氏作。Part22スレより。



 その日、アグリアスは粗末な宿の一室にひとり閉じこもっていた。
 外は秋晴れの散歩日和。陽はうららかで風もやわらかく、健康なものならば誰しも外に出かけ
たくなるだろう。そうでないものでも、せめて窓を開けて、表の陽気に触れようと思うはずだ。
 だがアグリアスはそれさえしない。雨戸を閉め切って、毛布を頭から被り、両手でしっかりと
剣を握りしめたまま、部屋の隅で小さく縮こまっている。
 まるで隔離された病人のような有様だが、彼女の身体には別段なんの異常もない。至って健康
そのものである。目をギラつかせているので、顔色が良いとまでは言えないけれど。
 そうかといって、もちろん彼女は誰かに閉じ込められているわけでもない。そう易々と誰かに
捕まるようなアグリアスではないし、もしそうなら剣を持たせたまま閉じ込めはしないだろう。
だいいち、壁の薄い安宿だから叫べばすぐに人が来る。部屋には鍵がかかっているが、もちろん
それは彼女自身がかけたもの。つまり、アグリアスは紛れもなく自らの意志で、朝っぱらから、
こんな薄汚れた場所に、雨戸まで閉めて、ひとりで閉じこもっているのだ。
 壁に背を付けたまま、アグリアスは油断なく部屋中に目を彷徨わせている。毛布に包まって、
真っ暗な部屋で縮こまり、およそ普段のアグリアスとは似ても似つかない滑稽な有様なのだが、
彼女の目はあくまで真剣そのものだった。
 既に鞘から出ている抜き身の剣は、部屋のドアに一直線に向けられている。まるで、いつ誰が
やってきても、即座に切り伏せることができるようにと。そう、彼女は誰かを待っているのだ。
 歓迎されるような客ではない。そんなことは、この様子を見ればわかりきったことだ。しかし
誰が来るというのか。盗賊や、教会の追っ手が来るとして、それで震え上がるようなアグリアス
だろうか。まして他の部屋には彼女の仲間が何人もいるというのに。


 アグリアスが考えているのは、もっとまったくちがったものだった。例えば夜道を歩いている
ときに、ふと後ろに誰かが歩いているような気がして振り返る。もちろんそこには誰もいない。
しかし歩き始めると、また後ろからついてくる気配がする。そんな目に見えない、けれど確実に
迫ってくるような、漠然とした恐怖。アグリアスの頭の中を、そのような得体の知れない足音が
蝕んでいた。
 やがて、その気配が現実のものとなっていることにアグリアスは気付いた。すなわち、部屋に
近づいてくる足音が聞こえてきたのだ。廊下を歩いてくる人物は、床をきしませながら近づき、
そして彼女の部屋の前で止まった。
 剣を握るアグリアスの手に力が入る。
 続けて、ノックの音。


「誰だ」
アリシアです、アグリアス隊長」
「なにか用か」
「お食事をお持ちしたのですが」
「すまないが持ち帰ってくれ。私のことは構わないでほしい」
「はい」


 最後の返事はやや躊躇いの色があったが、アリシアは素直に引き返していった。やがて彼女の
足音が聞こえなくなると、アグリアスは大きく息を吐き出し、それからまた油断なく両方の目を
ギラつかせだした。





 こんなことになったそもそものきっかけは、貿易都市ドーターの近辺に駐留した折。どこから
仕入れてきたのか、ムスタディオが朝食の席で取り出した、タロットカードなる代物だった。
 タロットカードというのは、12枚のそれぞれ異なる絵が描かれた絵札を使って、天候、人事
などといった様々な物事の行末を予測する、いうなれば、占い道具の一種である。


「くだらん」
 と、にべもなく一蹴したのはアグリアス
「あら、そう決めつけるのは早いわよ。タロットは見ての通り単純だけど、それだけ奥が深くて
その実用性には多くの賢人たちが注目しているのよ。北方の国では、タロットで王位の継承者を
決めることもあるとか」
 一方で、メリアドールなどはここぞとばかり饒舌に知識を披露する。
 その他、各々好き勝手な意見が飛び交い、しばらくしてムスタディオが仕切り直す。
「まあまあ、ものは試しだ。ちょっとやってみようぜ」
 被験者には、ご高説を証明してみろということでメリアドールが選ばれ、しばらくの間絵札を
選んだり戻したりを繰り返す。やがてムスタディオ、一枚のカードを取り出して曰く。
「どれどれ、ええと。メリアドール……近く出産の兆しあり」
「なんですって!!」
 あまりの内容に怒り狂ってムスタディオに掴み掛かるメリアドール。これには一同大笑い。
「いや、これは私が失礼だったようだ。タロットの実用性とは、なかなか確かなものだな」
「うるさいわよアグリアス!」
「おかしいなぁ…」
 散々笑われてメリアドールはカッカと顔を火照らせている。ムスタディオも頭をかきながら、
なんとか嘲笑から逃れようと、近くに座り込んでいる労働八号を見つけてこれに話しかけた。
「そうだ、労働八号、お前やってみてくれよ。これで今日の天気を占うんだ」
「今日ノ天候ハ、午前中ハ快晴デスガ、正午ヲスギタホドカラ、ヒドイ豪雨ガフルト、オモワレ
マス! オキヲツケテ、ゴシュジンサマ!」



