氏作。Part26スレより。



 機工都市ゴーグ。そこは独自の文化と技術を持つ街である。
 ゴーグは、その技術力の高さにより、獅子戦争時には黒獅子、白獅子両陣営から工作兵の
派遣を要請されたほどであったが、自立心の強いゴーグの市民はこれを拒否した。
 国や教会に対する忠誠とはまた別のレベルのプライドが、この街の市民にはあったのだ。
それは、自分達が納得しなければ決して誰にも与せず、という気風を生み出している。
 獅子戦争後、ラムザアグリアスがここに居を定めたのはその意味では必然的といえた。
 その、ゴーグの街の中心街──。


「やはり移民の流入が多いようだな」
 とアグリアスは、並んで歩く、深々とフードを被った巡礼風の男に言った。
「そうですね。ゴーグは戦争であまり傷つかなかったし、財政的にも豊かだし、行き場を
失った移民が目指すとすれば、こういうところなんでしょうね」
 答えたのはラムザである。教会が組織の再興のため異端者狩りの手を緩めているとはいえ、
そしてゴーグ市民に盲目的なグレバドス信者が少なかったとはいえ、ラムザが素顔を晒して
歩くのは危険であった。そこで、外出するときにはアグリアスは傭兵に、ラムザは巡礼に、
身を窶していたのである。今日は食料の買い出しであった。
「あ、そうだ。こないだ、向かいのパベルさんからオレンジを大量に頂きましたね。パベル
さんが院長の救貧院て、この近くじゃなかったですか」
「そういえばそうだな。──ああ、あれだ。『セスペス救貧院』」
 移民や難民の流入が相次ぐゴーグでは、孤児院や救貧院の建設が急ピッチで進んでいた。
その中には、ラムザの隣人が運営を任されているものもあった。


「挨拶していきますか、パベルさんに」
 ラムザはそんなことを言った。アグリアスは気乗りしなさそうだった。
「あの夫妻には世話になってるが……あまり街中に留まるのも──どうしたラムザ?」
 アグリアスは途中で言葉を切って、ラムザの顔を覗き込んだ。ラムザの表情は強張って
いた。目は大きく見開かれ、口はあんぐりと開いたまま。そしてその視線の先には──
(──あの少女を見ているのか?)
 セスペス救貧院は、病室の窓を大きく開け放っていた。
 ラムザの視線の先には、ベッドに横たわる一人の少女がいた。
(……ずいぶんまた……)
 アグリアスが顔をしかめたほど、その少女は哀れな姿かたちであった。栗色の髪をした、
顔だけはなかなか可愛らしい少女であったが、その表情はうつろで、満足に食事を摂って
いるのかと疑いたくなるほどやせこけて、何より痛々しいのは首から二の腕にかけて見ら
れるひどい火傷の痕であった。
 その少女をラムザは凝視していたが、やにわにフードを後ろに跳ね除けると、救貧院の
窓に駆け寄った。アグリアスが止める暇もなかった。
「やっぱり!」
 ラムザは窓際で大声を上げた。少女はびくりとしてラムザのほうを見る。殺されそうな
小動物のような、怯えきった表情だった。アグリアスも慌てて駆け寄る。
ラムザ、どうしたんだ! こんな往来で素顔を??その子がどうしたんだ?」
 ラムザアグリアスの声が聞こえないかのようだった。窓の中に上半身を突っ込み、
必死の形相で少女に声をかける。
「どうしたんだ、僕が分からないの!? 答えてよ……答えてよ! ──ティータッ!!」
 ラムザはあたり構わず、そう絶叫した。


