氏作。Part33スレより。






「すみません、一人にしてください。――半日でいいですから」
 ラムザはそう言うと、宿の自室に篭ってしまった。
 無理もなかった。ルカヴィと化したとはいえ、実兄たるダイスダーグを手にかけて
しまったのだから。
 かてて加えて、ラムザがもっとも信頼していた兄、ザルバッグも行方不明になって
しまった。最愛の妹アルマも杳としてその消息が知れない。
 急転直下、家族は離散。
 幾多の修羅場を潜り抜けてきたラムザにとっても、この展開はこたえたらしい。
(心の整理が必要なのだろう、そっとしておいてやる他ない――)
 オルランドゥがそんなふうに皆を諭した。
(ここのところずっと移動、そして連戦だった。アルマの行方は気になるだろうが、
皆、少し骨休めをしてはどうかな)
 とも。
 そのようなわけで、ラムザ一行は現在イグーロスで足止めとなっている。
 物資調達に行くもの、自室で休息を取るもの、いろいろであったが、隊の副長格で
あるアグリアスとしては、やはり長であるラムザのことが気になった。
 アグリアスも、やはり忠誠を誓った主君オヴェリアを守りきれなかったという苦い
経験がある。彼女にしてみれば、ラムザの感じているであろう喪失感は痛いほど良く
分かったのだ。
 力づけてけてやりたいのはやまやまであったが、当人が他人との接触を拒んでいる
のではいかんともしがたい。
(無理に慰めようとして、かえって傷つけてしまっても仕方がないしな――)
 アグリアスはそんなふうに考えた。


「あ、隊長、どこ行くんです?」
 宿の玄関ホールで、ラヴィアンが声をかけた。
「――ちょっと街へ出て情報でも集めようかと思う。ラムザはああだしな」
 アグリアスは答えた。
「街へ。――気をつけてくださいよ。あたしらお尋ね者なんですから」
「教会が血まなこになっているのはラムザさ。私など連中の眼中にないよ。伯もいて
くださるし、当面問題はなかろう。ちょっと出てくる」
「お気をつけて」
 というわけで、アグリアスはイグーロスの市街に出た。
 獅子戦争は、南天の指揮権を握った新英雄ディリータによって終息に向かっており、
戦時体制が解かれたわけではないとはいえ、イグーロスもそれほど空気が張り詰めて
いるわけではなかった。
 むしろ城主ダイスダーグと副官ザルバッグが失踪したことで――これはラムザたちが
引き起こした事態だが、現場にいたものがみな死亡ないし消滅したため、当局の追及を
受けずにいた――主を失った北天親衛隊は戦争どころではなかったのである。
 またイグーロスは北天の根拠地ではあったが、直接戦場になったわけではないので、
都市機能まで失われたわけでもない。
 ちらほらと、戦場から引き上げてきたらしい兵士の姿なども見受けられた。
(少しずつ、市民のたつきも戻りつつあるか)
 アグリアスはそのように見て取った。
 往々にして、このようなとき最初に活力を取り戻すのは庶民である。
 人々は生きねばならず、生きるためには社会活動を回復させねばならない。機能が
麻痺した為政者などに頼らずとも、市民のバイタリティは失われないのだ。


 アグリアスが驚いたことには、イグーロスの繁華街はすでに部分的にではあるが
通常の商業活動を再開していた。
 けたたましい売り声がこだまし、最盛期に比べれば遥かに及ばなかったであろうが、
それなりに人出もあった。はなはだしきは、お上がうるさいことを言わないうちに
稼いでやれとばかりに繰り出している商売女までもがいた。
(――いや逞しいものだな、市民というのは)
 アグリアスは呆れるともつかず、感心するともつかず商業街を進んでゆく。
(しかしさて、どこで情報を集めたものか)
 情報通が集まる場所といえば酒場と相場は決まっているのだが、騎士団の混乱で
治安があまりよくないいま、酒場に女のアグリアスが一人で入ることは憚られた。
また、見渡したところ営業している酒場もなさそうだった。
(おや……)
 アグリアスの視線が止まった。その先には、一軒の瀟洒なカフェがあった。
(ほう、カフェか)
 紅茶や珈琲を飲みながら軽食を楽しむこのようなカフェは、アトカーシャ朝中期に
隣国オルダーリアより流入し、定着したものである。この頃にはすでに、大都市では
幾つものカフェが軒を連ねていた。
(店を開いているようだな……そこそこ人もいるようだし、あそこにするか)
 アグリアスはその店へと向かった。通りに向けて大きく窓を開け放った、明るく
開放的な店だった。
「いらっしゃいませ」
 いかにもカフェのマスターといった四十がらみの男が応じた。
「一人なんだが、構わないかな?」
「はい、当節、お客様さえあれば有難うございますから。お好きな席へどうぞ」
 愛想のよい笑顔を浮かべて、店主は答えた。


