氏作。Part28スレより。





『それは、私の若き日のとびきりに素晴らしい思ひ出の一つである。私と友人の
ヘツケナアとはその日、オオヴエルニユの女子修道院の客となつてゐた。
もちろん、この修道院の当時の評判から想像されるやうに、尼僧相手に
やましひ事を働く為にそこに行つたのではない。
純粋に、ただの名もない旅人として一夜の宿をそこに求めたのである。
そこで一夜を明かした朝である。我々は尼僧院長と共に朝の散歩に出かけた。
道中、院長は自分の修道院にまつはる世間の評判についての心痛を我々に
吐露してゐた。彼女は極めて信心深ひ人物であり…なぜこんな場所の修道院長を
してゐるのか理解に苦しむほどの人物であつたが…何とか自分の修道院
どこに出だしても恥ずかしくないものに立て直したひと願つてゐるのだつた。
その朝の散歩で、あの光景を見たのである。一人の男が車椅子を押してゐた。
それに座つていたのは金細工のやうな金髪の佳人。そのあまりの美しさに
私も友人も声もなかつた。彼らは我々には気付いていなかつたやうである。
彼らはそのまま自分たちの朝の散歩を続けて我々の前から去つていつた。
院長が言つた「鐘楼守の夫婦ですよ」そして「実に信心深ひ方々です…
こんなところに置いておくのがもつたいないぐらゐに」と。
私は言つた「彼女には両の足がありませんね?」
院長が答へた「何かの事故ださうですよ。ご主人がああやつて毎日世話を
なさつていらつしやるのです。ここだけの話ですか、ここに入つている娘達の
中にも、あの二人の姿を見て真心から悔ひ改めたものも何人かは居るのですよ。
…神があの二人を通して、この修道院を建て直すようとの御心を示されて
ゐるとは思へないでせうか?」朝霧の中で見る彼らの姿は実に美しかつた。
ヘツケナアが言つた「どうだい、まるで敬虔派あたりの小品のやうな光景ぢや
ないか」と。驚くなかれ、今は鉱物学の碩学として名を馳せてゐる我が畏友は、
当時は自称芸術家のへぼ絵描きだつたのであるから。
信心深ひ性質とは言へない私も、その時は神の御前に跪いても良いやうな思ひに
捕はれたのであつた…』


ミヒャエル・ユンガー『ゴオグ紀行』






「涼しいわね、寒いくらい。でも、いい季節だわ」彼女が呟く。
「そうだね」僕が答える。
修道院の牧草地もそろそろ冬支度を始めようとしている。
そう遠くない内に全てが雪に閉ざされるだろう。
「さっきから、何を考えているの?」
「えっ、いや、別に…」
「話して」
「………」
「………」
「…明日からまた、半月ばかり留守にするよ」
「そう…」
「これが僕の仕事だしね」
何の仕事?とは彼女は言わない。一度も聞いた事はない。
聞かなくても判っているからだ。書類上は焚刑にされた異端者、仕事前に必ず
やって来るアリオスト枢機卿からの使者、奇妙なまでに恵まれた修道院での
暮らし…これらから考えられる仕事なんてそう幾つもありはしない。
「ごめんなさい」
「えっ」
「私が、こんな、こんな…だからあなたが…」
「そんなこと、ないよ」
うつむく彼女の頬にそっと手をあてる。暖かく濡れた筋。
「気にしないでよ、どのみち誰かに殺されても文句の言えない屑どもが相手さ」
「やめてっ!」
アグリアスさん…」
「ごめんなさい、でも…私、貴方の口からだけはそんな話聞きたくないの…
貴方にばかり背負わせてしまっているのは判っているわ、でも…」
彼女の背から手を廻して軽く抱き締める。彼女の金髪に顔を埋める…
甘い、女の香り。
「ごめんなさい…私、なんでこんな甘ったれになっちゃったんだろう…」
嗚咽する彼女。僕は朝霧で湿った彼女の髪に深々と顔を沈める。
「気にすることないよ。辛い事がありすぎたんだから…甘えてもいいんだと思う」


…ひどい仕事だった。別に難しい仕事だった訳ではない。
正真正銘の屑が相手だった。僕のこれまでの仕事の中でも一、二を争うほどの。
そしてまた、命じられた殺し方というのが、これまたひどいものだった。
思い出したくもないが、別に罪悪感は無い。死んで当然の奴だったから。
ひどい死に方であればあるほどいい、そんな男だ。
枢機卿の屋敷を目指し、闇夜の街路を走る。遠くの王宮の窓から漏れる明り。
ディリータは、自分の城下町でかつての親友が生活の為に人殺しをしたと
知ったらどんな顔をするだろうか?