「そうか、あの子はティータってのか」
 セスペス救貧院のパベル・セスペス院長は、茶を啜りながらそう言った。
「──いや、私達も困っててね。身元なんざどっちでもいいが、何しろあの怯えよう……
よほど酷い目に遭ったんだろうな。当番の人間を怖がって、満足に食事も摂ってないんだ」
 窓辺の少女が知己であると知ったラムザは、アグリアスが止めるのも聞かず救貧院の
院長室に赴き、院長のパベルに面会を求めた。ラムザたちの隣人であるパベルは、彼らが
追われる身であることを知りながらも良くしてくれる、数少ない信頼できる人物だった。
「彼女はどういう経緯でここに来たんですか?」
 勢い込んでラムザは尋ねた。
「ここに来る前のことは私も知らんのだがね。ガリランドの救貧院からはるばる回されて
きたんだ。あっちは先の戦乱の主戦場だろ? とてもあれだけ弱った女の子の面倒なんぞ
見られんわな。彼女だけじゃない。弱者はみんな、ゴーグだのウォージリスだの、余裕の
あるところに送られとるよ。あれだけ弱った子がここまで来るだけでも大変だろうにな」
 顔をしかめて、パベル院長は答えた。
「おまけにあの子は精神に重大なダメージを負っちまってた。殆どまともな思考が出来ず、
誰を見ても怯えるんだ。こっちも何とかしてやりたいんだが、医者不足のご時世、心の病
まで見てくれる人間などおらんのだよ。──しかし、あんたがたが知り合いだってのは
幸いだ。ひょっとしたら彼女の心が解れるかも知れん。少し会ってやってくれんかね」
 パベル院長はそんな提案をした。
「是非会わせて下さい。僕は──」
 ラムザの声は震えていた。
「僕は、彼女に──ティータに対して責任があるんだ!」
 そう叫んだラムザの表情は、アグリアスがこれまで見たこともないほど険しかった。


ティータ、ティータ。……僕だよ、分かるかい?」
 ラムザはこれ以上できるのかというくらい優しく、病床の少女に声をかけた。
「……?」
 先程はいきなりラムザに騒ぎ立てられ怯えたティータであったが、ラムザの優しい囁きに、
今度は空ろな目を向けはしても、怖がる様子はなかった。ただ、やはりラムザを認識は出来
ないようだった。怪訝そうに彼の端正な顔を眺めているだけだ。
ティータ、本当に分からないのか。僕だよ。ラムザだ。ラムザ・ベオルブ」
 あくまで声を荒げず、しかし必死に、ラムザティータに訴える。しかし反応はない。
(──やはり、無駄なのですかね)
 アグリアスは傍らにいるパベルに小声でそう聞いてみた。しかしパベルは
(──いや、見慣れてない人間の問いかけに、大人しく反応するってこと自体、珍しいよ。
これは、ひょっとしたら──)
 と期待を持ったようだった。ラムザはなおも声をかける。
「──ねぇ、ティータ、覚えてない? 僕の家の裏庭で、アルマと3人で苺を狩っただろ? 
それに、ほら、川に行って、ニジマスを捕まえたり──」
 ティータの面上に、不思議な変化が現れた。
 青白い頬に僅かだが血の気が差し、目が心なしか輝き始め、口からは言葉が漏れ──
「ア、ア、──」
ティータ、頑張って! 思い出せるかい? 僕だ。ラムザだよ!」
「ア、アア、……ラ…ム…ザ…、──ラム…ザ……にい……さま……?」
 微かながら、しっかりと、ティータはその名前を口にした。
 ティータの目から、涙が毀れる。そして、ラムザの目からも。ラムザは恐ろしく優しく、
そしてしっかりと、か細い少女を抱きしめた。
 たっぷり一分も、ラムザティータを抱擁していたが、おもむろに彼女を離すと、涙で
濡れた顔を、呆然と見つめているアグリアスとパベルのほうへ向け、言ったのである。
「パベルさん、この子、うちで面倒を見たいんですが」
 と。