 アグリアスは、通りに面した大きな窓際の席についた。
「紅茶を頂こうか。銘柄は任せる。――ときに店主」
「はい」
「なかなか人が集まっているようだが、戦争の情報などは入ってくるか?」
「はぁ、まあそれなりに。……お客様は傭兵でいらっしゃいますか」
 アグリアスはあまり怪しまれないよう、いかにも戦場帰りの傭兵のようななりで
街に出ていた。店主もそう信じたようだった。
「まぁ、そんなところだ。イグーロス城の警護に雇われたんだが、城主が失踪とかで
暇を出されてしまってな。――なんでも戦争は終結に向かってるらしいじゃないか」
 アグリアスは出任せを言った。店主は疑いもせずに答えた。
「そのようでございますね。ドーターから引き上げてきた傭兵の方の話では、なんとか
いう若い騎士が軍を取りまとめ、北天と南天は和平調停に向かっているとかで」
「ほう。すると本当にいくさは終わりそうなのか。――平和なのはいいのだろうが、
我々のようなものは飯の食い上げだな」
「さようでございますね。私どものような庶民は戦いがないほうがようございますが」
 店主は笑い、女中に持ってこさせたポットで手早く茶を淹れた。
 アグリアスは、なおもいろいろ探りを入れてみたが、大した情報は得られなった。
(それほど状況が動いているというわけでもなさそうだな……ん?)
「店主。この席はサリアスの花が活けてあるな? ほかの席には花などないようだが」
 女だてらに剣を振るうとは言いながらも、アグリアスとて女性である。草花を愛でる
感覚もないわけではない。
 そのいかにも女性らしい感性で、アグリアスは己の座っている席と、他のそれとの
差異を見出した。 
「ああ、これでございますか。これは――」
 店主が答えようとした時、入り口のドアが開き、ぶら下げられたベルがカラランと
快い音を立てた。


 入ってきたのは、数人の隊商であった。
「いらっしゃいませ」
 店主が応じた。
「はい、六人様でございますか。それではあちらのお席へ――おや」
 さらに隊商の後から、一人の老女が姿を現したのだ。
「これはこれは。今日おいででございましたか。しかし、さて――」
 店主は店内を見回し、首をかしげた。隊商六人が席に着けば、席は埋まってしまう。
当然、後から来た老女に席はないはずだったのだが――
「――お客様」
 老女と二言三言言葉を交わした店主は、アグリアスの脇によって口早に声をかけた。
「大変申し訳ございませんが、相席をお願いできますか」
「相席?」
「はい。実はこの席、あのご婦人の……いわば予約席なのでございますが、あの隊商の
方々に席を割り振ると、他の席が埋まってしまいます、そこで――」
「予約席? それにしては私が座った時に何も……」
「いえ、予約と申しましても、確実なそれではなく、あの方がいらした時はこの席に
座るという――ちょっとその、特殊な事情がございまして」
「それなら、私は店を出ても構わないが……」
「いえ、無下にお客様を追い出すような心無いわざも致しかねますし、それに……
相手が女性であれば構わないと、あの方も申しておりますので」
「なんだか分からんが……あの婦人に異存がないのであれば、私は別に」
「有難う存じます、それではちょっと、そのように取り計らいますので――」
 店主は言うと、新来の客達を捌くべく、入り口に取って返した。