 無口な労働八号がいきなりそんなことをベラベラ喋りだしたので、一瞬その場の全員が呆気に
とられてしまった。今の今まで大笑いしていた仲間も、憤慨していたメリアドールも、皆一様に
驚きの目で彼を見ていた。
 ようやく我に返ったムスタディオが、もう一度話しかける。
「おい、今なんて言ったんだ」
「ハイ! 今日ノ天候ハ、午前中ハ快晴デスガ、正午ヲスギタホドカラ、ヒドイ豪雨ガフルト、
オモワレマス! 西方カラ強イ風がアリ、ハゲシイ雨天ノナカデノ戦闘ガ、予想サレマスノデ、
手袋ノオ手入レヲ、オススメシマス! ゴシュジンサマ!」
 やはり同じことを喋る。機械の故障というわけでもないらしい。念には念をと、もう一度だけ
聞いてみたが、結果は同じだった。皆は狐につままれたような、なんともいえない奇妙な心情の
まま、雲ひとつない青空を見上げた。
 そして、まさかというべきかやはりというべきか、労働八号の言葉は確かだった。空は昼近く
から急激に崩れだし、正午には桶を返したような土砂降りとなったのだ。彼らは口が塞がらない
様子で雨に打たれたものだった。
 もちろんこれ一回きりならば、やっぱりただの偶然だったのかと、それまでの話だったろう。
 だが、そうはならなかった。すなわち、その後も労働八号の言葉はことごとく的中したのだ。


 労働八号が、古代の文明人が製造した工作機械だということは皆が知っているが、その構造に
関しては、機械に精通しているムスタディオですら、ほとんど何もわからないと言っていいほど
複雑な知識で埋め尽くされている。それゆえ、いま現在わかっている他に、どんな未知の機能が
搭載されていてもおかしくはない。ラムザたちもそれくらいのことは自覚していたが、しかし、
この意外なる特技は流石に彼らを驚かせた。
 とはいえ、いかに仕組みのわからない機能といえども役に立つことに変わりはなく、むざむざ
これを利用しない手は無かった。それ以来、一日のはじまりには労働八号に天気を尋ねるのが、
ラムザたちの習慣となった。




 そして話はこれだけにとどまらなかった。
 もともとのきっかけが占いだったものだから、ある日、思いついたひとりがこう尋ねたのだ。


「ねえ、私たちのことは占えないの?」


 果たしてそれは可能だった。
 労働八号の胸部には、大きなパネルが搭載されている。ここに両手を添え、そのまましばらく
待っていると、口元から占いの文句が記された紙が出てくるのだ。内容は抽象的な五つの節から
なっており、いかにもそれらしい文章だったので、これは明らかに占いの目的でつくられた機能
だとわかった。
 そして、彼の予言したことは、天候を予測するのと同様に、必ず何らかの形で的中した。
 例えばそれはこんな具合だった。



 ***


 影の化身の少女。
 身も心も、その肌までも影に染めて。
 ただ、無垢なる好奇だけが彼女の光。
 流れ落ちるは、いずれの元か。
 幸と不幸は光と影。

 
 ***





 後日、山道を行軍している途中、崖の近くに珍しい果実が生っている樹を見つけたラファが、
果実を採ろうとしてあやまって崖から足を滑らせた。幸いにも落ちた所は深い滝壺だったため、
大した怪我もなく無事に済んだ。ところが、そのあとで彼女は滝の裏側に大きな遺跡が広がって
いるのを発見し、探索の末に彼らはなんと聖石のひとつを見つけたのだ。まさに、怪我の功名。
ラファはその日一日自慢げな顔をしていた。


 占いの形は実に様々で、とことん抽象的な文句もあれば、一見してすぐに想像のつくような、
あからさまなものもあった。一方、大がかりな出来事を予期していることもあれば、取るに足ら
ない些事を示していることも少なくなかった。それから、予見した出来事が実際に起こるまでの
時期もまったく不規則で、紙を受け取ってから五分と待たずに的中することもあれば、数週間も
経って本人もすっかり忘れたころに起こることもあった。
 また、占いは必ずしも良い結果だけでなく、ときには不幸な結果も予言した。
 例えば…。



 ***


 髪を結んだ青年。
 鉄の中に生まれ、鉄と共に育った。
 青年よ、しかし疑い深くあれ。
 長年の親友ですら、己を裏切らない保証は無い。 
 煤にまみれて、彼はそのことを知る。