「──ラムザ、お前、自分のしたことが分かっているのか?」
 ティータを伴って自宅に帰りついた後、アグリアスが発した第一声が、それだった。
「以前お前から聞いた話では、あの少女は、ディリータ新王の妹なのだろう。万が一彼女が
生存していることを、嗅ぎ付けられでもしたら──」
「僕には──」
 アグリアスの抗議をさえぎるように、ラムザは口を開いた。
「──僕には、守りたかったのに守れなかった人間が、二人います」
「……守れなかった人間?」
「ええ。……一人は、母です。僕の生母は平民出身ということで、ベオルブ家の中では肩身の
狭い思いをしていました。僕やアルマの前では気丈に振舞っていましたが、誰もいないところ
ではずいぶん泣いていたようです。──僕はそんな母の支えになってあげたかった」
「……」
「でも、母は僕がまだ幼いうちに死んでしまった。最後の最後まで、母は寂しいままでした。
僕は彼女の支えになれなかったんです。そして、もう一人僕が守ってやりたかったのが──」
 ラムザは奥の部屋で横になっているティータにちらりと目をやってから、続けた。
「──彼女、ティータです。父の肝煎りで、彼女も貴族の学校へ通ったけど、平民出身と
いうことで、ものすごい虐めにあった。アルマが出来る限り庇っていたようですけど、それ
すらも虐めの対象になったようでした。でも、彼女の悲劇はそれで終わらなかった──」
「……」
「結局彼女は、ベオルブと骸旅団の争いの犠牲になった。しかも結果的に彼女を切り捨てたのは、
僕の実兄でした。……僕が殺したわけじゃない。でも、僕が守れなかったことに変わりはない」
「──気持ちは分かる。しかし、現実問題として──」
「現実問題?」
 ラムザは、きっとなってアグリアスを睨みすえた。
「そうだ。我々は、精神医療の心得がある訳でもない。彼女の心を癒す具体的な手立ては?」
「パベルさんも言ってたじゃないですか。気心の知れた者がいたほうが、まだしも治り
やすいかもって」
「それだけではない。彼女の将来的なこともある。お前はどうしたいのだ。最終的には
彼女をディリータ王の下に送り届けるつもりなのか?」
「冗談じゃない!」
 ラムザは思わず叫んだ。もっとも、隣室のティータが怖がってはいけないと、それほど
声を荒げはしなかった。
「もう二度と、彼女が政治の道具にされるようなことは──!」
「……そのとおり。彼女を新王の元に送り届けたところで、おそらく新たな政争の道具に
されるだけだ。彼女の心が治ろうが治るまいがな。逆に言えば、彼女はほぼ半永久的に、
新王ではない誰かの庇護の下で生きていかねばならんのだ。──新王にも、取り巻きにも、
彼女の存在を気取られぬように、守り抜いてゆかねばならん。お前、一生彼女の面倒を
見る覚悟はあるのか?」
「やりますよ。僕の……僕の義務だ!」
「言うだけなら誰でも言える。──だがな、我々は追われる身なのだぞ。王室のみならず、
教会からも身を隠さねばならん。今は幸い平穏だが、いつ何時刺客に襲われるか分かった
ものではない。それなのに病人の面倒を見るような余裕は──」
アグリアスさん!!」
 今度こそラムザは大声をあげ、机を叩いて立ち上がった。
「そういう問題じゃないでしょう! 人を助けるのに、いちいち自分のことを考えてたら──」
「しかし考えないわけにはいくまい。いざというときに手弱女がいたのでは足手まといに──」
「貴女がそんな人だとは思わなかったッ!!」
 おそらく──
 ラムザがここまでアグリアスに敵意を剥き出しにするは、初めてであったろう。
「僕は、一時の感情で言ってるわけじゃない。ちゃんと、刺客の危険も顧慮しています! その
上で、彼女の面倒を見たいといってるんだ! これは……僕の生き方そのものの問題なんです!」



「信念は何があっても貫くべきもの。そのことを僕に教えてくれたのは、貴女だったのに!!」
 ラムザは蒼白になりながら、絶叫した。
「……」
 アグリアスはしばらく難しい顔をして黙っていたが、やがて、重々しく口を開いた。
「──許せ」
「……は?」
「さっきの私の言葉は本意ではない。……いみじくもお前がさっき言ったように、激情に駆られて
軽率な判断をしているのではないかと──まぁ、ちょっとカマをかけてみただけだ」
「え──」
「お前がリスクをちゃんと計算して彼女の面倒を見る──というなら、私も覚悟は出来ている。
妻なのだからな。──お前の信念は、私の信念でもある」
アグリアスさん……」
「それに私も……結果としてオヴェリア様を守れなかった。あんな思いは……二度とごめんだ」
「……」
 アグリアスの最後のほうの言葉は、消え入るようであった。
「──僕のほうこそ、失礼なことを言ったかもしれない……すいません」
「気にするな……お前の性格は分かっている」
 アグリアスは苦笑した。
 二人はそのままティータが寝ている寝室に移動した。互いの大声で目を覚ましていないか気に
なったのだ。だが、ティータはよほど疲れていたのか、何事も無かったように寝入っている。
「……それにしてもひどい火傷だな。顔が傷ついてないのがまだしも幸いだが……」
ジークデン砦の爆発は凄絶でした。よく生きていたものです。あの後どこをどうしていたのか……」
 ラムザはいたわるようにティータのか細い手を取った。
ティータ、必ず僕が……僕とアグリアスさんが、元気にしてやるからな──」
 染み入るように優しい声で、ラムザは呟いた。アグリアスはそれを、ほんの少しだけ嫉妬の表情を
交えて見守っていた。