「ごめんなさいね、年寄りの我侭で」
「いえ――」
 アグリアスは、失礼にならない程度に、向かい合って座った老女を眺めた。
 年のころは六十前後といったところか。庶民であるらしい、小柄で目立たぬなりを
した、しかし若いころは可愛らしかったであろう、品のいい女性であった。
(なんだか……ずいぶん儚げな感じのするひとだな)
 アグリアスはそんな感想を持った。
 こんな世の中であるから、そうそう明るい人間などいようとも思えないが、それに
してもいやに幸薄そうな、古い悲劇の女主人公でもありそうな翳のある老女だった。
 彼女は腰掛ける際にアグリアスに小さな声で詫びを言ったが、座ってからは殆ど
口をきかなかった。ときたま紅茶を啜っては、ぼんやりと窓の外を見つめている。
(亭主にでも先立たれて、行くところもなくここで時間を潰しているのかな……)
 何しろ乱世であり、大勢の人間が死んでいる。さらにまた老女の薄倖そうな様子
から見て、身近な人でも喪ったのだろうか、とアグリアスは考えたのだ。
(――さっきから、何を見てるんだろう?)
 アグリアスも老女の視線の先に目をやった。
 だが、特に何があるとも思われない。窓の外には広い目抜き通りがあり、すこし
先には噴水広場があり、大きな楡の樹があった。目立つ物といえばそのくらいだ。
(そういえばさっき、店主が予約がどうのと言っていたが……)
 ひっそりと地味でありながら、なぜやらひどく人目を引く老女の悲しげな雰囲気に、
アグリアスの目も引かれたが、そうかといってあれこれ聞きほじるのも憚られた。
 ふと、正面を向き直った老女とアグリアスの目が合った。


「あ……」
 知らず、アグリアスは赤面した。詮索がましい目を向けたことへの愧念もあった。
「し、失礼を――」
 アグリアスは非礼を詫びたが、老女は気にするようでもなく、うっすらと笑った。
「貴女は、兵隊さんかしら?」
 初めて興味を引かれたかのように、老女は言った。
「は、はぁ、傭兵で――」
「そう……とても綺麗なのにね」
 老女は目元をほころばせた。
「私、貴女に謝ったかしら? ご免なさいね、貴女が先に座ってたのに、割り込む
ような真似をしてしまって」
「い、いえ、それはさっき、最初に言って頂きましたし――」
「まぁ、それはご免なさい。歳を取ると、仕方がないわね……」
 自嘲気味に老女は笑った。
「そんなに恐縮しないでね。――予約といっても大したことじゃないのよ。ただ、
ここの先代のマスターと、約束していただいたの」
 問わず語りに、老女は身の上をアグリアスに述べ始めた。アグリアスもいくらか
釣り込まれた。
「――約束?」
「ええ、――遠い昔の、約束」
 老女は遠くを見るような目をした。


「サリアスの花言葉は、ご存知?」
 老女は言った。
花言葉……ええと――確か『思い出』……」
 そんなことを仲間うちで言おうものなら“イメージと違う”とからかわれるのは
目に見えているから黙っているが、アグリアス花言葉だの草花の名前の由来だの、
それにまつわる伝説だのの知識は豊富なのだ。
「よくご存知ね。――そう、『思い出』」
 老女は静かに微笑んで言った。
「思い出。――私はそれのために、ここの先代のご店主に無理を聞いてもらって、
こうして今もこの席にサリアスを活けてもらっているの」
「……?」
「もう、30年も前のこと――」
 老女は遠くを見るような目つきで言葉を継いだ。
「あれは、五十年戦争のさなか、ロマンダがイグーロスやジークデンを占領した時
……ロマンダ兵は、占領地で略奪、暴行をはたらこうとしたわ……」
 五十年戦争中期に畏国西部に進駐したロマンダ軍は、勇猛をもって知られたが、
一面、暴兵でもあり、また当時はどこの国も占領地での略奪暴行は許容していた。
ために、畏国西部では地獄絵図が繰り広げられたのである。
 そのことはアグリアスも聞いたことはある。とはいえ彼女が生まれる前のことでも
あり、そういわれてもぴんと来ないのが実際であった。
「……当然、若い女はすぐさま呂国兵の爪牙にかかったわ。私もそうされかけた。
でも、救ってくれた方がいたの」


