氏作。Part14スレより。



 夕暮れにさしかかり、人気の少ない通りをラムザアグリアスは二人並んで
歩いていた。手一杯の荷物を持っているせいか、二人とも口数は少ない。街に
駐留する度に行う、物資の補給の帰りなのだ。
 隣を歩くラムザの、ぽやんとした横顔を横目で眺めながらアグリアスはつく
づく副隊長(自称)と言う自分の地位に感謝していた。隊の人員が増えて以来、
ラムザと話す機会はめっきり減ってしまい、それまで当然の様に一緒にいた彼
が疎遠になり、他の隊員(主にメリアドール)とばかり接するのを見て、よう
やくアグリアスは自分がラムザにほのかな好意を寄せている事に気付いた(と
いっても鈍感な彼女が認識しているのは、ラムザが他の女(主にメリアドール)
と一緒にいると腹が立つとか、ラムザが近くにいないとどうも調子が悪いとか
いった程度の事に過ぎないが)。しかし幸運な事に彼女は副隊長、ラムザと二
人っきりでお買い物や夜の作戦会議をできる身分であった。そして今日も彼女
はわざと回り道をし、この大事な時間を引き延ばし味わっていた。


「はい、アグリアスさん」
「え?」
 宿に着き、一息ついているアグリアスラムザが差し出したのは、
「……口、紅?」
「ええ、さっきの店で店員さんがくれたんですよ。サービスだって」
ラムザにくれたのか?」
「ちっ、違いますよ。『すてきな彼女にプレゼントしなさいよ』って、どうも
恋人同士に見えたみたいですね」
「ふふん、珍しいな。私の記憶では貴公が女だと思われるのがほとんどだった
気がするが」
「はは…、とにかく、よかったらつけてみてください。きっと似合いますよ」
「私などよりメリアドールの方が良いのではないか? …まあ一応頂いておく」
「そんなことないですよ。つけたら是非見せてくださいね」
 楽しそうに笑いながら、ラムザは自室に去っていった。恋人、という言葉を
聞いても全く微動だにしない彼女に、少しだけ気を落としつつ。その背中を見
送りながら、アグリアスはうつろな表情で宿の入り口に立ち尽くしていた。



 夕食の席、久しぶりの酒に一行は盛り上がる。もちろんこういう時に盛り上
がるのは、酒があろうとなかろうと騒がしい連中、と相場が決まっているのだ
が。そんな中、ムスタディオやラッドにもまれるラムザの姿があった。
「待てラムザ! 今日こそは逃がさねーぞ、最低でも一瓶は飲ませてやる!」
「だ、ダメだって。まだ仕事が…」
「そうだ、隊長が飲まなくてどうすんだ! 他の奴に示しがつかないだろ!」
「示しって…、十分飲んでるじゃないか…」
「やめときなさいよ、あんた達。隊長は誰かさんと違ってお忙しいんだから」
「そうそう、あたし達が付合ってあげるから。二軍はニ軍同士楽しみましょ」
 見かねて助け舟をだしてくれたのは、酒豪のラヴィアンとアリシアだった。
今度はムスタディオ達の顔が青ざめる。ラムザは顔に安堵の色を浮かべ、ふと
気になっていた事を尋ねた。
「あの、アグリアスさんが見当たらないようだけど?」
「あー、えーとまだ部屋にいるんじゃないかしら」
「うん、まだ鏡見てるんじゃないかと思います」
「え、鏡?」
「そう、鏡」
「御自分に見とれてらっしゃるのかしら?」
 クスクスと二人は顔を見合わせる。要領を得ないまま、まあいいか、と二人
に礼を言ってラムザは自室に向かった。後ろでは「さあー、飲むわよーッ!」
というラヴィアンの快活な声が聴こえる。ラムザはこっそり(ムスタディオと
ラッド、明日出撃不能…)と頭に書き留めた。


 静かな部屋、アグリアスは備え付けの鏡と独り向き合っていた。しかし、そ
の表情はラヴィアンの考察とはかけはなれて厳めしいものだった。威嚇してい
ると言ってもいい。はっきり言って不気味である。そのうち、アグリアスは意
を決したように小さな筒をとり、その蓋を開けた。そしてその先端を自らの唇
に運んでいき…、誰にともなく呟いた。
「無理だ………」
 そして首を振り、また筒に蓋をした。先程から何度も繰り返していることだ。



 ラムザから口紅を受け取った時、平静を装っていたもののアグリアスは内心
穏やかでなかった。うぶな上に、ただでさえ感受性豊かな彼女は、
(プレゼント……ラムザが私にプレゼント……恋人……ラムザが私の……)
 という具合に半ば放心状態に陥っていた。しばらくの間立ち尽くし、やがて
思い立ったようにフラフラと部屋に向かうと、鏡の前に陣取り、口紅を握りし
めたままにらめっこを始めたのだ。時間にして二刻ほど。そうしてまあ、今に
至るわけである。
 

