氏作。SS投稿所より。








篭絡するのは簡単だった。
権力欲なし、金銭欲なし、酒も美食も無関心、
女もさっぱりの朴念仁とのお噂だ。
そうくれば、こういう環境に好んで身をおく人物は、
知識欲の奴隷ではなかろうか。
一見穏やかで子供好きな好々爺の老僧は、
オーボンヌ修道院長と同様の人種らしく、
例の古文書の写本を見せてやるとの一言であっさりと墓の場所を教えてくれた。



お尋ね者となった自分にすら丁寧に接してくれる老僧に
いくら本人も関心をもっていたとはいえあの本を渡すなど、
良心が痛まないといったら嘘だろう。
だが、彼もまた、哀れな王女の墓所を知る者とあればそれなり、
王家の悲劇に加担していたことになろう。
グレバドス教会側の人間にひとりでも多く禁書の内容を伝えれば、
彼女が剣を預けたラムザ・ベオルブの名誉回復に何か貢献するかもしれない。
そういう期待もわずかながらあった。
そう自分自身に言い聞かせつつ、
久しくまとわなかった貴婦人としての装い、
地面すれすれまでの長い喪服の裾をからげながら
アグリアス墓所へと向かう。



苔生した小さな墓石にはもちろんのこと、
オヴェリア・アトカーシャの名と生没年など刻まれてはいない。
ただ、墓地全体の日当たりはよく、涼やかで静謐な空気が流れていた。
誰かの気まぐれだろうか。
何かを成し遂げることもなく短い生を終えたこの名もなき女の子の墓へ
ささやかな野の花が添えられていることが救いだった。
誰かの気配を感じる。
杖をつきながら、おぼつかない足取りで近づいてくる。
ここに埋葬されたどこかのだれかを偲ぶために来たとしてもあまりにも、
アグリアス自身の背に強い視線を感じる。
長いコートの裾に隠したセイブ・ザ・クイーンの柄に利き手をかけた。
人を斬る事は絶えて久しいが、アグリアスの祈りをこめた剣技は衰えない。




「わたしです。ほんとうに、お久しぶりです」
振り返ったアグリアスは、彼女をどう呼んだらよいのか戸惑い、
何も声を出せずにただ立ち尽くした。
あのころよりもさらに質実剛健な服装、
大人びた、というよりはやつれた表情だが、
来訪者が誰なのかは間違いようもなかった。
ただし、彼女のことをどう呼べばよいのか、わからない。
「ここの近くに住んでいるのは偶然です。
 バルマウフラさんが調べてくださって、
 それから、毎日お花を持ってきているんです」



草もなくきれいに舗装された石畳ですらおぼつかない足取りで、
かつてアグリアスが仕えた人物がやってくる。
敷石のわずかなゆがみにつまづいた彼女にあわてて駆け寄ると、
屈託のない微笑みを見せた。
「貴女は、本当の意味で王家に忠誠を誓っていらしたのですね」
アグリアスは、かつて彼女を呼んでいた名前を呼ぶことができず、
ただ、礼儀正しく抱き起こすよりほかなかった。
「わたしはただの平民の娘。本当の名も誕生日もわかりません。
 もうひとりのわたしは長くは生きられなかったけれど、
 誕生日と名前があったのだと思うと、うらやましく感じることもあります。
 ただ、わたしは死ななかった。いまも、生きています」
アグリアスは黙って彼女の瞳を見つめ、
両親も名前すらももたない哀れな傀儡であった娘をやさしく抱きしめた。
あの頃よりもはるかに、血の通った娘がここに生きていることだけが確かだった。













さあ、一年のあいだに溜まった煤をはらい、気分も新たに新年を迎えよう!


迎えられるわけ、ない。
「ルーシーさん、あまり無理をしてはいけませんよ」
シモン院長や修道女たちが気遣わしげにいたわってくれる。
「いいんです、私にやらせて下さい」
傷はとっくに跡形も無いくせに、動かすたびにまた肩が痛む。
あといくばくもなく新年がはじまる。
あの日かいくつもの月日が流れた。
それでもこの肩は痛む。雨の日はとくに。
雪もなく細かな雨がオーボンヌ修道院を包み込む。
ここ数日は主のいなくなった部屋を一つ一つ掃除してまわった。
ガリオンヌへ持ってゆくはずだった彼女たちの持ち物は行李にまとめられたままだ。
もとより出立の前に片付けられていた部屋の掃除など造作もないのに、
私はいつまでものろのろと掃いたり拭いたりを繰り返した。
はじめにオヴェリア様の使っていらした部屋、ラヴィアンの部屋、アリシアの部屋。
アグリアス様の部屋を最後に回して手をつけずにいるのも限度があった。
ほかの修道女たちに片付けられるよりはと思い切り、
古い空気と一緒にあの方の残り香も屋外に追い出す。
ほんのひとすじ、アグリアス様の透き通るような長い金の髪をみつけた。
こっそりと左の小指に巻き付けて持ち帰り、来年の日記帳にはさみこんだ。