 ***




 数日後、ムスタディオが銃を整備していると、突然彼の銃が暴発し、あわやという目に遭うと
いう騒動があった。注意に注意を重ねてたのに、わけがわからないなどと漏らしていたとか。


 そして彼らはしばらくこの遊びに夢中になった。仕事の暇を見つけては、労働八号のパネルに
手を押し付けて、出てきた紙の内容に一喜一憂した。ときには列をなして順番を待っている姿も
見られた。
 一種のゲームだった。奇妙な文章の意味を想像するのは面白かったし、それが良い結果のよう
ならばもちろんのこと、危険そうな内容でも、スリルがあり待ち遠しかった。死と隣り合わせの
日々において数少ない貴重な娯楽。賭け事にも似ている。うまくいけば良い目を見れるのだし、
どのみち、少なくとも興奮だけは味わえる。申し分のないことではないか。
 もっとも、仲間たちがいくら知りたがっても、労働八号が占うことのできない事柄もあった。
畏国の行く末だとか、彼らの戦いの結末とかいったことがそれに当てはまった。話があまり漠然
としているせいなのか、それとも彼自身が深く関わっている事柄については予測できないのか、
とにかくその類いの質問をすると、労働八号は困惑し、あげくオーバーヒートしてしまうのだ。
 また、彼の占いにはある種の制限があるのか、不幸な結果にしてもある程度の上限があった。
例えば労働八号の占いの結果によって、重傷を負ったりしたものはいない。そういうことだ。
 だから誰もが安心して、この遊びにのめりこんだ。


 ……すくなくとも、その日までは。





アグリアスさん」
「なんだラムザ
 ノックの向こうからその声がかけられるのとほぼ同時に、アグリアスも声を返した。ラムザ
陽気に口笛を吹きながら廊下を歩いてくるので、すぐに彼だとわかってしまう。
 尤もそれは、アグリアスが廊下の足音にいちいち身構えているのを知っているため、わざわざ
警戒を解いてやろうとの気遣いだったのだが、いや、そんなことはどうでもいい。アグリアス
苛立たしげに、しかし何とか穏やかな声を作った。
「今度は何だ、ラムザ
「今度はってひどいなあ。お腹を空かせてると思ったんですが、お食事ご一緒しませんか?」
「ありがたいが、さっきアリシアが持って来てくれたので事足りている」
「え、困りましたね。アグリアスさんも食べると思って、二人分買って来てしまったんですが」
「それならお前が二人分喰えばいいだろう」
 あまりラムザが白々しいので、もう口調に怒気が混ざりはじめている。
 しかしそこは食わせ者のラムザ、落ち着いた様子で一言。
「そうですか。チョコボエッグだったんですが」
「!」
 思わず言葉と一緒にごくりと唾を飲むアグリアス。扉向こうのラムザはニヤリと笑った。
 チョコボエッグというのは、要するにチョコボの卵をゆでただけの代物なのだが、実はこれ、
アグリアスの大の好物である。およそ食事に関しては好みを持たないアグリアスであるが、この
食べ物にだけは目がない。以前これを一つ分けてもらいたいがために、隊全員の装備から靴まで
磨きあげた話はあまりに有名である。
 だいたいさっきアリシアの持って来た食事だって、実際は手を付けていないのだ。空きっ腹に
好物というのは、単純だがそれだけに効果があった。



「生みたてのが10個も手に入りましてね」
 言うまでもなく卵は生みたてに限る。
「しかも黒チョコボなんです」
 黒チョコボの卵が他に比べて格段にコクがあることは通には常識だ。
「バターと塩もありますよ」
 炒めたバターと塩を卵にふりかけると、これはもう絶品である。


「────────ッッ!!!」
 アグリアスはそれは部屋の外まで聞こえんばかりの大音響で生唾を飲み込んだのだが、


「……良かったな、ラムザ
「え…?」
「よ……、よく味わって……食べろ………くっ」
「な、泣いてませんか?」
「何を馬鹿な……用がないなら早く行け」
「……じゃ、じゃあ……失礼しました」
 これに面食らったのはラムザだった。まさか彼女がこれを断るとは……。これも失敗か。
 すごすごと引き上げていくラムザ。古びた廊下が歪み、キシキシという虫の悲鳴のような音を
あげる。それと共に、彼の手の中のチョコボエッグも遠ざかって……。
 ぱん、とアグリアスは頬をはたいた。慌てて好物のことも、ラムザのことも頭から追い払う。
余計なことを考える余裕などないのだ。彼女は再び剣を強く握りしめる。
 それにしても今のは際どかった。危うく決心が折れてしまうところだった。まったくラムザ
やつめ。回を追うごとに手口が周到になっているではないか。侮りがたい男だ。まさかチョコボ
エッグなど持ってくるとは、それも甘い黄身のたっぷりつまった黒チョコボの、生みたての卵に
焼きバターを添えて……………。もやもやと恍惚に陥りかけて、また彼女は頬をはたいた。