「ふふ、乾杯だ…お前も飲め」すこぶる上機嫌の枢機卿。吸血鬼の面目躍如だ。
「………」血の色の葡萄酒。別に気分が悪くなったりはしない。
そんな段階はとうに過ぎ去った。もっとも飲んで美味いとも思わないが。
「気にするな。地獄の魔王だって顔を顰めるような悪党だ。
奴のおかげでどれだけの貧乏人の娘どもが身売りを強いられたかな?
この国の寡婦の数がどれだけ増えたかな?おまけに…ふふ…王の御前で
教会予算の削減を本気で主張するとは…まさに強欲は身を滅ぼす、だな」
「………」
「吸血鬼はあいつの方じゃないか?違うか」
「いえ、『あいつの方』などと…」
「私の事を吸血鬼と思っていないのか?ふふん、世辞のつもりか」
そう言って杯の中身を一息に飲み干し、二杯目を注ぐ。
「真面目な話、なぜ私は自分が吸血鬼と呼ばれているか、その訳くらいは
承知している。実際、そうとでも呼ぶ以外にはなかろうよ。
しかしだ、私は吸血鬼であると同時に聖職者でもあるんだ」
「………?」
「判らんか?つまり、衆生済度という建前は言うということさ
今までの仕事を思い出してみろ…神の怒りに触れなかったような奴が一人でも
いるか?生きていた方が良かった奴がただの一人でもいるか?」
「それは事実ですが…」
「私は吸血鬼だ。それは自覚している。同時に聖職者だ、それも自覚している。
なあ、お前はハイラルとその取巻き連中だけが国を牛耳ったらどうなると思う?
本音剥き出しのあの連中がだ。そうなったら…ふふふ…吸血鬼も逃げ出す
地獄以下の国になるぞ。このことは賭けてもいい」
彼は時々奇妙なほど多弁になる。三杯目を注ぎながら吸血鬼は言った。
「私も、お前も、今の時代、今のこの国に必要なんだよ。
これは自惚れじゃないぞ…ハイラルに抗う人間が絶対に必要なんだ…」





『…先の大戦中、三月ばかりの間、私はオーヴェルニュ女子大修道院の客と
なっていた。別に信心に突き動かされた訳ではない。
接収されて陸軍病院となったそこに担ぎ込まれて命を永らえた、あるいは
生きて出る事の出来なかった延べ五千人を超える負傷兵の一人としてである。
…そこは兵隊の隠語では『保養所』と呼ばれる病院だった。
何と言っても、正規の軍病院に比べて規律が緩やかであるし、
食事も比較的良好だ。何より、世話をしてくれるのが何事につけ荒っぽい
篤志看護婦ではなく尼さん達であるのが良かった。
そこで私は、後にしばしば小説の登場人物のモデルに採用する事になる
ミルドレット尼と出会ったのである。彼女は60歳を超えていようかという
外見にも関わらず、何事も己が先頭に立ち若い尼達に範を示す、この修道院
標語である「愛徳と奉仕」の精神を体現したような、まさに絵に描いたごとき
オーヴェルニュの尼であった。


(中略)私のベッドは巡礼客用の宿房にあった。病院に変えられた後も
様々な聖画が壁に掛けられたままであった。それらの聖画に混じって、
一枚だけ聖画ではない絵があった。あの『車椅子の女騎士』の絵だった。
その絵は私のベッドの真正面に掛けられており、入院中は毎日その絵を
眺めることとなった。私は、あの昔話の舞台がこの修道院であったこと、
子供の時に母方の祖母からこの昔話の絵本(その絵本には「わるいことばかり
していた修道女たち」としか書いてなく、悪い事の中身までは書いてなかったが
これは子供向けの絵本であるから当然である)を贈られたことなどを
今更のように思い出したものである。
ミルドレット尼とお喋りした時など、彼女はよくこの昔話についての
自分の見解を話してくれたものだ。曰く、この夫婦はその姿を持って、
落ちるところまで落ちた修道院に信心の範を示すように神が使わしたのだと。
「そうじゃありませんか?この二人の姿に数え切れないほどの罪深い修道女が
改心して、そして修道院の復興運動が修道院の外ではなく内から起こったの
ですから」とはミルドレット尼の弁である。
この昔話に対する教会の公式見解以外の何物でもない中身の話ではあったが、
純朴な尼さんの口から聞かされると非常に好ましいものに思えたのである。
さらに奇妙な事に、その絵を眺めていると、時には私も兵隊女郎屋のことを
忘れる事が出来たりもしたのであった…』