アグリアス様…、て、敵がッ!」
肩を押さえ、よろけながら礼拝堂に転がり込んだあとの記憶は、ない。
次に目が覚めたとき私は、もう使うこともないと思っていた自室のベッドにいた。
オヴェリア様が回復魔法を施してくださっていたらしく、
確かに斬られたはずの肩にそっと触れてみるとかさぶたの一つもなかった。
私があっさり敗れた陽動部隊とは別方向から実行部隊の奇襲があり、
オヴェリア様が拉致されたことを知ったのは事件から三日も経ってのことだった。



「あなたは立派に役割を果たしていますよ、ルーシー」
私があんな失態を演じなければ、アグリアス様の責任も問われないで済んだのに?
「まずはケガをゆっくりと治しましょうよ、ね」
もう、治っているんです。
「焦らずにここでオヴェリア様のご帰還を待ちましょう」
もう一週間も知らせが無いのにどう祈れと?
焦って修道院を飛び出した私は、近くの森で見慣れないものをたくさん見てまた怖気づき、
あっさりと舞い戻ってしまった。
あの日私からすべてを奪っていった黒獅子の紋章をつけた死屍累々。
誰にも何も言えずまたのこのこと逃げ込んできたこんな私にも誰もが優しくしてくれた。
あれはいったい、なんだったのだろうか?
シモン院長はじめ皆が口々に私を慰めてくれるが、
悔しさと歯痒さは薄れていったかわりに、身を切られそうな不安感とさみしさが私を襲った。
オヴェリア様、アグリアス様、ラヴィアン、アリシア
みんなみんな私の前から姿を消してしまった。




国王逝去、王女誘拐を経て迎えた獅子の月。あの日から数えて何日目のことだったろうか。
あの日すべてを持ち去っていった黒獅子の紋章が、
私に平穏な日々を送らせてくれるはずが、なかった。



私は単身ゼルテニアへと向かった。
「我が名はルーシー・ハリソン!
 アトカーシャ王家直属が近衛騎士団、オーボンヌ警備オークス隊所属の騎士だ!
 オヴェリア様への目通り願いたい!」
アトカーシャ王家より下賜された儀式用の短剣を徴として掲げる。
柄に施された獅子の細工には、オヴェリア様のすみれ色の瞳と同じアメジストが填め込まれている。
晴天なら陽光に映えるに違いないのに、ああ、この日も雨。
意外なほどあっさりと話がついたらしく、オーボンヌとはうってかわって厳重な警備体制とはいえ、
剣のひとつも取り上げられることも無く通された。
王女の居室には見慣れない男が張り付いていたけれど、かまわずオヴェリア様に声をかけた。
「オヴェリア様!ご無事でしたか!?アグリアス隊長はどこに!?」
私を認めたようだけれど、返事がない。
もとより物静かなお方ではあったけれど、その時ののオヴェリア様のご様子はむしろ、
気もそぞろというか空ろといったほうが良かった。
「お前、あの時礼拝堂に倒れていた女か」
成金趣味のきんきらの鎧に身を包んだ若い男がかわりに口を開いた。
「今この女に何を言おうがムダだ。
 お前は実家に帰って結婚でもして、この女のことは忘れろ」
その後は私が何を叫んでも、オヴェリア様も不遜な態度の男も口を閉ざしたままだった。
やんわりと丁重に修道院まで送り返されたが、私は諦めたくなかった。
アグリアス様なら間違いなくそうなさったろうから。
私の前から姿が見えなくなってなお、あの方は私の規範だった。