 アグリアスが部屋に閉じこもってからというもの、彼女を案じた仲間が代わる代わる見舞いに
やってきた。先程のアリシアもその一人である。
 そうしてみな、彼女を慰めたり外に誘いだそうと呼びかけてくれた。そのたび、彼女は仲間の
あたたかい気遣いに感謝し、そして自分のことで彼らを煩わせていることに罪悪感を覚えつつも
その申し出をはねのけたのだった。
 尤も、それはやってくるのが一度や二度ならの話である。五回、六回と訪問されると、もはや
親切を通り越してしつこいとしか言えない。しかも、ラムザアグリアスの性格をよく把握して
いるだけにタチが悪く、毎回毎回、彼女の決意を鈍らせるような小賢しい策を用意してやってく
るのだ。暢気な口笛を吹きながら。
 まったく腹立たしいことこの上ないのだが、アグリアスは決して怒鳴りつけたりはしない。
 なぜならラムザはそれをこそ待っているのだ。彼女が怒り心頭で部屋から威勢良く飛び出して
くるのを。そのために、あらゆる手段を用いて岩屋の女王を挑発しているわけだ。
 言うまでもないが、そこには悪意などない。ただラムザは他の者より少しばかりお人好しで、
少しばかり心配性で、また少しばかりアグリアスに特別な想いがあった。それだけこうも執拗に
彼女に絡むのだろう。



 彼女が部屋から出てこなくても、こうやって自分と話しているだけで彼女の気が紛れることを
ラムザは知っていた。だからどれだけ取りつく島がない様子でも、ラムザはまた何かを見つけて
アグリアスを訪問することだろう。それぐらいしか、彼に出来ることはないのだから。
 アグリアスだって、もちろんラムザがそんなことを考えていることぐらいお見通しだ。部屋に
彼がやってくるたびに、なんだかんだと言って気が緩み、時間を忘れてしまう。そのたび慌てて
彼女は気を引き締め直すも、しばらくするとまた口笛が聞こえてくる。
 はっきりいってありがた迷惑なのだが、それを言ったところでラムザはやめはしないだろう。
結局のところ、彼らは二人とも頑固なのだ。
 だからアグリアスも譲らない。決して篭城をやめようとはしない。次からは、ラムザが来ても
黙殺することにしよう、そう決めて、彼女は再び部屋中に目を光らせた。
 彼女は時がゆったりと過ぎてゆく様を、ひたすら全身で見守った。傾けた砂時計の一粒ずつを
数えるように、丹念に、絶え間なく。ただの一秒たりとも気を抜くことは許されない。
 瞬きひとつほどの一瞬に、”それ”は訪れるかもしれないのだから……。




 昨日の晩。曇った夜だった。
 占いにのめりこんだと言ったが、ラムザたちの皆がみな、この騒ぎに加わったわけではない。
中には占いなど根っから信じないタチのものもいれば、逆に神経質なために怖くて手が出せない
ものもあり、単純に興味がないだけのものもいた。アグリアスもその類いだった。
 そもそもムスタディオがタロットカードを持ち出したときにして、「くだらん」と即座に吐き
捨てた彼女である。基本的に、その頑な現実主義が曲げられるようなことはない。
 しかし、その日はちょっとした気まぐれが起きた。久しく屋根のある場所での休息とあって、
些かアグリアスの気持ちは緩み、酒の酔いも手伝ってか、アリシアやラヴィアンにそそのかされ
るまま、彼女はついつい労働八号のパネルに手を伸ばしていった。
 やがて出てきた紙の内容は、こうだった。





 ***


 蝶の名前を持つ女。
 その美しさに、花すら恥じらいの蜜を零す。
 やがて、おぞましい悪魔の嫉妬を買うだろう。
 逃れられぬ災いは、目と鼻の先。
 その羽は、もう二度と剣を持つことは無い。


 ***



 酔いなど即座に吹っ飛んだ。
 相変わらず抽象的な文章だが、それにしたって、どう好意的に解釈しても縁起のいい内容では
ない。最後の一節に至っては決定的だ。アグリアスは紙を睨みつけたまま、硬直していた。
 部下の二人も同様。笑い飛ばすなり、慰めの言葉をかけるなりしたいところだったが、生憎の
占いの的中率である。いやでも無言にならざるを得ない。
 ややあって、アグリアスは顔を上げた。
「労八、もう一度頼む」
「リョウカイシマシタ、アグリアスサマ!」
 先程とは打って変わって、慎重な手つきでアグリアスは両手を差し出した。労働八号の両目が
チカチカと赤く点滅して、やがて再び紙が出てくる。アグリアスは静かにそれを受け取り、食い
入るようにじっと覗き込んだ。書かれていたのは、一枚目とまったく同じ文句だった。




