氏作。Part21スレより。

 雲ひとつない夜だった。
 のぼりきった月が、眠りについた街を照らしている。窓からの景色は妙に美しい。


 安宿の一室。祖末なベッドに横たわりながら、私は首を持ち上げ、自分を抱いている男の顔を
見上げた。
 ラムザが背中に這わせていた手を止めて、笑いかける。
アグリアスさん」
「なんだ?」
「眠っててもいいんですよ?」
「そんな勿体ないこと、できるか」
 言ってから私は顔が熱くなるのを感じて、ラムザの胸に頬をこすりつけた。顔は見えないが、
息づかいでラムザがクスクスと笑っているのがわかる。しばらくすると、また彼の手が私の背を
撫ではじめた。ラムザの熱い掌が、私の汗を吸い取ってゆく。
 閨事のあと、ラムザはいつもこうやって私の全身を優しく撫でる。
 別にその行為にはさりとて官能的な意味は含まれない。撫でられている間にどちらかがそうい
う気になることはあるが、そこには単純に別の意図があった。
 ラムザは私の下らない煩いに付き合ってくれているのだ。はじめて彼に自分のすべてを見せた
日から、私の心を占めていた、ささやかな悩みに。

 思い起こせるのはまだ五つにも満たない頃、父の手ほどきで剣を学び始めたときにはじまる。
やがて私は騎士となって実戦に赴きだし、後にオヴェリア様の護衛に配属され、そして今、常に
戦火の危険に晒されているこの旅に至るまで。私の身体には毎日のように傷が増え続け、決して
絶えることはなかった。そうして、いつしかそれらは時を経ても消えてくれないほどに深く肌に
刻み込まれてしまった。




 以前はそんな傷など気にもとめなかった。むしろ、戦場を生き抜いてきた己への勲章のように
すら思っていたものだ。だが素肌を晒す相手を得て、そして自分よりもずっと美しい肌をもった
仲間達を見て、私は少しだけ、歯噛みした。
 なによりもラムザに申し訳なかった。誰よりも優しく、誰よりも気高い。そんなラムザという
男に対して、私はあまりに不釣り合いなように思えたから。
 ふとした時にその悩みをこぼした私に、彼はひどく腹を立てた。
「僕にはアグリアスさんが誰よりも綺麗に見えるんです」
 ラムザはまっすぐにそういって、私から反論の口実を奪う。
「それに、僕しか見ないんだから構わないでしょう」
 そして次には、不服に思う気すら取り去ってしまう。


 それでも、その日からラムザは私をいたわるようになった。つまりこの夜の習慣ができたのは
それ以来ということだ。


 もちろんラムザは無意味にそうしているわけではない。彼は手のひらにごく微量な回復魔法を
張り巡らせ、それで私の傷痕を擦り、癒してくれているのだ。丁寧に、丹念に、辛抱強く何度も
何度もそれを繰り返すうちに、私の肌に染み付いていた傷はゆっくりと薄れていった。
 言えば容易いものだが、実際にはかなり辛い仕事だ。魔法を小出しに持続させる技術の高さは
もちろんのこと、精神の消耗が激しい。以前自分で真似をしてみた所、数分で疲れ果ててしまい
驚いたものだ。しかもそれを朝まで続けるものだから、そのせいでラムザは昼間ぼんやりとして
しまっていることが多い。
 馬鹿なことを口にしたなとラムザに申し訳なく思いながらも、その一方でどうにも沸き上がる
嬉しさを抑えきれない。



ラムザ、もういいんだ」
 何度その言葉を喉に控え、そして飲み込んできたことだろう。結局今日に至るまで私はそれを
しまい込んできた。そしてやはり今宵も私は口を閉ざし、ラムザの温もりに懸命にしがみつく。
言えるわけが無いのだ。
 私たちはいわゆる大っぴらな仲ではないから、日中はどうしてもお互い疎遠になる。それだけ
私たちが共有できる夜のこのわずかな時間が、私の惨めな生を溢れんばかりに充実させるのだ。
聖石の魔物も、畏国の行く末も、オヴェリア様のことすら、何もかも全てを忘れて、私はラムザ
という幸せに貪りつく。彼もまたそのように私を求め、それがまた私をいっそう深い幸福の中に
ひきこんでゆく。そしてこの習慣は、この上なく甘美な味で私の心を満たすのだ。どうしたって
これを手放せるものか。
 終いには彼が私のために疲れてしまっていると思うだけで顔がほころんでしまう始末だ。
 我ながらどうしようもない女である。


「彫刻家になったような気がしますね」
 傷跡によって細かく隆起した肌が丹念な彼の手で滑らかに整えられてゆく。
 まさしく私はラムザという職人にかたどられてゆく彫刻だった。