騎士の任務たるや何事であれ、甘い考えが通用するわけが、ない。
親の意向で不本意な結婚をするよりはいくらもマシだろうと、
そんな安直な考えだけでオヴェリア様の警備隊に志願した私を待っていたのは、
厳しく、正しく、清い、本物の騎士。アグリアスオークスだった。
誰からも忘れられた王女の警備など実戦なんてありえないとたかをくくっていた私は、
毎日の鍛錬の厳しさにすぐ音を上げた。
「もう降参か、ルーシー!」
日頃はきゃらきゃら笑ってばかりで軽い調子のアリシアも、
白魔法と医術のほうが得意なラヴィアンも、あの方に追いつこうと必死で努力していた。
ひとり私がだらしなく、腕も剣も錆だらけだった。情けなさに夜、涙がこぼれた。



「この雨だ、今日の訓練はなしとしよう」
私がオーボンヌに派遣されてから初めて迎えた豪雨の日、
あの方は優しく微笑みながらよい香りのお茶を淹れてくださった。
「初めのころはどうしたものかと思ったけれど、ルーシー、大分腕を上げたわね。
 一人前の近衛になったあなたに渡すものがあります」
騎士としての正装を整えたのち、オヴェリア様のお部屋に連れて行かれた。
アグリアス、ちょっと緊張しちゃうわ」
オヴェリア様が何かうれしそうな笑みを浮かべていらした。
「さあ、ルーシー。跪いてね」
アグリアス様も微笑んでいらした。
いつもの凛々しい表情よりほんの少しだけ優しげな雰囲気が漂う。
「これはアグリアスが私に預けていた、あなたの懐剣よ」
「アトカーシャ王家の近衛に与えられる儀式用の懐剣だ。
 ルーシー・ハリソンが一人前の騎士となった証だ」
アグリアス様がまた男言葉になるが、いつもよりもずっと優しい声音だった。
「さあ、オヴェリア様、騎士ルーシー・ハリソンがあなた様にオマージュを捧げます」
柄に施された獅子の細工には、オヴェリア様のすみれ色の瞳と同じアメジストが填め込まれている。
その短剣でオヴェリア様が私の肩にそっと触れる。
この日私は、オヴェリア様の騎士となった。





ゼルテニアで何も手がかりが得られなかったからといって、
あの方の消息を掴む手段がないわけが、ない。
明けて新年、私は修道院を去った。
市井の酒場を訪れては傭兵ガフガリオンについて聞き込んだ。
金と欲と残虐行為にまみれた男、だけど傭兵としての腕とプロ意識は群を抜いている男。
このごろさっぱり名を聞かないこと。
どうやら部下の裏切りに遭ったかなにかしたらしいこと。
かの、ライオネル城の大量変死事件に巻き込まれて絶命した、らしいこと。
アグリアスオークスという騎士が単身この異常事態に立ち向かい、
主のオヴェリア王女を逃したのちに命を落としたという噂すら耳にした。
私は検死に呼ばれなかった。
酒場で稼ぎ口を見つけては次の仕事にかかる傭兵ならともかく、
アグリアス様のようなれっきとした騎士の去就がそこでつかめるとも思えなかった。
私の旅は続く。



オーボンヌが異端者ラムザ・ベオルブによって襲われたという話を聞いた。
平常でいられるわけが、ない。
私が駆けつけた時にはとっくにシモン院長以下すべての葬儀が済んでいた。
予感がした。
アグリアス様、ラヴィアン、アリシアの行李をあけてみた。
こまごましたものまでほとんど揃っているなか、すみれの瞳の獅子はなかった。
いつの間にか日記帳からすり抜けていた金髪はもう見つからなかった。
私は、あんなにも憧れていたアグリアス様の髪と瞳の色を思い出せないことに気付いた。