「救って……?」
「そう、その方も呂国兵だったのだけれど」
「そ、そんな馬鹿な!」
 アグリアスは反射的に叫んだ。占領軍の兵が、暴行される敵国の女を同胞から
庇うなど、ありそうもない話である。
「でも、本当なのよ」
 老女は悲しげに笑った。
「その方は、勇敢ではあったけれども誇り高い兵士だったわ。私、彼に一目で惹き
つけられた。そしてその方――呂国兵のジェナーロと私は、あの夜、結ばれた……」
「……」
「やがて呂国兵は、本国に黒死病が流行したために引き上げることになったわ。でも、
ジェナーロは言ったの。この先も僕には兵役があるだろうが、何年かかってでも君を
迎えに来る。だから待っていてほしいって……」
「……」
「その再会を誓った場所が、あそこにある楡の木の下だったわ。そして彼は、その
花言葉に『思い出』の意味のあるサリアスを私にくれたの」
「……サリアスを……」
「そう、そして、私は当時店主をしていたこの店の先代に頼んで、この席にいつも
サリアスを活けてもらい、あの楡の木から見えるここにこうして通っているのよ」
「通ってって……三十年以上もですか!」
 アグリアスは声を上げた。
「ええ。――あの方を信じているから」
 そう言った老女の顔は、なにがしか爽美なものがにじみ出ていた。


「あら」
 老女はちょっとはにかんで、くすりと笑った。
「ごめんなさいね、つまらない身の上話を……おかしいでしょ、貴女のような
お若い方から見たら」
「い、いえ、そんなことは――」
 本当のところ、アグリアスは老女の話を額面どおり信じたわけではない。
(いや、話自体は嘘はないのだろうが……)
 問題は、そのジェナーロなる呂国男のほうである。以前のアグリアスであれば、
こういった美談はたやすく信じたかもしれない。だが、反覆常ない乱世にあって、
人間社会の裏を見てきた彼女は、以前よりは疑り深くなっていた。
(どうも、女を篭絡する手管のような気がしてならんのだが……)
 仲間と語らって、女をモノにするため、そのような芝居を打つ男がいるかも
しれないではないか。
(それに、よしんばその男が本気であっても……)
 それならばそれで、何らかの便りがないことはおかしくはないか。
 けだし、その男はこの女性を弄んだか、さもなくば本気であっても、もう畏国
には足を運べない、最悪は死んでいる可能性さえある。まして呂国は、黒死病
大流行した国だし、そもそも先の戦争以来、呂国人の入国は困難であろう。
(だとしたら、この婦人は己が青春を棒に振ってしまったことになるのか……)
 だが、老女の言葉にはきわめて高潔な熱意と確信があるようにも感じられる。
(どうもこれは……いや、私が物事を穿って見すぎなのだろうか?)
 アグリアスは老女の思いを信じたい気持ちと、それを疑ってしまう自分との
板ばさみになっていた。


「……三十年間、毎日ここに通われたのですか?」
 アグリアスは好奇心も手伝って、そうを聞いた。
「若い頃はね。でも、このごろは足も利かなくなったし、今では五日にいっぺん
通えればいいほうだわ」
 老女は答えた。
(それでさっき店主が『今日お見えでしたか』などと言ったのだな)
 アグリアスは当たりをつけた。
「出来れば毎日通いたいのだけれど……あの人と行き違いになってしまうかも
しれないしね。でも最近は戦争で物騒だったでしょう。昨日になって、やっと
戦争が終わるかもしれないと聞いて、こうして出てきたのだけど……」
「そうですか……」
 どこまでも望みの薄そうな話であった。
(ただ、ここまで相手を信じられることは、ある種の美学なのだろうな……)
 アグリアスは黙考した。
(信じることか――私は、何を信じて戦っているのだろうな……正義――そう、
正義といえば正義の戦いだ。……だが、報われることもない、孤独な、絶望的な
戦い――私はラムザに賭けた。それが、ひいてはオヴェリア様のためにもなる
大局的な正義たりうると信じて……)
 その思いは今も変わらない。しかし予想外に長引き、泥沼化した戦いを経て、
さしものアグリアスもやや精神的に参っていた。
 しかし目の前の老女は、おそらくアグリアスより遥かに無力でありながら、
遠い日の愛と約束を糧として、希望を捨てずに生きているのだ。
 さながら、濫荊の荒野に力強く咲くサリアスの花であるかのように。