 かくして、ティータ・ハイラルラムザ家の一員となった。
 ラムザアグリアスは、かいがいしくティータの面倒を見た。パベル夫妻も何くれと気を
使ってくれたし、ムスタディオのところに居候しているアルマも、旧友のために足しげく通い、
彼女の心を癒すべく、努力を惜しまなかった。
 その結果、薄紙を剥ぐようにではあるが、ティータの心は回復し、次第に会話も出来る
ようになってきた。
 ラムザ達はティータの面倒を見ながら、折を見て様々なことを聞き出した。ジークデン砦
では、ティータとディリータはどうやら爆発で別々の場所に吹っ飛ばされたらしく、そのため
ディリータは彼女が死んだと思っているであろうこと、どうして助かったのかは分からないが、
そのあとは、ガリランドからゴーグへまわされたらしいこと、しかし、精神的なショックと
衰弱で、記憶を殆ど失っていたこと、など。
 ディリータが国王になったことにはさすがに驚いたようだが、兄の下へは絶対に行きたくない、
ティータは断言した。彼女が貴族社会で味わった苦しみを考えれば、それは当然といえた。
 もっとも、ティータがいちばん衝撃を受けたのは、ラムザアグリアスと結婚したことのよう
だった。幼い頃から、彼女はラムザに惹かれていた。その相手が妻帯者になっていたというのは、
さすがにショックであったろう。しかし健気にも、ティータはその事実を受け止めた。ラムザ
の思慕は変わらないながらも、自分の中で、それはそれと折り合いを付けたようであった。
 そして、半年ほど経ち、季節は冬を迎え──


「今年の冬は冷えますね」
 居間で昼食後のお茶を啜ったラムザが言った。窓の外はどんよりと曇っている。
「ああ、下手をすると雪になるかもしれんな」
 アグリアスは答えた。例年、畏国南部のゴーグ周辺で雪が降ることはまず無い。しかし
この冬は特に寒さが厳しく、既に北のザランダからは降雪の情報も入っていた。
「そうなると、市内まで行くのもひと苦労ですね??おっと、ティータに薬を持って
いかなくちゃ」
「私が持っていこう。ラムザは少し休んでいろ。朝から働き通しだろ」
「すいません。じゃ、お願いします」
 アグリアスは盆に薬湯と栄養価の高い食物を乗せて、ティータの部屋に向かった。
初めはアグリアスの姿にも怯えていたティータだが、今ではそんなことも無い。
「??気分はどう、寒くない?」
 アグリアスはそう声をかけた。ベッドの上のティータは、まだまだ弱々しかったが、
半年前に比べれば、ずいぶん元気そうであった。微かに笑って答える。
「大……丈夫、です。寒く……ない」
「そう、ならいいけど、今年の冬は厳しいからね。風邪を引かないように気をつけなさい」
 アグリアスティータに対しては、男言葉を使わない。面倒を見始めた当初から、彼女が
少しでも怖がらないようにと気を使った結果である。
「お薬と、果物を持ってきたからね。ちゃんと食べるのよ」
 とうてい旺盛とはいえないが、しかし始めのころに比べれば遥かにしっかりと、ティータは
食事を摂っている。最近は血色も悪くない。食事と薬を与えてから、しばらくアグリアス
ティータとよもやま話をした。もっとも、ティータが自分から何かを言うことはまずない。
たいていはアグリアスが話しかけ、ティータがそれに応じるといった格好だ。
(よく笑うようになったな……)
 とアグリアスは感じた。それだけ精神的に余裕が出てきたのだろう。
「──ふーん、あなた、編み物が得意なの?」
「はい……昔は……よく、ラムザ兄様や……アルマにも、編んであげました……」
「羨ましいなぁ。私、手先だけは不器用なのよね。包丁使うのも、かなり難儀だったわ」
 二人の女性は楽しそうに会話をかさねた。
 暖炉にたくさんくべられた薪のお陰で、部屋の中は快適である。