一度だけ、あの方とおぼしき女性を目にした。
だけど確信は、ない。
その日は新年早々雷まじりの豪雨だった。
何度も何度もゼルテニアやオーボンヌや実家を往復しては徒労に終わる日々をつづけ、
雨宿りする軒先を探す余裕はとうに失せていた。
がらごろと雷鳴がうるさい。肩が痛い。
時折、かあんと稲光が世界の白黒を反転させてはどこか遠くに雷の落ちた音がする。
ふと気がつくとどこかの露店が多い路地にいた。
さっきの雷の音のせいなのか、恋人らしい女性に抱きつかれ
まんざらでもなさそうな顔をする傭兵ふうの男がいた。
車軸落としの豪雨はふたりの会話をかき消してしまい、何を言っているかも不明だった。
ふとした瞬間に視線が交差したふたりが、どちらからというわけでもなく激しいキスをはじめる。
あわてて露店をたたんでいる商人たちが楽しそうに冷やかす。
アグリアス、さま・・・?」
確かに顔立ちや背格好、なによりも手入れの行き届いたつややかな髪は似ていた。
前髪がひと房、この豪雨の中でも跳ねて飛び出している男のほうもどこかで見たような気がする。
だけど、この寒さだというのに露出の多い踊り子の衣装。
三つ編みお下げは同じでもどこかしどけなくゆるく編まれている。
潔癖で少し頑固なあの方からは考えられなかった。
息が足りなくなった女が唇を離して薄目をあける。
こちらを見ている。ルーシー、と、呼ばれたような気がする。
男が女の唇をふたたび塞ぐ。
女は目を閉じ、しなやかな腕を男の首に巻きつけその脚も男の脚に絡ませる。
肉慾のキス。
ふたりは近くの連れ込み宿へと消えた。肩がひときわ痛む。
それきりだ。







獅子戦争終結後、金牛の月。
人生最良の日々が終わっていたことを知った私のまわりでは、ますます季節は早く過ぎ行く。
「王妃オヴェリア・アトカーシャの誕生日」。
盛大な宴にふさわしく盛装が下賜された。
王妃の居室に通じる控えの間を与えられている私は、そこでのろのろと身に着けてゆく。
「お前、アグリアスオークスという女の部下だったな。
 オヴェリアがあの女の話をしたがっているから来い」
実家に戻ってぼんやり過ごしていた私はこの突然の申し出を一も二も無く受け、
新王家へ宮仕えを決めた。
オヴェリア様のご様子はゼルテニアで再会したときのままだった。
誰が何を話しかけても空虚なすみれ色の瞳で、
相手よりもはるか向こうを眺めていらっしゃる。
「オヴェリア様。アグリアス隊長には及ぶべくもありませんが、
 このルーシー、二度と御身を危険にさらさせは致しません!」
気張ってみたもののなんのことはない、王妃の自害を防ぐ監視役だ。
「おい、ルーシー、お前が何とかしろ!あいつ、俺が贈ったドレスも宝石も身につけやしない!
 やれアグリアスが選んでくれた服だのそれアグリアスがくれた腕輪だの!!」
唯一アグリアス様の話題を振ったときだけうれしそうなお顔を見せてくださる。
英雄王とやらはあまり良い顔をしないけれど。
「ねえ、ルーシー。
 アグリアスは、私がアトカーシャ王家の王女でなくとも護ってくれたかしら?」
私の世界がすべてひっくり返る。





民はだれも、ディリータハイラルが王となる正当性が、
前王朝の王女と結婚したことに拠るとは思っていやしない。
華やかな宮廷でもあの修道女は忘れられたままでいる。
「私は最後まで、利用されるだけの人間だったということなのね」
分不相応なくらいに壮麗な鎧、マント、剣、そして、「王女オヴェリア」の騎士の証たる短剣。
柄に施された獅子の細工には、「オヴェリア様」のすみれ色の瞳と同じアメジストが填め込まれている。
平民出のハイラルは未だ紋章をもたない。
たとえ持ったにしろ獅子ではなさそうだ。
これは、私にとっても最早不要のものだ。
部屋のまんなかに置かれたテーブルの上に残したまま、式典の打ち合わせに向かう。
奥で侍女もつけず一人、いつもの普段着を纏っているに違いないあの修道女が
これを見つけるのはたやすいことだろう。
初夏の晴れ渡る空が回廊からもよく見える。こんな日に限って。
確かあの方の瞳は青だったと思うけれど、こんな色だったろうか。
私は、あんなにも憧れていたアグリアス様の髪と瞳の色を思い出せないことに気付いた。











アグリアスは何を頼んだのかしら、庭師のおじさんと楽しそうに言葉を交わしている。
シモン先生を除けば私が顔を合わせる数少ない男の人といえば、
たまに来るこの庭師のおじさんに近所の牧場からミルクを届けてくれる男の子たちくらい。
男の人は怖い。できれば関わりたくない。
私がどこかの男性のもとに嫁ぐことはないのだし、免疫なんていらない。
私はいても困る王女だから。
お友達のアルマが修道院にいるのはいわゆる花嫁修業、私とは理由が違う。
出世街道からは外れたこんな場所で仕官して、アグリアスは何を思っているのかしら。
庭師のおじさんがアグリアスから何かを渡されて、土にうずめる。
「大丈夫、任せてください。きっと初夏には咲きますよ。秋にもね」
おじさんがぽんと胸を叩く。アグリアスもとっても嬉しそう。
アグリアス、何をしていたの?」
「それは春まで秘密です」
私といるときの彼女は仕事のための顔、騎士の顔しか見せてくれないほうが多いけれど、
おねえさんができたみたいな感じでくすぐったかったわ。