「…故障ではないな」
「各部、異常アリマセン!」
 そうあってほしいというアグリアスの気も知らず、労働八号の声はよく通る。
 苦笑して、彼女はねぎらうように労働八号の肩を叩いてやった。
「悪いが、少し疲れた。私は先に休ませてもらうぞ」
「隊長、あの……」
 なにか言いたげなアリシアを制して、アグリアスはするりと自室に戻ってしまう。
 残された二人も顔を見合わせ、馬鹿なことを言ったと後悔しながら、やがてとぼとぼと各々の
部屋に向かった。


 そして翌朝。つまり今朝である。
 どういうわけか、朝食の段になってもアグリアスが部屋から出てこない。
 寝坊だろうか。いやまさか、彼女に限ってそれは無い。いつも誰よりも早く目覚めて、仲間が
目を覚ます頃には素振りに精を出しているアグリアスだ。ということは、身体の具合でも悪いの
だろうか。あれこれ言いあっていると、やがてラヴィアンとアリシアが昨晩のことをおずおずと
話しだした。
 話を聞いて、仲間たちは笑った。あのアグリアスが、たかが占いの言葉などを気にして部屋に
閉じこもっているとはなんとも滑稽な話ではないか。だが次第に笑い声が止みだすと、そこには
一様に深刻な表情が並んでいた。理屈で考えれば確かに馬鹿げている。馬鹿げているが、それが
ただの占いではないことも、彼らは身をもって知っていたのだ。
 何より、今まで己が剣一つを糧に生き抜いてきたアグリアスである。その彼女にとって、剣を
失うということがどれほどの意味をもつのか。多少なりとも推し量れるというものだった。



 不穏な空気の中、ラムザが席を立ち、様子を見に行った。
 部屋の扉をノックをする。か細い声が返ってきた。
「誰だ」
ラムザです」
ラムザか。どうしたんだ」
「どうしたはこっちの台詞です。もうみんな下に集まっていますよ、なにをしてるんですか」
「体調が優れなくてな、どうやら風邪をひいたらしい」
「嘘つかないでください。あの二人から話を聞きました」
「そうか」
「いったいどうしたっていうんですか、占いなんか真に受けるなんて」
「だから言っているだろう、風邪をひいただけだ」
アグリアスさん」
ラムザ、どのみち今日はここに滞在するのだろう?」
「そうですけど…」
「それなら今日一日は好きにさせてくれ。明日からはこのような事は無い」


 ラムザは息をついた。 
 どうやら説得は難しいらしい。このアグリアスという女性は、その意志が強く堅固なときほど
決まって落ち着きはらった声で話すのだ。
 このときもそうだった。仕方なくラムザは引き下がり、仲間たちにもそのように告げた。


 かくしてアグリアスは、その日一日、部屋に閉じこもるところとなったのだった。






 ・
 ・


 かくん、と頭が揺れた。
 アグリアスは目を飛び開けて、辺りに目を走らせる。暗がりの中に人の気配は感じられない。
次に彼女は自分の身体の具合を確かめた。特に両の手を念入りに。幸いどこにも異常はない。
 どうやらうっかりうたた寝をこいてしまっていたらしい。なんと不用意な……。
 気を取りなして、アグリアスは窓に近づいた。満月が煌煌と上空で輝いていた。どうやら深夜
近い時刻らしい。眠る前に、階下で仲間が夕食を囲んでいたのを覚えている。つまり眠り落ちて
からさほど時間は経っていないことになる。早朝から部屋に籠りっぱなしでかなり疲弊していた
はずなのに、なぜこんな半端な時間に目覚めたのだろうか。
 首を傾げていると、ぐうと腹の虫がそれに応えた。アグリアスは苦笑する。何のことはない。
空腹のために身体が目覚めてしまったのだ。
 アグリアスはもう一度窓の外に目を移した。今日の終わりが近いことを改めて噛み締める。
 明日になれば。そんな大見栄を切ったものの、胸に手を当てても、鬱蒼とした気分はちっとも
晴れていない。一日でいい、何事も無く過ごしきれればそれで踏ん切りが付くと思ったのだが。
こんな状態で、明日からまた平常の隊務に戻ることが出来るのだろうか。疲労に蝕まれたせいか
占いの文句は頭の中でいっそう大きくなっているようだった。
 ふいに、廊下から、かたりという物音がした。


 アグリアスは窓を閉めると、静かに構えた。
 日が終わる直前。ついに来るものが来たのだろうか。
 いつでも飛びかかってくるがいい。日がな一日待ったのだ。心の準備はとうにできている。
 悪魔だろうが何だろうが、一閃の元に斬り伏せてくれる。


 だが、部屋の外の気配はそれきり動きを見せなかった。
 アグリアスは苛立つ。
 誘っているつもりなのだろうか。
 ……いいだろう、それならこちらから出迎えてやろうではないか。
 アグリアスはじりじりと戸に歩み寄る。
 そして、取っ手に手をかけると、勢い良くその手を引いた。