 かなり長いこと、アグリアスティータと話し込んでいた。すでに夕刻に近い。
(さて、そろそろ夕食の支度に戻らんと……おや──?)
 ティータの表情が、おかしい。
 窓の外を、張り裂けんばかりに目を見開いて見つめている。
「どうしたの、ティータ?」
 アグリアスは声をかけたが、ティータは答えない。のみならず、顔色は蒼白であり、
そして明らかにその表情には、恐怖の色が浮かんでいた。
「どうしたの、ティータ、窓の外に何かいるの?」
 しかし、戦場で磨かれたアグリアスの研ぎ澄まされた勘をもってしても、誰かが窓の
外にいるような気配は感じない。
「あ、あ……アア……」
 ティータは怯えきっている。そのか細い身体がかたかたと震える。
ラムザ! ??ラムザ、ちょっと来てくれ! ティータがおかしい!」
 アグリアスは叫んだ。
「──どうしました!?」
 ラムザが駆け込んできた。アグリアスティータを指し示し、
「急に怯え始めたんだ。窓の外を見て──」
「──窓?」
 ラムザも窓に目をやる。相変わらず戸外は黒い雲が垂れ込め、そしてちらちらと
白いものが──
「しまった!!」
 ラムザは窓に駆け寄り、慌ててカーテンを引いた。
「ど、どうしたんだ?」
「雪です! あの時ジークデン砦は雪が降っていた。──彼女にとって雪はトラウマ
だったんですよ、くそ、迂闊だった!」
 ラムザは歯噛みしたが、後の祭りだった。
「火には気をつけていたけど、雪に対してティータが怯えることを計算に入れてなかった
なんて! 畜生、なんてこった! どうしてこう間抜けなんだ僕は!」
 めったに使わない激しい言葉で、ラムザは己を罵った。しかしすぐに、それどころでは
ないとばかりに、ベッドに駆け寄る。
ティータ、大丈夫かい? ティータ!」
「あああ……ア、ア……」 
「ごめんよティータ、僕がうっかりしていた。──大丈夫。誰も君に危害を加えたり
しない。ここは安全だよ、ティータ!」
 ラムザティータを落ち着かせようと必死に言葉を重ねたが、やはりティータの雪に
対するトラウマは並大抵ではなかったらしく、身をすくめ、その双眼は恐怖のために
翳っていた──さながら半年前に戻ったかのごとく。
「なんてこった──!」
 もう一度、痛切に、ラムザはおめいた。
「折角ここまで回復したってのに。これじゃ元のもくあみだ──」
 ラムザは項垂れた。
 アグリアスはこんな時にも、いや、こんな時だからこそ、冷静であろうとした。
「……とにかく、今夜は徹夜でティータのそばにいないとまずいな。半狂乱になって
ふらふら出て行ったりしたらことだ」
「──そうですね……」
 ラムザは頭を上げ、頷いた。


 畏国南部のゴーグとはいえ、さすがに雪が降るとその寒さは生半可ではない。
 心のケアももちろんだが、ティータが風邪を引かないようにも、二人は気を使わねば
ならなかった。ラムザは軽く夕食を済ませると、風呂にも入らずに、ティータのそばに
付きっきりでいた。
 すでに深更であった。
「……どうだ、様子は」
 こちらも寝ずの番を覚悟したアグリアスが声をかけた。
「小康状態……ですかね。でもまだ震えてるし、いつ錯乱するか分からないし……」
 ラムザは嘆息した。
 ティータは布団のなかでただでさえ細い身体をさらに縮めるようにしていた。
 眠っているわけでもなく、ただ恐怖のために身を竦めている。ラムザは、布団の隅から
僅かにのぞくティータの手を握り、優しくさすってやっていた。
「……ラムザ、少し休んだほうがいいのではないか」
「──ですけど……」
「気持ちは分かるが、このような時一番モノをいうのは体力だ。我々が倒れてしまっては
元も子もあるまい。──ティータだって、そんなことは望んでいないだろう」
「……」
「お前が休んでいる間は、私が責任を持って彼女を見る。だから、少しでも休んで体力を
保っておけ。……というか、こういう時くらい頼れ。妻なんだから」
 苦笑しながらアグリアスは言う。
「お前はなんでもかんでも背負おうとしすぎだ。──よくない癖だぞ、それは」
「……すみません」
 ラムザは頭を下げた。
「じゃ、向こうのソファで仮眠を取ります。しばらくお願いしますね」
「任せておけ」