「――?」
 ふと、アグリアスは顔を上げた。
 老女は窓の外を見ていた。
 その皺ぶかい目が、大きく見開かれている。
 その細い手が、かたかたと小さく震えている。
(まさか――)
 アグリアスもその方向に目をやった。
(――!)
 そこに――
 一人の男が、立っていた。
 白髪白髯、赤銅色の肌をした、もとはかなり頑健であったろうことを窺わせる、
しかし片足が義足であり、長い棕櫚の杖で身を支えた六十がらみの男――
 その男が、楡の樹の下に立ち、こちらを凝視しているのだ。
「あ……あ……」
 老女が喘いだ。
 アグリアスが向き直ると、彼女はその双眸から白く光るものを頬に伝わせ――
(ま、まさか、本当に――?)
 楡の木の下の男も、応えるかのように、白眉のせり出した眼から涙を流していた。
「本当に……本当に!」
 老女が嗚咽した。
 それは、彼女の三十余年の孤独を一気に埋める喜悦の声であった。
「待っていた――待っていたのよ、ジェナーロ!」


「――くれぐれも、お客様によろしく、と言っておられましたよ、あの方が」
 店主が、二杯目の紅茶を淹れながらアグリアスに告げた。
「いや、私など、何もしていないが……」
 アグリアスは、なかば呆然と、寄り添いながら歩き去るジェナーロと老女を
見送っていた。
「それにしても皮肉な話ですね。内戦で港湾警備が緩んだからこそ、呂国の方が
入国できたとは……」
「ああ……」
 ジェナーロ自身の言葉によれば、彼は帰国後、様々な奇禍に遭っていた。
 老女を助けたことにより、兵士仲間から内通罪をでっち上げられ、収容所送りに
なったのだ。皮肉なことに、そうして隔離状況にあったため、黒死病の罹患をこそ
免れたが、過酷な労役により、もとは壮健だった彼もみるみる体力を削られ、つい
には片足を失う羽目になった。さらに、頑として内通罪を否定したため、その労役は
長期にわたり、出獄したのはごく最近であった。
 それでも、ジェナーロも、老女との約束は忘れていなかったのだ。
折しも、畏国は獅子戦争により内乱状態であったが、逆に国境警備は手薄になった。
その隙を衝いて、彼は単身畏国へ上陸したのだった。
(なんと強い思いであることか……)
 アグリアスは、彼らの愛を疑ったことを愧じた。
 同時に、ふたりの強い思いに、見失いかけた信念を強く喚起される思いであった。
(か弱い市井の民とて、己が戦いを貫く。まして戦士たる我々においておや――)
 アグリアスは軒昂として頭を上げた。


「あの方達、どうなるのでしょうかね」
 店主が言う。
「どうということもあるまい。――あの二人なら、大丈夫だろうよ」
 アグリアスは力強く請合った。
「さて! 私もそろそろ失礼するか。店主、勘定を」
 そう言われて、店主は首をかしげた。
「いえ――お代は結構です」
「え?」
「――正直、私も疑っておりました。あのご婦人の約束は、叶えられずじまいでは
ないかと。亡き父の遺言で、こうして予約席も設けてきましたが――」
 店主は、そのテーブルを一瞥し、
「けれど、今日めでたくその約束は果たされました。この良き日に、相席となった
お客様から、お代を頂くような無粋な真似は出来ません」
 アグリアスは目を細めた。
「そうか。――では、お言葉に甘えようか」
「その代わり、お客様。この花をお持ちくださいませんか」
 店主は、活けてあるサリアスを差し出した。
「あの方の約束は果たされ、この花はその役目を終えました。次は、お客様こそが
サリアスの幸運に浴するべきかと思いますので」
「――そうか」
 アグリアスはそれを受け取った。
「有難く頂戴しよう。――店主とこの店の繁栄を願っているぞ」
 言うと、彼女は店を出、ようやく日の沈みかけた美しい黄昏の空を見上げた。
(そう、信じること。それは、時として不可能を可能にもする――)