 階下から、大きな笑い声が聴こえた。ふっと緊張の糸が切れ、アグリアス
急にひどく馬鹿馬鹿しくなった。そして半ばやけくそ気味に紅を描きなぐった。
しげしげと自分の顔を眺める。出て来た感想はやはり、
「無理だ………」であった。アグリアスは目を落とした。
 ほんのちょっぴり、予想外の失望に囚われる彼女に、彼の言葉が反響する。
『すてきな彼女に』
(すてきどころか、男の女装みたいではないか…)
『きっと似合いますよ』
(すまないラムザ…お世辞にも似合わないぞ。渡す相手…間違えたようだな)
『そんなことないですよ』
(優しいな、ラムザは……)
 ふう、と切ない息を漏らして彼女は鏡に目を戻した。その途端、思わずはっ
とした。


 そこには優しい笑みをたたえた、息を飲むような美しい女性の姿があった。
眉間に思いきり寄せていたしわは消え、憂いに満ちた瞳が神秘的な空気を醸し
出している。真すぐに結び、心持ちその端を持ち上げた唇には桜の花を鏤めた
ような淡い桃色がしっとりと濡れ、暗みのかかった部屋で輝いているような錯
覚を覚えるほど見事だった。
 アグリアスは目を疑った。本当にこれは自分の顔なのか。先ほどまでとは似
ても似つかないではないか。しかしそれは紛れもなく彼女のもの。ラムザとい
う温もりを得て、安らぎの中にいる時の彼女、アグリアス自身も知らなかった
本当の彼女なのだ。



(これなら…………)
 ラムザに見せられるかも…、と思いかけた瞬間ブルンブルンと頭を振った。
(何を馬鹿な! 使っていればそれで十分ではないか。見せる必要などない!)
 一体今まで何のために鏡の前にいたのか問いかけたくなるような弁解である。
彼女がいつ口紅を使うつもりなのか、計り知れないものだ。
 しかし、そんな口上も、
『是非見せてくださいね』
 というラムザの言葉を思い出して、あえなく陥落する。何しろアグリアス
身本音は見せたくてたまらないのだ。決意を固めると、復習するようにもう一
度鏡に向かって笑ってみた。思わず吹き出してしまいそうな、困りきった顔が
映った。



 ラムザの部屋の前、廊下に人気はない。階下ではまだ騒いでいる声がする。
なんとか彼の部屋まで来たものの、アグリアスはノックをしようと拳を握り…、
止めた。まだ未練がましく言い訳を探しているのだ。
(第一………何を話せばいいのだ)
 まさか、口紅つけてみたの、などとは逆立ちしても言えない。明日の行程も
既に話し合ってしまっている。アグリアスは少し頭の中でシミュレーションを
してみることにした。




 コンコン。
ラムザ、ちょっといいかな」
「ええ、どうぞアグリアスさん……あ」
「どうした?」
「口紅、つけてくれたんですね」
「……似合わないだろう」
「まさか! そんなことないですよ、想像してたよりもずっと、綺麗です」
「そうか…? ………ありがとう」
「よかったぁ。少しだけ、つけてくれないかもなあ…なんて思ってたんです」
「…貴公に喜んでもらえて何よりだ」
「これで、毎日アグリアスさんが化粧してくださったら、言う事なしですよ」
「そう、かな…? …それでは、明日からそうする事にしよう」
「本当ですか! 嬉しいなあ」
「…この戦乱が終わっても、続けたって構わないんだぞ。貴公が望むなら…」
「え……アグリアスさん、それって……」
「…ラムザ……」
アグリアスさん……」



 ぼんっ、とアグリアスのシミュレーターが音を立ててオーバーヒートした。
慌てて思考に蓋をしつつ、自分の許容量を越えた想像力に呆れる。真っ赤にな
った顔を抑えながら、落ち着こう、とアグリアスは大きく息を吸い込み、その
途端隣のドアから突然クラウドが姿をあらわしたので、思いきりむせ返った。
クラウドは彼特有の冷めた眼差しでアグリアスを一瞥し、何事もなかったよう
に去っていった。気付けば顔は余計に赤くなってしまっている。
 ええい、時間の無駄だ。こうなったらもう出たとこ勝負で構わん。それに、
ラムザなら何を言わずともきっと化粧に気づいてくれるだろう。よし、行くぞ。
 しかし、空元気をだしてドアを開けた彼女の第一声は、「口紅つけてみたの」
でもなければ、「ラムザ、ちょっといいかな」でもなかった。