 アグリアスはベッドに座り、ティータのか細い手を握った。
「??大丈夫、ティータ?」
 優しく声をかける。ティータはアグリアスに怯えこそしないものの、不安は抑えられ
ないらしく、目はうつろであり、細かな震えも止まらぬようだった。
「私達がついてるからね。大丈夫よ。──出来れば眠れるといいのだけど……」
 一番恐ろしいのは、眠れずに体力が低下することだ。そのまま風邪をひいてこじらせでも
したら、ただではすまない。今のティータは、とても大病に耐えられる身体ではないのだ。
「何とかして眠れないかな──え?」
「あ、アア──!」
 ティータが声を上げた。
「ど、どうしたの、ティータ!?」
「アア、あ、助けて、──助けて、兄さん、ラムザ兄さま!」
「ティ、ティータ!?」
「あ、アアア、痛い──ああ、うう……助けて、助け──」
 どうやら、ジークデン砦でのことを思い出して、恐慌をきたしたようだ。
ラムザを起こすか?……いやしかしラムザも眠ったばかりだし──)
 アグリアスは少し迷ったが、すぐに決断した。
「あ……エ──?」
 彼女も布団に潜り込んで横になり、ティータを両腕で抱きしめたのだ。
 怯えないように優しく、痛がらないように柔らかく……
「大丈夫。大丈夫よ、ティータ。悪いことは起こらないからね──」
 ティータの耳に口を寄せ、そう囁いた。
「私がついてる。私が、ずっと抱きしめててあげるから、だから大丈夫よ……ね?」
「あ、アア──」
 ティータは、アグリアスの腕の中で声をあげた。


(このまま、眠ってくれるといいんだが……)
 アグリアスにしっかり抱きしめられ、ティータはいくらか大人しくなった。夜着ごしに
伝わってくる心臓の鼓動はまだ早いし、いくらか汗ばんでもいるが、表情は落ち着いてきた。
(大丈夫のようだな……)
 むしろ暴れたことで、ティータは体力を消耗したらしく、次第に眠気を催してきたよう
だった。その顔から恐怖の色が消えていく。
(このまま、一晩こうしているかな……)
 アグリアスは朝が来るまで、ティータを抱きしめて眠ることにした。下手に離れたりしたら、
また恐慌をきたすかもしれない。
「私が付いているから……ね?」
 最後にもう一度、アグリアスがそう言うと、ティータは安心したように眼を閉じた。しばらく
すると、微かだがしっかりした寝息を立て始めた。
(やれやれ……)
 アグリアスは胸をなでおろした。そして、改めてティータの顔と体を眺める。
階級闘争の犠牲……か……)
 アグリアスも貴族階級の出身である。ノブリス・オブリージという建前は彼女も学習したが、
実際の貴族がいかに平民など顧みないものであるかは、彼女もよく知っていた。その象徴が、今
彼女の横で静かな寝息を立てる少女であろう。
(むごいものだな……罪もない少女がこれほどの目に遭うとは……)
 そこまで考えて、彼女はかつての主君のことを思い浮かべた。
(そうか……オヴェリア様──あの方も、貴族の私利私欲のために利用されるだけだった……。
そして結局、私はあの方をお守りすることが出来なかった……)
 そのことはアグリアスにとって人生最大の痛恨事だったといえる。
(──ティータ、あなたは必ず私が守る。……オヴェリア様の分も……)
 アグリアスティータの亜麻色の髪を撫でながら、心の中でそう呟いた。
(もう、誰も失いたくない──誰かを守れずに後悔するのは、二度とごめんだ……!)
 それが今の彼女の思いのすべてであった。