「あ、隊長、お帰んなさい」
 アグリアスを見送るのもラヴィアンなら、出迎えるのも彼女であった。
「なんか、いい情報めっかりましたか」
「いや、特に。それほど良くも悪くも事態は動いておらんようだ」
「へー。……それにしては隊長、なんだかいやに晴れやかなお顔してません?」
「そうか? ま、悪いことがないだけ良いということだろうさ」
「はぁ」
 ラヴィアンは目を白黒させた。
「ところで、ラムザはどうした?」
「少し伯とお話されてましたよ。お昼ご飯は食べたみたいです」
「そうか」
 アグリアスは、そのままラムザの部屋に向かった。
ラムザ、私だ。アグリアスだ。――入ってもいいか?」
 彼女にしては遠慮がちに声を落とし、ドアの外から声をかける。
「――ああ、どうぞ」
 思ったより元気そうな返事があった。
 ラムザはベッドに座っていた。まだいささか表情は暗いが、今朝見せたほど
悲痛な面持ちでもない。
「少し、落ち着いたか?」
「はい、伯が愚痴を聞いてくださいましたし。だいぶ楽になりました」
「そうか」
 アグリアスはベッドと向かい合った椅子に腰掛け、どう彼を励まそうかと頭を
めぐらせた。


「すいません、皆さんにご心配かけて」
 ラムザは頭を下げる。
「気にするな。――仕方ないさ。あのような羽目になってはな」
 アグリアスは笑い、そしておもむろに懐からサリアスを取り出した。ラムザ
目を丸くする。
「サリアスの花――? そんなもの、どこで?」
「ちょっとな。なぁラムザ、この花の花言葉、知っているか?」
花言葉……いいえ」
 ラムザは首を振った。
「そうか。『思い出』というんだ」
「思い出……」
「そう。――貴公にもザルバッグ殿やアルマ殿との思い出があろう」
 ラムザがそれを悪いほうへ連想せぬよう、柔らかくアグリアスは言った。
「は、はぁ」
「だが、思い出のまま終わらせる気は、私にはない」
「――え?」
「この花のもとの持ち主は、思い出を思い出だけにすまいと、この花に願いを
託した。そして、それは見事にかなった」
「……」
「私も、貴公のザルバッグ殿やアルマ殿の記憶を、思い出のみにするつもりはない。
こののちも思い出を作れるべく、貴公のために全力を尽くそう」
アグリアスさん……」
 ラムザはきょとんとし――それからいくらか眼を潤ませた。
「これまでどんな困難をも我々は乗り越えてきた。今度とて大丈夫だ。アルマ殿も
ザルバッグ殿にもまた逢える。まして――」
 アグリアスは、すいと『それ』をかざし、
「ましてこの、幸運のサリアスがあるのだからな」
「……」
 それは、かつてのアグリアスがよくやった不器用な慰めや、中身のない励ましの
何倍も力強いことばだった。
「有難う、アグリアスさん」
 表情を明るくして、ラムザは言った。
「この身、貴公に預けるとそう言った。言ったからには、貴公のために戦うさ。
――私だけではない。皆もお前に賭けたのだからな。だから――」
 アグリアスはこつん、とラムザの頭を小突き、
「だから、元気を出せ。お前は一人じゃないんだ」
 莞爾として笑い、彼女は言った。
「――有難う」
 心からラムザは言い、そして彼もやっと屈託のない笑顔を見せた。
(それにしてもどうしたんだろう。こんなに自信に満ちて頼もしいアグリアスさん、
ちょっと見たことないな。いいことでもあったのかな?――)
 それについて、彼女の口からラムザが聞くのは、まだ少し後のことであった。


 異端者ラムザ一行の行方について、史書は明確な答えを残していない。しかし、
ラムザの傍らにあった美しい女騎士が、サリアスの花を胸に最後の戦いに赴いた、
という逸話を、幾つかの史書が伝えている。
 ――『思い出』という花言葉とともに。


                        fin