「……ラムザ?」
 落胆と、驚きと、安堵が、等分に混ざりあったような声。
 部屋の前に腰を下ろしているのは、他でもないラムザだった。
「やっと出てきましたね」
 疲れた顔で、ラムザは得意げに笑う。
 すっかり気を呑まれてしまった。何と言っていいものやら、アグリアスは言葉に詰まった。
「……深夜に女性の部屋の前に座り込むとは、非常識だな」
「違いますよ。ここは僕の部屋の前ですから」
 言われてみれば、向かいはラムザの部屋だった。ラムザはまた得意そうな顔をして、それから
大きな欠伸をした。アグリアスはそれになにか言おうとしたが、代わりに吹き出してしまった。
つられてラムザも笑う。夜更けの廊下、二人分の笑い声が木霊した。
「わかったわかった、私の負けだラムザ
「ぎりぎりでしたけどね」
 言いながらラムザは腰を上げようとしてフラついた。一体いつからこうしていたのだろうか。
「いつから……」
 と尋ねかけるアグリアスを、ぐううと豪快な腹の虫が遮った。
 腹を抑えかけて、ラムザが恥ずかしそうに俯いているのに気付く。腹の音は彼からだった。
「……食べていないのか?」
「ええ、まあ」
 頭をかきながら、ラムザは小脇に置いていたバスケットを持ち上げた。それからアグリアス
笑いかけて一言。
「今度は断りませんよね?」






 宿の近くの草っ原に焚き火を囲んで二人は腰を下ろした。
 風もなく、空気は緩やかだった。薪の火は気ままに燃えていて、時折羽虫がその明かりに惹き
つけられては弾けた。足下には無数の多年草が茂り、むせ返る草の匂いで彼らの鼻を満たした。
 小さな鍋がくつくつと煮えて、その中で黒い水玉模様の卵がいくつも転げている。
「それでは……いただく」
「お好きなだけどうぞ」
 ゆで上がったそれをしばらく掌で転がし、それからどこか遠慮げにラムザを見つめた。やがて
アグリアスは一気にかじり付いた。柔らかな歯ごたえと一緒に、甘く濃厚な味が口中に広がる。
卵の熱さと、感嘆に息を零しながら、彼女はうっとりと目を閉じた。それから意を決したように
目を見開き、あとは夢中でゆで卵を貪りつくしていった。
 チョコボの卵はよくゆでると殻まで食べられるほど柔らかくなってくる。ぱりぱりもぐもぐと
どこかあどけない音は、火の粉の弾ける踊りと虫たちの歌と混じりあい、ラムザは至極満足げに
アグリアスの様子を眺めていた。
 空腹であったためか、好物の味はいっそう素晴らしく、アグリアスは瞬く間に10個もあった
大きな卵を残らず平らげてしまった。


 食事を終えて、腹ごなしに散歩がてら、その辺りを歩く。
「満腹ですか?」
 まだ卵の余韻に浸っているらしいアグリアスに尋ねる。
「すっかりだ、ありがとう。……お前の分まで食べてしまった」
「いいんですよ、良かった。気分の方はどうです?」
「一日中考えた甲斐あって、だいぶ良くなった」
 アグリアスは微笑んだ。本当はついさっきまで鬱屈としていた。気分が晴れたのは部屋に閉じ
籠ったからではなく、ラムザと卵のおかげだ。


 歩き足で小石を引っ掛けながら、アグリアスは呟いた。
「馬鹿馬鹿しいと思うだろう」
「え?」
「占いなど気にして、不安がったりして」
「いいえ。………でもアグリアスさんは、そういう不安と縁がない人だと思っていました」
「私もそうだと思っていた。……ただ、ちょっと昔のことを思い出してしまったんだ」
 彼女はちょっと歩調を緩めて、空を見上げながら語りだした。
「あれは、まだ六つか七つのころだった。外国へ行かれていた遠戚のおじ様が、帰国されて私の
家にいらっしゃって、その方がそれは可愛いらしい子猫を連れていらしたんだ。畏国にはいない
種の珍しい猫で、私はそのふわふわした青い毛並みに一目で夢中になってしまった」
「猫ですか」
「そんな私を見て、おじ様は言われた。今日一日、お利口にしていたら、この猫を君にあげても
いいとな。私は俄然火がついたように張り切った。すぐさま台所の女中を全員はねのけて、お茶
を炒れて、お菓子を作って、おじ様の肩をお揉みして……」
「微笑ましいですね」
「それだけ可愛い猫だったのさ。そして夕刻となり、とうとうおじ様がお帰りになられることに
なった。もちろん私は外に飛び出して急いで厩舎からおじ様のチョコボを引いて来た。その間、
私がおじ様から離れたのは、ほんの三分ほどにも満たなかっただろう。だけど私が戻ったとき、
おじ様の手の中に猫はいなかった。代わりに、その側で二つ下の妹が無邪気に喜んでいたよ」
「あぁ……」
「私は当然泣きわめいた。どうしてあの子にあげてしまうのです。お言いつけを守ったのはアグ
リアスです。一生懸命おもてなしをしたのは私です。あんまりです。おじ様たちはお困りのよう
だったが、やがてお決まりの言葉。わかるだろう? お姉さんなんだから我慢しなさい、だ」
「よく分かります」
 ラムザは苦笑する。兄妹の辛いところだ。