「──ん……」
 窓の外から、鳥の声が聞こえる。夜が明けたようだ。
「……いつの間にか眠ってしまったのか。……と、ティータは?」
 ティータは、アグリアスのすぐ横で、安らかに寝息を立てていた。少なくともその寝顔に
不安や恐怖の色は見られない。
 小さなノックの音がした。
「──アグリアスさん、起きてますか」
 ラムザの声だ。さすがにティータのことを考えてか、大きな声は出さない。
「ああ、起きているよ」
 アグリアスが応じると、ラムザは静かに扉を開けて滑り込んできた。
「すいません、疲れてたせいか、夜が明けるまで寝てしまって……ティータは──?」
「大丈夫、落ち着いてるよ。……そういえば、雪は?」
「やんだようです。というか、ちらついた程度だったみたいですね。積もらなくてよかった。
積もった雪を見たら、また怖がるでしょうから……ところで、アルマが来てるんですよ」
「……アルマ殿が?」
「ええ。で、ティータが落ち着いてるならここに入れたいんですが。みんな居間に集まると、
またティータが一人で怖がるかもしれないし」
「そうだな……静かにしてればティータは大丈夫だろう。では、アルマ殿にご足労願おうか」
 ラムザは居間からアルマを連れてきた。アルマは闊達な笑顔を見せた。
「お早うございます、アグリアスさん……ティータ、大丈夫ですか?」
「お久しぶりです、アルマ殿。ティータは持ち直しました。ところで今日は──?」
「兄さんに届け物があったんですけど、それよりまずこれを──」
 アルマは包みから小さな冊子を取り出し、ラムザに差し出した。
「これは……日記……?」
「ムスタディオさんが闇市で見つけてきたの。戦乱のドサクサで、旧貴族家の貴重品が大量に
流出してるらしいのね。その中にこれがあって……兄さん、裏を見てみて」
 いわれるままにラムザは日記の裏を見る。そして目を丸くした。
「!! ──な、……ザルバッグ・ベオルブ!? ザルバッグ兄さんの……日記!?」
「筆跡や花押は間違いなくザルバッグ兄さんのものよね……それより、ここを見て」
 アルマはあるページを開いて指し示した。
「……。──なん……だって!?」
 素早く日記に目を通し、そしてラムザが驚きの声を上げる。
「なんだ、何が書いてあったんだ?」
 アグリアスはもどかしげに言った。ラムザはなんともいえない顔で答えた。
「……簡単に言えば、ティータを助けたのは、ザルバッグ兄さんだった……らしいです……」
「ザルバック殿が!?」
「ええ。……読み上げますね。『──アルガスにティータを射抜くよう命じたのは確かに私だ。
しかし、あの娘を犠牲にして良い道理など、どこにあるだろううか。私はジークデン砦爆発後、
もっとも信頼できる部下ハイアットに、ティータの捜索を命じた。彼は首尾よくティータを
見つけ出してくれた。私は極秘に彼女を収容し、かねて懇意のガリランドのモーカス救貧院の
院長に彼女をゆだねた。あの人物なら身元の詮索などもせずに引き受けてくれるだろう。
ティータは、もう貴族と関わらない場所で生きていったほうが良い。これが無力な私に出来る
精一杯の彼女への贖罪である。……彼女の将来が今までより少しでも良いものであるよう祈り
たい。聖アジョラよ、憐れな少女を見守りたまえ──』」
 そこにいた全員が、何かにうたれたように沈黙した。──それでは、あっさりとか弱い少女を
見捨てたように見えたザルバッグも、やはり罪の意識に苛まれていたのか。
「ザルバッグ兄さん……」
「……ムスタディオさんが調べてくれたんだけどね」
 アルマが口を開いた。
「そのハイアットって騎士は、戦死したらしいの。この日記のとおりだとすれば、ザルバッグ
兄さんはティータを助けたことと、その身元を誰にも話してないようだし、この日記さえ処分
してしまえば、当面ティータの存在は誰にも気取られることはないと思うわ」
「なんとも危ないところだったな……」
 アグリアスも言葉を添えた。
「この日記がムスタディオの眼に止まったからいいようなものの、もし悪意あるものの手に
渡っていたら、ティータの存在が世間に知れるところだったぞ」
「そうですね……しかし、ザルバッグ兄さんがティータを救ってくれていたなんて……」
 敬虔な雰囲気が辺りを包んだ。