アンリ・デュルタル『砲声と塹壕鼠』







さっきから彼女は真剣な眼差しで暖炉に掛けられた鍋の中身を見張っている。
彼女が野営料理ばかりではなく、かなり凝ったものも作れるとは、
ここで二人で暮らすようになるまで知らなかった事だ。
「もうすぐ出来上がるわよ」
「そんな熱心に見張って無くてもいいんじゃないか?」
「駄目、火加減で味が全然違うのよ」
「適当でいいんだよ。どうせそいつを食わせるのは…」
「駄目よ。…あなただって食べるでしょう?だから…」
「………ごめん」
「いいのよ…それにあの人の心象を害したくもないしね。こんな身の上だし」
「それは大丈夫だよ。僕ら程度の振る舞いで気分をどうこうさせるような
奴じゃない。そんな月並みな奴だったら吸血鬼なんて呼ばれていないさ」
「…子供のときね、一度だけあの人に会った事があるの。
うちの屋敷に泊まったのよ」
「へえ…初耳だ。どんなだった?」
「あまりよく覚えてないけど…怖い人だと思ったわ。眼がね…それは今でも
はっきり覚えているわ。屋敷の礼拝堂でね、一族の者が集まってあの人の説教を
聞いたんだけど…私は覚えていないんだけど、母さんの話じゃ、地獄と神の罰に
ついての説教だったんだって」
「ふん、その頃から諧謔の精神があったみたいだな。
自分向けに話してたんじゃないのか」
「どうかしらね…」


吸血鬼はご満悦の態だった。この男と共に食事をした事は何回かあるが、
これほど満ち足りた顔をするのは初めて見た。
オークス家は剣術だけではなく女の仕事もしっかり仕込んでいたようだな」
「お褒めに与り光栄ですわ」
「私が足を切れと言った女からこんな美味いものを食わせてもらえるとは
思わなんだ」
「………」
これだから、この男は吸血鬼などと呼ばれるのだ。
「あの、そのような物言いは…」
「ふふ、ラムザ、そんな顔をするな。事実だろう?私はその事を隠そうとも
取り繕おうとも思わん…これが私とハイラルの違いだ」
沈黙する僕とアグリアス
「…気分がいい。二人とも、年寄りの話に少し付き合え」


「覚えているか?アグリアスよ。私が昔お前の家に泊まった事を」
「はい、あまりはっきりとではありませんが」
「ふふ…あの時はな、お前の母親に会いに行ったのだ」
「母に、ですか?」
「ああ、お前の母親が嫁入り前には修道院に居たことは知っているだろう?」
「ええ、まあ」
「どこの修道院だと思う?」
「それは…」
「ふふ、話している訳がないよな。…ここだよ。信じられるか?お前の母親も
ここに居たのさ」
「!」
「本当だ。お前の母親がここにいた頃、私はここの聴罪司祭だったのだからな」
「それ以上は!」
「口を挟むな、ラムザ。最後まで聞け。それだけの価値はあるぞ。
…聴罪司祭などと言っても本当に暇なものだった。ここの雌豚どもときたら、
自分のやったことを罪とも何とも思っていないんだからな。
告解なんぞに来る訳が無い。ところが一人だけ例外がいたんだ…お前の母親だ、
アグリアス
「母様が…」
「そうだ、お前の母親は自分の行いを心の底から悔いていた。そしてな…
親が縁談の相手を見つけてきたと。自分もその男が気に入ったが…
このような罪深い身で嫁に行って良いのだろうか、とな」
「………」
「私は答えたさ。その男に全てを話せ、とな。
それでもお前を受け入れてくれるのなら妻になるといい、と。
その時は無意味な事を喋っていると思ったがな。どうせ、その男を煙に巻いて
妻の座に納まるのだろうとな。その後、お前の母親はここを出て結婚した。
その後だ、お前の母親が子を産んだと聞いてな…興味が湧いたんだ、
その子は親父に似ているだろうかとな。それでお前の屋敷に行ってみたんだ」
「行って驚いたよ…アグリアス、お前の髪も瞳も親父と瓜二つだったからな。
そしてだ…お前の親父の罪障告白を聞いたのだが…お前の母は結婚前に自分の
行いを全てお前の親父に告白したそうだ。
奇跡というのは実在すると確信したな、あの時は」
「父様…母様…」
「ふふふ…なあ、ラムザ、お前はどうだ?」
「は?」
「は、じゃない。お前も男だろう?アグリアスに告白しなければならんことが
あるんじゃないのか?」
「い、いえ、そんな…」
「アリオスト様!」アグリアスの大声が響く。
「ふふ、すまん、お前達ならそんな事はなかろう。見れば判る…
お前達、この修道院にいい影響を与えているみたいじゃないか」
「影響…ですか?」
「知らなかったか?ここの院の改革運動を起こしている尼どもが出てきたんだ…
お前達の姿を見て感化されたらしいぞ。院長は大賛成だ。
あの婆さんから手紙がきてな…それでここに来たという訳だ。
運動にアリオスト枢機卿のお墨付きを与えようと思ってな。
…お前達に会おうと思って来た訳じゃない。これのために来たんだ」
「………」
「可笑しいか?ふふ…何も私は信仰心に動かされてそうしている訳じゃあない。
今のところ、この修道院がどういう場所かは判るだろう?…私はな、将来、
ハイラルの血筋の娘が揉め事を起こしても逃げられる場所が無いように
するつもりなんだ。私が生きているうちに、この修道院を手始めにこの国から
そんな場所を一掃してやる。そんなことが起こった日には、教会に跪かねば
ならんようにしておくつもりだ…」






