必死に逃げているにも関わらず、あの男の声は同じ声量で聞こえてくる。
 …私は声の主に問うた。


「ラ…ラムザ…貴様、正気か…ッ!」
「はい」


 ぞくりとした。
 抑揚もなく答えたあの男は、紛れもなく正気なのであろう。



 ラムザは変わってしまった。
 魔法で体の自由を奪い身包みを剥ぎ、逃げ惑う敵兵に容赦なくとどめを刺し――
いつからか、彼は敵を、人を殺めることに躊躇いを感じなくなってしまったようだった。


「その方が効率がいいんです」


 いつぞやに、そう彼は嘯いた。


 ――否。効率などではない。
 明らかに非効率的なやり方だ。まるで自分の力をただ試そうとしているような、そんな戦い方だった。


 私は、いつからか彼に違和感を感じるようになった。
 …それはどのくらい前だっただろうか…。


アグリアスさん…敵前逃亡なんて、普通だったら許されませんよ?」


 あの男の言葉が、私の心の臓から体温を奪っていくように思えた。考え事は終わりだ。逃げなければ――


「フフ…そんなに怯えて…アグリアスさんらしくないですね」
「…ッ!」


 その言葉に私は臍をかんだ。悔しさのあまり、私は彼を睨みつけようと振り向いた。


「ははっ、怖いなあアグリアスさんは」


 声は、私の耳元から聞こえてきた。いつの間にか接近していた彼の顔が、目と鼻の先にあったのだ。




「う、わ…ッ!?」


 突然の出現に私は体勢を崩し、砂地の上を無様に転がった。結わえた髪がばらりとほどけ、私の視界を
無数の金色の線が遮った。


「く…っ!」
「怖いですよ、アグリアスさん。そんな目で見ないでください」


 眼前の男がにこにこと微笑みながらゆっくりと歩み寄ってきて――剣で足下を払う。


「ぐあっ!?」
「もうこれで、逃げられませんね」


 薙いだ剣の切っ先に、私の血がべとりと乗る。男は安心したように顔をほころばせ、近寄ってくる。
 …悪夢だ。これは悪い夢だ。夢なら…夢なら早くさめてくれ…。


ラムザ…おまえは本当にラムザなのか…!?」
「はい。僕の名前はラムザです。紛れもなく、正真正銘の、ね」


 再び私は彼に問うた。現実は何も変わらない。
 私はそれを否定した。首を横に振った。現実を退けたかった。…しかしそれで現実が覆るわけは、ない。


「おとなしくしててくださいね。…死ぬも生きるも剣持つ定め…」


 奴の剣から伸びる闇の蛇が、月明かりを食っている。


「地獄で悟れ…暗の剣」
「うっ…ああ…!」



 うねる蛇が私を貫いた…。だんだんと気が遠くなっていく。
 痛みはない。ただ、体の中から生気を奪われていく感覚に包まれている。
 まるで、肉体の器から、魂を抜かれているように。


「大丈夫ですか? アグリアスさん」
「………」


 私は答えなかった。男は不服そうに私に顔を近づける。


アグリアスさん?」


 私は答えなかった。…私は、答えられなかった。私の心の剣が折れた音が、聞こえてしまったから。


「しょうがないですね…これ以上いたぶるのも可哀想だし」


 ずく、と男は私の胸に剣を立てた。


「安心してください。これからは、僕と一緒ですから」


 ずずずず、と男が少しずつ剣に力を込めていく。灼けるような痛みに、私の体がびくびくと痙攣する。


アリシアも、ラヴィアンも、ラッドも」


 私の体が、剣をすべて飲み込んだ。


「ムスタディオも、ガフガリオンも、そう」


 声が出ない。


アグリアスさんの聖剣技も、僕が受け継ぎますから、安心してください」


 ずるるるっ、と、私の体が引っ張られて…血みどろの剣が、一振り、生まれた。


アグリアスさん」


 私の頬を伝う涙を、男は優しく拭いてくれた。私はほんの少しだけ、微笑んだかもしれない。
 そして、今度は私が、この男に飲み込まれる番。


 そうして、男は私に剣を






「う、うわああああッ!」


 体をびくりと痙攣させて、私は目覚めた。
 どくんどくんと、自分の心臓の音が聞こえる。ふうふうと呼吸もままならない。
 体を起こして額に手をやれば、寝汗で体中びっしょりになっていることに気付かされる。
 見渡してみると、ここは小さな小屋の一室のようだ。夕暮れ時なのか、日はだいぶ傾いている。


 …夢。夢だった。酷い夢だ。なんて酷い夢だ。



 私は気だるさの残る体をベッドから無理矢理に起こし、鏡の前に立った。
 そこに映ったのは、紛れもなく私の顔、アグリアスオークスの顔だった。
 疲れているのか、ちょっと面やつれした感じがする。おまけに目の下にはくまが出来ていた。


「我ながら…なんと無様な顔だ」


 自嘲しながら安堵のため息を漏らす。あんな夢を見た後だ、こんな様になるのも無理はあるまい。


アグリアスさん、大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫だ。心配するな」


 ラムザの声がする。いつも通りの声が、私に安心感を与えてくれる。


アグリアス様、無理は禁物です」
「そうですよ〜、あなたに何かあったら私たちも困ります〜」


 アリシアとラヴィアンの声だ。


「フフッ、大丈夫だ。何も心配はいらない」


 私は鏡に向かって力なく微笑み………



 振り返って、周囲に誰もいないことに気がついた。












 ………。




「どうしました?」


 ラムザの声が聞こえる。…いったいどこから?


アグリアス?」
「どうしたんだアグリアス
アグリアス様?」
「おい、どうかしたのか?」


 口々に、皆が私に問いかける。しかし、姿はどこにもない。


「どうしたんですかアグリアスさん」
「…いや、皆どこにいるんだ…?」



 …私は、問いたくなかった。


「やだなあ、忘れたんですか?」


 …私は、その答えを聞きたくなかった。


「僕はここにいるじゃないですか」


 …私は、心の中で問うてしまった。どこに…? と。


「あなたの中ですよ」


 …問うてもいないのに、答えは返ってきた。


「お忘れですかアグリアス様」
「今更どうしたんだ?」


 私はかぶりを振った。


「大丈夫、私たちがついてますよ」
「心配はいらないんだろ?」


 私は、かぶりを振った。


「今のアグリアスには、俺たちの力が全部ついてる」
「今のアグリアスなら、誰にも負けないだろうな」


 私はラムザの顔を思い出そうとした。…しかし、思い出せない。



「ほら、剣を忘れてる」
「そうだ。おまえのだろ」


 …血みどろの剣が一振り転がっている。夢の中で見たあの剣が。


アグリアス?」
アグリアス
アグリアス様?」


 嫌、嘘よ、誰か、助けて、誰か…!


「駄目ですよアグリアスさん、あなたの代わりはいないんですから」


 鏡に映った私は、笑っていた。かつて親しげに話していた、誰かさんの笑顔だった。


「僕たちの分まで、がんばってくださいね、アグリアスさん」


 鏡に映ったラムザの笑顔が、血の海に飲み込まれて見えなくなって…
 私の悲鳴が、誰にも聞こえることなく響いていた…。






END