「でも私もそれで納得するにはまだ幼かった。その後もしつこく猫のことを根に持って、そんな
私の気持ちも知らず妹は嬉しそうに猫を見せびらかしてきた。それでとうとう頭に来て、ある日
二人で花占いをして遊んでいるときにこう言ってやったんだ。まあ大変、かわいそうに、お前の
猫がもうすぐ焼け死んでしまうそうよ、とな。
 妹は無邪気にもそれを真に受けて、血相を変えて騒ぎ立てた。父上や母上にまで泣きついて、
そのおかげで私はこっぴどく叱られたのだが、妹の泣き顔をみて私はせいせいしていた」
「だけどそれだけじゃなかった。何があったんです?」
「次の朝、家族全員が見ている前で猫が自ら暖炉に飛び込んだ。わけが分からなかったよ。妹を
はじめ、皆が呆気にとられたが、一番驚いていたのは私だった。私を見る父上の気味の悪そうな
目をよく覚えている」


 アグリアスは言葉を止めて、また少し歩いた。さくさくと草分けを踏みしめる音が続く。やや
あって、今度はラムザが口を継いだ。
「ショックだったでしょうね」
「うん。結局どうして猫が暖炉に飛び込んだりしたのかは分からなくて、お父上は私を悪魔祓い
しようなどとも考えたらしい。でも、口からでまかせの占いが当たってしまったことはもちろん
だが、むしろその後、死んだ猫の価値が私にとってひどくちっぽけなものになっていったことが
何より哀しかった。子猫への情熱などほんのひとときの気まぐれのようなもので、私はきっと、
あんな猫などそれほど欲しくもなかったのだ。そんなことのために妹を傷つけて、猫を死なせて
しまったのが辛かった。いつか罰が当たるのではないかと、しばらくの間眠れない夜が続いた。
昨日までは、そんなこともすっかり忘れていたのに、あの予言の文句を見たらふっと……」
 アグリアスは淋しげに目を伏せた。気付けば二人は原っぱを一回りして、焚き火のところまで
戻って来ていた。火が消えた薪の下で、かすかに炭火が燻っている。
「……とうとうツケが回って来た。そんな気がしてな……」




 吸い込まれるように、アグリアスの声は消えていった。話に聞き入っていたラムザは、彼女に
ならい消えかけた焚き火へと目を落とした。
 彼女には、この炭火が幼い日の暖炉と繋がって見えているのだろうか。そうして、無垢な頃の
過ちに心を痛めているのだろうか。ラムザはいたたまれぬまま、横目で彼女の顔を窺った。
 だが、意外にもそこにあったのは明るい表情だった。


ラムザ、お前はもう労八に占ってもらったのか?」
「えっ……いえ、僕はまだですけど」
「そうかそうか、それじゃあ私がひとつ占ってやる」
「ええっ?」
「ゆで卵のお礼だ。まあ任せておけ、私の占いは当たるぞ」
 上機嫌でそう言うと、アグリアスは腰を曲げて、足下を探りはじめた。ラムザは首を傾げる。
話をしていたときの彼女は、確かに沈み込んでいるように見えたのだが、空元気なのだろうか。
いや、この様子を見るとそうも思えない。
 実際アグリアスは浮き立っていた。思い出は胸にかげりを落としたが、話し終えると不思議と
清々しい気分が満ちていた。誰かに話したので胸のつかえのようなものが外れたのか、それとも
その相手がラムザだったからなのか。いずれにせよ、アグリアスは、今の晴れ晴れとした心地を
ラムザにも分けてやりたい気分だった。
「ほら、ちょうどいいのがあったぞ。さあ、よく見ていろよ」
「なるべく火に関係のある予言はやめてくださいよ」
「ふふふ……さて、どうかな」
 アグリアスは拾い上げた花をひらひらと回して、それからその花弁の一つをつまんだ。
 そのときである。