『オーヴェルニュ女子大修道院への交通。車でゴーグ第二空港から約一時間。
空港でレンタカーが借りられるが台数が少ないので事前に予約しておくとよい。
タクシーはいつでも乗れるが相場より高めなので注意。バスは本数が少ないし、
冬場はかなり遅れるので薦められない。一番いいのは鉄道である。
安くて時間も確実、しかも夏場の観光シーズンであれば「第二空港駅」から
夏期限定運行の軽便蒸気機関車で「オーヴェルニュ修道院前」まで行ける。
断然これがお薦めである。修道院の参詣は無料。『車椅子の女騎士』に出てくる
鐘楼は、現在補修工事中であり立ち入り不可。見学再開は三年後の予定。
聖遺物館の観覧料は二十ギル。ここであの車椅子の実物を見る事が出来る。
ご婦人方には気の毒な話であるが、「触れると優しい旦那様に巡り合える」
という言い伝えのあるこの車椅子も、今では文化財としてガラスケースの中に
展示されており残念ながら触る事は出来ない。土産物は乳製品がお薦め。
カマンベールチーズは絶品である。ヨーグルトキャンディーも中々の味である。
値段も良心的であるし何よりここでしか買えない。
白ワインはたいした味ではないが安いので話の種に買ってみるのも悪くはない。
キルト綴りも買えるが、これとワインはここでなくとも、ゴーグ市内の
土産物屋でも買える。食事は宿房付属の食堂で出来る。
安価ではあるが修道院の精進料理なのでそこは承知しておく事。
宿泊はやはり宿房で可能である。これも安価であるが巡礼客以外には
およそ薦められない。観光でここに泊りたいという向きは覚悟しておくこと』


べデッカー・トラベルガイドブックス『No.23 ゴーグ近郊』










「綺麗ね」
「そうだね」
雪の上に、僕の足跡と車椅子の車輪の跡が延びている。
雪を被った森が朝日を照り返して眩しいくらいだ。
「…最近、『仕事』はないのね」
「…ああ、敵はあらかた消してしまったからだろ。
今後まだ仕事があるとすれば…ディリータの首ぐらいだろうな」
「それはないわ。あの人は吸血鬼かもしれないけど、この国を滅ぼそうとは
思っていない」
「ああ。だからもう『仕事』は無いんだろうな。
ここの鐘楼守をやり続けるしかないね」
「良かった…本当に良かった」
「………」
「ねえ?」
「何?」
「聞いてほしい事があるの」
「なんだい」
「あのね…家族が増えるみたいなの」
「それって…」
「聞いたとおりよ」
微笑みかける彼女。
彼女の背から手を廻して軽く抱き締める。彼女の金髪に顔を埋める…
甘い、女の香り。今後は、母親の香りもさせるようになるのだろう。
「名前…どうしようか」
「うふふ…気が早いのね。まだ男の子か女の子かも判らないのに」
「今から考えてもいいと思うけどな」
「…そうね、そうよね」
肩から廻した僕の腕を彼女が握り締める。
「ねえ?」
「何?」
「あのね…私ね、貴方に逢えて本当に良かった…」
「僕もだよ、アグリアス…」



〜FIN