「………そんな……」


 膝から崩れ落ちてしまいそうな程の脱力感に襲われ、彼女は呻くような声を
あげた。控えめなノックと共にドアを開けた彼女の目に、真っ先に飛び込んで
来たのは、書類の整理の最中だったのだろう、机に突っ伏しているラムザの、
ぼんやりとしたランプの明かりに照らされた背中だった。
「………寝てる」
 すぅすぅとかすかな寝息が聞こえる。こういう時のラムザは平手打ちを喰ら
わしても起きないのをアグリアスは知っている。
(……これだけ悩ませておいて……)と腹立たしく思う反面、
(……馬鹿みたいだ……一人で舞い上がって……)
 痛いほどそれがお門違いの苛立ちだとはわかっていた。落胆と情けなさと、
ほんの少し安心の入り混じった切ない感情。
(……………戻ろう……)
 彼女は息をつき、ノブに手をかけた。その時、


 ……クシュッ…


 背後で小さなくしゃみ。振り向くと、続けて鼻をすする音。よく見れば、ラ
ムザが着ているのは薄い布地の肌着一枚。下に履いているのは、今日の行軍の
間身につけていた、泥がついたままの代物だ。草原に潜む虫達の鳴き声が心地
よい早秋には、すこし不用心な格好。アグリアスの顔に、ふっといつもの凛々
しい笑みが戻った。




(……まったく)
 ベッドから毛布を剥がし、彼の背中にそっとかぶせてやる。自分を包む暖か
さに、ラムザは満足げな声をだす。
(……こんなに世話を焼かせて……)
 たまらないほど愛おしく、小憎らしい。アグリアスは、ラムザの幼子の様に
柔らかい頬をふにふにとつねった。
(……ずるいぞ………この……)
 膝を折り、アグリアスは楽しそうに彼の頬をいじくり続けている。
 もしもそこに鏡があれば、さっき以上に、自分でも、満点をつけてあげたく
なるような顔をしているのに気付いたことだろう。




「……う〜ん……」
 その微笑ましい行為は、寝ぼけたラムザの手によって突然中断された。急に
手を掴まれてアグリアスは動揺したものの、ラムザが眠っているのを確かめ安
堵する。が、少し冷静になった彼女は、何だか気恥ずかしくなってしまった。
気付けば大分夜も更けている。そろそろ下で騒いでいる連中も上に戻ってくる
だろう。特にラヴィアンやアリシアに出くわすと面倒だ。アグリアスラムザ
の手を引き剥がしにかかった。しかし、その行為もまた、寝ぼけたラムザによ
って中断された。


「………あ」
 思わず声がもれる。ラムザは肘で抱えるように更にアグリアスの手を引っ張
りこみ、そしてにんまりと笑ったのだ。暖かく、優しく、明るく、形容しきれ
ないすべての安らぎが収束したような…、一瞬、ひどく馬鹿馬鹿しい事だが、
アグリアスはその笑顔で世界が平和になったような気すらしてしまった。先ほ
どの自分自身と同様、今まで彼女が目にしたことが無かったものだった。ドキ
ドキと高まる胸にうろたえながら、どうやって手を引っぱりだしたものか思案
に暮れていると、更に柔らかい声が突き刺さった。
「……ア…グリアス…さ……」


 その声が最初に感じさせたのは、喜びだったか、驚きだったか。そんなこと
はもうアグリアスには分からなかったし、どうでもよかった。ただ、どんどん
ラムザの顔が大きくなって、目を背けられなくて。まるで、溶けた金属が熱を
帯びてアグリアスの心に流れこんだようだった。じんわりと、力強い温もりの
中で、彼女の理性も溶けてしまったのだろう。気付けば今の今まで暴れていた
胸はおさまり、自分とラムザの静かな呼吸だけが響く。アグリアスは心の望む
まま、熱病にかかったようなうつろな瞳で、彼の寝顔に引き寄せられるように
自分の顔を近付けていった。



 

 ああ、ラムザラムザ。なんだかもう、お前の顔しか見えない。
 私の頭は、お前の事しか、考えられなくなってしまったみたいだ。
 なぜだろう。お前の事を思うと、私は不思議なぐらい素直になれるんだ。


 ラムザ、お前も私の事を考えているのか?
 夢の中で、お前は私の事を見てくれているのか?
 うぬぼれだろうか、その笑顔が見守っている相手は、私なのか……?



 静寂に包まれた小さな部屋、明かりになるものは古ぼけたランプが一つだけ。
すきま風のせいでゆらゆらと頼り無い火が、壁に二つの影を描いている。
 その内、ほんの一時、その影が重なったように見えた。曖昧な灯りのせいだ
ろうか。あるいは、風の仕業だったのかもしれない。けれど、もしかしたら…。
 そう、もしかしたら、ラムザは明日、頬についた身に覚えのない“口紅”の
跡を、皆にからかわれるかもしれない。そして、そんな彼の様子を遠めにひっ
そりと、しかしとても満足げに見つめるアグリアスの姿があるかもしれない。
 もちろんそれはもしかしたらの話、影はもう二つに別れている。一方の影は、
やがて名残惜しそうに去っていった。小さく軋む音を立てて、ドアが閉まる。



 ランプの火は、責務を終えた様に、静かに、独りでに燃え尽きた。





 終