 アグリアスが立ち上がり、胸に手を当て、眼を瞑り、祈りを唱えた。
「神よ。この心優しき騎士に、黄泉での安らかな眠りを与えたまえ。──ファーラム」
「──ファーラム」
 ラムザとアルマも眼を瞑り、唱和した。
 澄んだ静謐が、朝の光の中に満ちた。
「──ところで兄さん」
 最初に眼を開けたアルマが、封筒を差し出した。
「これ、ムスタディオさんから」
「……そういえば届け物があるなんて言ってたけど、なんだい、これ?」
「開けてみて」
「うん……。……? え、こ、これって!?」
「な、なんだラムザ?」
「見てください、これ!」
 ラムザは手にした一枚の書類を、アグリアスのほうにかざした。
「こ、これは──ゴーグの市民登録証? ほ、本物か?」
「の、ようですが……いや、もしかして、ムスタディオが偽造したのか!?」 
「ご名答──大きな声では言えないけどね」
 アルマが答えた。
「兄さんこないだ、ムスタディオさんのところに来て、ティータが別の人間として生きて
いける手立てはないか、なんて言ったでしょ。それでムスタディオさんが考えたのが、
これってわけ。──どう? 本物そっくりでしょう」
 市民登録証があれば、ゴーグ市民として正式に認められる。そうなれば、ティータは
大手を振って別人として生きていけるわけだ。ムスタディオはその登録に必要な書類を、
持ち前の手先の器用さで偽造したのである。
「──さすがムスタディオ。本物と寸分違わない……いや、まるで本物だな」
 いささか感心して、ラムザは書類をためつすがめつした。
「名前の欄は空白にしてあるわ。ティータの意見も聞いて、どんな名前にするか決めてね」
 アルマが言った。
 そのとき、部屋の隅で微かな音がした。皆がそちらを向くと、ティータがベッドに起き
上がっていた。昨晩見せた恐怖の色は、ほとんどない。
ティータ、大丈夫?」
 ラムザが傍によって優しく声をかけた。
「は……い。大……丈夫、です」
 か細いがはっきりした声で、ティータは答えた。精神の乱れはないようだった。
「よかった。それでねティータ。これなんだが……僕の友達が都合してくれた書類だ。ここに
君の名を書けば、君は別人として生きていける。で、君は、どこのどんな人間として生まれ
変わりたいかな。──なんというか……希望は、あるかい?」
 いささか心神耗弱気味なティータには難しい質問にも思えたが、彼女は首をかしげ、しばし
考えるふうだった。やがて、おもむろにラムザのほうに向き直り「ある名」を口にした。
「なるほど。──それはいいね」
 ラムザはにっこり笑って、テーブルに戻ると、ペンを取り出し、さらさらと署名した。
ティータ・セスペス』
 と。
「セスペス! そうか、あのご夫婦に……」
 アグリアスは手のひらを打った。
「ええ、あのご夫妻は子供がいないし、ティータをわが子のように面倒見てくださったから、
うってつけでしょう……可能なら、ティータを養女にしたいんだが、などと言ってくれたし、
この書類さえあれば!」
「そうね。あのご夫妻なら、安心して預けられるわね!」
 いささか興奮気味にアルマも言う。
 アグリアスがベッドに歩み寄り、声をかけた。
「良かったわね、ティータ。あなたに素敵な家族が出来るわよ」
 ティータは満面の笑みで応じた。
「ありがとう……ございます。それに……アグリアス……さん、ずっと、私を……抱きしめて
くれていて……とっても……暖かかった……です」
 知らず知らず、アグリアスの眼から涙が伝って落ちた。彼女はティータを、昨晩来ずっとそう
してきたように、優しく抱きしめた。
「良かったわね、ティータ、本当に良かった!────」
 アグリアスは、ティータに教え諭すように、その言葉を繰り返した。
「もう悪いことは起きないわ。明けない夜はないのよ。今までの分も、一杯幸せになるのよ!」
 ティータの眼からも、そしてラムザやアルマの眼からも、涙が溢れでていた。しかしそれは、
この薄倖の少女の人生において流された、初めてと言っていい歓喜の涙であった。
 

 明けた早春、ゴーグのはずれに住むある夫婦が、一人の可愛らしい少女を養女にむかえた。
心優しいその少女は、体は弱かったが、誰からも愛され、慈しまれ、つつましく平凡ながらも、
穏やかで幸福な生涯を送ったそうである。