 今ではほとんどの傷が消え失せた。いつかその肌の美しさに嫉妬した同性たちから、秘訣でも
あるのかと逆に教えを乞われたりするようになったほどである。


 ────そして。





アグリアスさん」
「ん」
「ちょっと立ってみてください」
「……今?」
「ええ、お願いします」
 私は幾分躊躇してから、ベッドから抜け出した。
「こっちへ、来てください」
 ラムザが窓の側へ私を誘う。纏っていたシーツが彼の手によって取り去られ、窓から注がれた
銀色の月光が、古ぼけた部屋の暗闇から私の裸身をすくいあげた。
 光と一緒にラムザの視線が全身に注がれる。私は声もだせずに震えていた。
 やがてラムザは顔を近づける。
 そして、そっと私に口づけをした。
 それから、風のような微かな笑みを称えて囁いた。


「おめでとう」
「……え?」
「おめでとう、綺麗なアグリアスさん」
ラムザ…?」
「もうどこを探したって、かすり傷一つ見つかりませんよ」
「………あ」


 言われて私はぎこちなく身体を確かめてみる。首から順に、胸や腕、足の先まで、つややかな
手触りがした。滑らかな硝子細工のようで、まるで自分の肌じゃないみたいだった。
「おめでとう、アグリアスさん」
 もう一度そう言ったラムザの顔に目をやると、月に照らされた頬に大きな切り傷が走っていた。




 私はそれを見てなぜだか泣きそうになってしまい、赤くなった顔を傾けながらやっとのことで、
ありがとう、とだけ言った。その後は、喉が強張って言葉にならなかったので、彼に抱きついて
ごまかした。
 幼稚な煩いが解消されて、またひとつラムザに肌を晒したくない理由がなくなってしまった。
恥じらいと恍惚感の入り混じる思いのなか、私はラムザの優しい腕に包まれながら目を細める。
安らぎのなかで目を閉じかけて、私はふと胸の奥底に妙な感情が座り込んでいるのを見つけた。
それは羞恥とも喜びとも異なって、しかもだんだんと大きくなっているようだった。目を閉じる
直前、もう一度私に口づけをしてからラムザが言った。


「貴女は完璧です、アグリアスさん。どこに出したって恥ずかしくなんかない」





 翌日。
 桶をひっくり返したような土砂降りだった。加えてけわしい台地の行軍。視界は劣悪を極め、
ふと不穏な気配に気付いたときには、私たちはずらりと立ち並んだ牛鬼の集団に囲まれていた。
連中は円状に私たちを取り囲んだまま、徐々にその距離を詰めてくる。攻め倦ねる状況だった。


アグリアスさん!?」
 私は剣を構え、単身、敵陣の守りの薄い一角に飛び込んだ。
 虚を突かれ戸惑っていた数匹をまとめて斬り倒してやる。さらに数匹ほどを倒したところで、
激高した牛鬼たちは陣を崩し、攻撃の対象を私一人に変えてきた。これで地の利はなくなった、
そう安堵しかけたとき、足下に大きな影が差しているのに気付いた。
 鎧越しの背中に牛鬼の斬撃が浴びせられるのが判った。遠くでラムザが叫ぶのを聞きながら、
私の意識はゆっくりと闇に落ちていった。






「……どうしてあんな無茶をするんです」


 目を開けると、ラムザが泣いているような怒っているような顔でそう言った。そこはラムザ
天幕で他に人影は無く、彼が傷ついた私を介抱してくれていた。
 私の無謀な突進のおかげで、結果的には他に怪我人を出すこともなく何とか敵を退けることが
できたらしい。それならば、この傷もまんざら無駄というわけではなかったようだ。
 私は黙ったまま、ただラムザの胸に顔をうずめた。そして彼はまた私の背を撫でてくれる。
 新しく背中に出来た傷はかなり深そうだ。触れなくても感じられるくらいだから、当分は薄れ
ることもないだろう。またラムザに世話をかけることになる。私はラムザに気付かれないように
だらしなく顔をほころばせた。



 彫刻は職人の手の中で愛される。
 彼は心の全てを石塊に注ぎ込み、彫刻はその情熱を享受してその身に美しさを蓄えてゆく。
 二人はあたたかい繋がりのなかでいつしか一つになる。
 けれどそれは、彫刻が完成を迎えるまでの淡い夢物語。
 完成された彫刻は観衆の目を楽しませ、職人はまた新たな石に情熱を打ち込む。


 だから私は完璧など求めない。いつまでもラムザの手を私だけに煩わせつづけていたい。
 たとえ他の誰に見てもらえなくても構わない。



 そう言ってくれたのは、他でもないラムザなのだから。 





 終