いても困る王女にも生まれた日はあるわ。
シモン先生が毎年、ちょっと済まなそうなさびしそうなお顔で私に贈り物をくださる。
華美を排し質素を尊ぶ修道院の生活は、私くらいの年齢の女の子たちがが喜ぶものも避ける生活だから。
何かに心を躍らせて浮き立たせる女の子も外にはきっといるのでしょう。
私はその日まで、そこで庭師のおじさんが何かしていたこともすっかり忘れていたの。
修道院の外庭にすら滅多に出ることもない、祈りに全てを捧げた生活が当たり前だったから。
アグリアスが私の手をひいてくれる。
「まだですよ。まだ目をおあけにならないで下さい、オヴェリア様」
彼女が何かを用意していてくれた。それだけで私はとてもドキドキしたし、嬉しかったわ。
ほのかだけれど甘く、どこか清々しい香りは彼女の心遣いそのものだった。
目を閉じたままの私の鼻先をそれがくすぐる。
もう目をあけてもいいかどうか訊くのも忘れ、思わず見開いた先には白く可憐な薔薇が咲いていた。
あまり大きくない清楚なその花姿もどこか彼女そのものみたい。
私はシモン先生にはじめてワガママを言ってみた。
土にふれる庭師の真似事はとっても楽しかった。おじさんの教え方が良かったのね。
涼やかで可憐な薔薇は秋にもちゃんと咲いてくれて、今度は私がアグリアスに切花を贈れたのよ。




「オヴェリア様、残念ながらここも危険です。あのガフガリオンが出入りしています。
出入りの御用聞きが洩らしたのですが、特徴からして間違いありません」
さりげなく外庭を歩くふりをして私たちは逃亡するはずだった。
いまごろはどこかの宿屋でひっそりと、だけど彼女と一緒に夕餉の時間を迎えているはずだった。
「!!」
「オヴェリア様!」
屈強な男たちの乱暴な腕が私たちの距離をどんどんひろげていく。
彼女が構えをとる。
清冽な光が次々と男たちをなぎ倒すけれど間に合わない。
「ァ、ァ…」
大男に吹っ飛ばされた彼女の姿は私から見えなくなる。
ようやく声が戻った。
「無礼者!私はアトカーシャ王家の血を引く者です!
 王家の血筋を何だと思っているのですか!」
王家の血筋を利用したいだけの者たちが一瞬びくりと体をこわばらせる。逃げて、アグリアス
私が王女だからあなたが死ぬなんて駄目。
それが彼女の姿を見た最後で、私が真に王女として振舞った最後の日だった。





私の名前を冠した「もうひとつの私」がテーブルの上でこぼれんばかりに咲き誇っている。
「クィーン・オヴェリア」は大きく真紅に染まり、香りのほとんどない見た目だけが派手な薔薇。
花の品種改良に心血を注ぐ庭師たちは、時の権力者の妻女にその作品を捧げることもある。
修道院からは遠い世界のできごとが私の身に起こってもちっともうれしくはなかった。
「殿方は女性の可愛いワガママを嬉しく感じるものですよ」
そう吹き込まれたのであの男に堂々とねだり、オーボンヌから白薔薇を株分けしてもらった。
ここの土とあわないのかしら。何度挑戦しても枯らしてしまう。
秋どころか薔薇の盛りだという金牛の月にすら、アグリアスを想うよすがを香らせることができない。
袖に隠した短剣が重い。彼女はどうやってあの細腕で騎士剣を軽々と操っていたのか不思議だわ。
夫ということになっている男が手にしていたものに、刺し返されてからはじめて気付く。
不思議と痛みはないかわり何だか熱くて冷たくて。
こんなときばかり些細なことばかりがよくわかるなんて。
花束に「クィーン・オヴェリア」はなくてかわりに可憐な白薔薇が数本入っている。
「…ラムザ おまえは何を手に入れた?オレは……」
ねえアグリアス
私、はじめてディリータの心に触れた気がするの。おかしいかしら、アグリアス


                              了