「痛ッ!!」
 アグリアスは右手の甲に走った激痛に花を取り落とした。同時に何かがふらふらと飛び立つ。
 ラムザはそれを払い落とし、声を上げた。
「蜂だ!」 
「手……、手が…」
 アグリアスは呻きながら、刺された右手がみるみるうちに赤黒く岩みたいに膨れ上がっていく
様を驚愕の目で見ていた。目を疑うような光景に、痛みは隅へ追いやられた。
アグリアスさん、動かないで!」
 ラムザが彼女の手首をきつく抑えこんだ。それほど大きくはないが、意外に彼の手は力強い。
掴まれたのは手首だけなのに、彼女は身動き一つできなくなってしまったような錯覚に陥った。
 ラムザは素早く腰から短刀を抜くと、なおも膨れ上がるアグリアスの甲に鋭い刃を走らせた。
真っ赤な手に真っ赤な裂け目が引かれ、黒く淀んだ血が勢い良く噴き出す。一瞬遅れて、痛みも
やってくる。
 噴き出す血の勢いにも構わず、ラムザアグリアスの傷口に唇をあてがい、強く吸い立てた。
手の中に入り込んだ針の毒を吸い出すのだ。
 それらの素早い処置の甲斐あってか、右手の腫れはまもなく治まりだした。ようやくラムザ
アグリアスの手首を介抱し、懐から手ぬぐいを取り出すと、それを彼女の手に巻きつけながら、
少し落ち着いた様子で話しはじめた。
「痛みはないですか?」
「大丈夫だ。ありがとうラムザ
「いえ……あの、手……動かせますか?」
「ん? ………いや、だめだ動かない。どうしたんだろう、感覚が全くない」
「やっぱり毒が回ってしまったみたいですね。この蜂に刺されると、その部位が腫れ上がって、
神経が痺れてしまうんだそうです」
「厄介だな………なんだ、何を笑っている?」
 手ぬぐいを巻くラムザの頬が緩んでいるのに気付き、アグリアスは不満げな声を出した。
 それでもにやけながら、ラムザは話を続けた。


「いえ、これも今日聞いて来た話なんですが…………さっきの花ですけどね、ここらの農家では
ちょっと嫌われ者らしいんですよ。毎年勝手に畑に増えちゃって、処理するのに苦労するとか」
「それで?」
「それでこの蜂、実はその花の蜜が好物で、よく花の中に隠れているんです。それで花を引き抜
こうとした農夫がよく刺されるんだそうです。ちょうどさっきのアグリアスさんみたいに」
「だから?」
「だから」
 ラムザはひときわ頬をほころばせた。
「この辺りじゃこの蜂のことを、『農園の悪魔』って呼んでるらしいんですよ」
「なんだと……」
 悪魔、という言葉でアグリアスは目を見開いた。
 ようやくラムザの笑みの意味を理解する。いや、理解はしたが、理解しがたいといった様子。
「まさかこれが『災い』!? 蜂に刺されるのが逃れられぬ災いだと!?」
「怒らないでくださいよ、僕が言ったわけじゃないんですから」
「馬鹿な、馬鹿を言え、蜂などと、まさか、そんな話があるか!!」
「じゃあアグリアスさん、右手、剣持てますか?」
 布を巻き終えた右手に、ラムザが短刀を手渡した。アグリアスは必死の形相でそれを握ろうと
した。しかし、しなやかな指はわずかにへなへなと震えただけだった。
「………そんな……たかが蜂のために…………」
「そう侮ったものでもないですよ。喉を刺されたりすると命に関わるそうですし……」
 ラムザの声は聞こえていないようだった。アグリアスは、世の中がまるで信じられなくなった
ような顔で、その日の徒労を思い返している。やがてどっと疲れた様子で息をつき、恨めしげな
声を出した。
「労八のやつめ……人騒がせな占いを……」
「そりゃお門違いですよ。占いにケチつけるなんて。だいたい嘘は言ってないじゃないですか」
「しかしな……あぁ、こうなることが分かっていたら、部屋を出なかったのに」
「そうしたら、もっと悪い形で占いが叶っていたかもしれませんよ」
「う……」
「良かったじゃないですか、この程度で済んで。素直に喜びましょうよ」



 アグリアスはがっくりと肩を落としていたが、慰めるラムザは楽しげだった。
 やがて、彼女も観念したらしく苦笑いを浮かべた。確かに、ここはラムザの言う通り、素直に
安心しておくのが妥当なところだろう。こうやって和やかにラムザと笑いあっていられるという
のは、案外、用意された結末の中でも最良のものを引き当てたかもしれないのだから。
 二人はどさりと草っぱらに横になった。
「やれやれ、やはり占いなどくだらん」
「現金だなあ」
 寝ころんだまま、アグリアスはぶつくさと愚痴り、ラムザがそれに相づちを返す。
 弾みがついてしまったのか、他愛もない会話はいつまでも止むことを知らなかった。
 頭上の月はいつのまにか雲に顔を隠してしまっていた。
 虫たちの鳴き声は薄らぎ、草木もそろそろと眠りにつきはじめていた。
 それでも、二人分の話し声だけは、いつまでたってもその場に響いていた。
 そうやって笑いあう二人はもちろん気付いていないけれど。
 アグリアスのその笑顔に宿る想いは、確かな未来、彼女の手から剣を奪い去るものだった。



 それは、労働八号の目に灯る、ほのかな赤い光だけが知っていること。





 終