氏作。Part25スレより。


「助けてください、お願いです、何でもします」
 ちいさな手を組み合わせて必死に伏しおがむ、まだあどけなさを残した少女の
こめかみに、コンと冷たい音を立てて短剣が突き立った。
 声も立てずに少女は倒れ、少女が拝んでいた当の相手――アグリアス
オークスは息を呑む。それからすぐに、短剣の飛んできた方角を怒りを込めて
睨み付けた。
「なぜ殺した。命乞いをしていたのだぞ」
 声をかけた先には、折り重なる男達の死体のほか、壊れた木のテーブルが一台
転がっているだけである。そのテーブルの影から、水がしみ出るように音もなく、
人影が現れた。
 黒い肌とちぢれた髪、深く落ちくぼんだ鋭い眼差しは、南方人種特有のものだ。
丈夫でしなやかなケイザル麻の布に、固くなめした肉食獣の革を縫い込んだ南洋風の
戦装束を身につけ、先端に鋼の鋲を打った八角棒をたずさえている。霧のように
しずかな殺気をまといつかせたこの若者の名を、マラーク・ガルテナーハといった。
 アグリアスの言葉には答えず、マラークは大股に歩み寄ると、少女の死体を
爪先でひっくり返す。屈み込んで粗末な服を探っていたと思うと、黒いものを
アグリアスに放ってよこした。
 釘を巨大にしたような、五寸ばかりの鉄の棒だ。一方の端は鋭く研ぎ澄まされ、
もう一方には革ひもがついて、手の中に握り込めるようになっている。
「袖口に仕込んで使う。命乞いを受けてたら、あんたの首にそれが刺さってたな」
「馬鹿な。こんな子供だぞ」
 マラークはため息をついて立ち上がると、愚者を見る眼でアグリアスを見た。
「そういう考えの奴がいるから、こんな子供にも使い道が出てくる。ギルドを
甘く見すぎだ」
 生き残りの敵はとうに逃げ失せ、室内にはいくつかの死体が転がっている
ばかりだった。戸口をふさぐ木片を蹴とばして外へ出ると、きたない色をした雨が
降っている。アグリアスは空を見上げ、今し方かいだ血の臭いを振り払うように、
大きくため息を吐いた。


 貿易都市ウォージリス。
 国内の物資流通の要であるドーターに対し、海外貿易の窓口となるこの街は、
イヴァリースで最も多様な人種と文化が行き来する国際都市である。そして同時に、
密貿易によって得られる巨利をめぐって様々な組織や個人の思惑がうごめく、
イヴァリース有数の犯罪都市でもあった。
 ウォージリス沖の燈台跡で発見された謎めいた遺跡、ディープダンジョン
調査することをラムザ達が決めた際、ウォージリスでの先行調査および船の調達の
ために選ばれたのはアグリアスとマラークの二人であった。この人選にはアグリアス
はじめ数人が異議を唱えたのだが、隊長命令は覆らなかった。
 マラーク・ガルテナーハ、数奇な経緯を経てラムザ一行に加わったこの無愛想な
青年を、アグリアスはまだ完全に信用していない。そもそも隊に加えたのだって、
彼が聖石の力によって死から蘇ったという、いわば聖石の奇跡を直接体験した
人間だからで、それさえなければ“カミュジャ”の暗殺者を仲間に加えることなど、
アグリアスは断固反対していただろう。
 同じカミュジャでも、妹のラファには素直で愛嬌のあるところがあり、それなりに
好感を持っているのだが、この兄にはどうも馴染めない。ごみだらけの路地に、
アグリアス一人分の足音が響く。マラークは足音を立てないのだ。そんな所も
好きにはなれない。
「マラーク」
「何だ」
「やはり、子供を殺すべきではなかった。罪もない少女を殺めるなど」
「罪もないだって? 何を見てたんだ、あんたは。騙し討ちされる所だったんだぞ」
「まだ幼かった。自分が何をしているのか、わかっていなかったはずだ。諭して
やるべきだったのだ」
「そうかい」マラークは鼻を鳴らし、「俺はあれくらいの歳にはもう何人か殺して
いたし、何をしてるのかもわかってたぜ」
「それは……」
 それはお前が汚らわしいカミュジャだからだ、と言いそうになって、アグリアス
声をつまらせた。いくら気に入らないとはいえ、言っていいことと悪いことがある。
ラムザ達と共に戦うようになって、だいぶ考え方が柔軟になってきたつもりでいたが、
階級意識というのは簡単には消えない。アグリアスは小さく身震いをし、それで
マラークは語られなかった言葉の先を察したようだった。足が少しだけ速まる。
「……貴公に騎士の道は理解できまい」気まずさを隠すように、アグリアス
ぶっきらぼうに言った。
「理解はできるさ。付き合う気はないけどな」
「マラーク」
「何だ」
「我々は、どこへ向かっているのだ?」
「いま襲ってきた連中の雇い主の、さらに上のボスの所だ。海運業者でもある」
 ウォージリスに入って遺跡の情報を探り始めたのは今朝のことだが、半日も
たたないうちにどうやらアグリアス達は、同じように遺跡に興味を持つウォージリスの
犯罪ギルド同士の抗争に首を突っ込んでしまったらしい。らしい、というのは、
利害が複雑に絡み合った組織間の争いの、どの辺にどう首を突っ込んだのか
今一つ把握できないでいるからだが、マラークにはちゃんとわかっているようだった。
「その海運業者から船を借り出すのか」
「上手くいけばね」
 こういうところの手慣れ方は流石だ、とアグリアスは渋々ながら感心する。
蛇の道は蛇というやつだな」
「そのとおりだ。正直、なんでこの仕事にあんたが一緒なのか不思議だよ。あんたは
蛇の道に迷い込んだ河馬みたいなもんだ」


「……想像するにだ。私と同行することで、貴公に騎士道の何たるかを学んで
ほしかったのではないかな。ラムザは」
「騎士道? 俺が? ハハハ」
 マラークは珍しく、屈託ない笑い声を上げた。「おむつの替え方でも学んだ方が、
まだ役に立ちそうだ」
 それきりマラークは口を閉ざし、アグリアスもむっつりと黙り込んだ。灰っぽい色を
した雨は、ますます勢いを増しつつあった。




 アラン海運の社長アラン・ルートヴィヒは、縦長の顔にでっぷりと肉が付いて
長方形の輪郭をなした、いかにも精力的な商人といった様子の男だった。
その顔つきと、名前に覚えがある気がしてアグリアスはしばらく考え、思い出した。
バート商会の長、バート・ルートヴィヒだ。
「バート商会の系列なのか」
「ウォージリスの海運業者の半分はそうだ。今はトップが死んで四分五裂だがな」
 交渉事は完全にマラーク任せである。アグリアスはせいぜい凄みが出るように、
彼の背後で腕を組んでじっと立っているだけだ。ヤニ臭い煙の立ちこめた狭い
応接間で、複雑な隠語を駆使して交わされる交渉がどう進んでいるのかほとんど
理解できないが、アラン・ルートヴィヒとその背後に控える男達の雰囲気が、
徐々に張りつめてゆくことだけはわかる。背後で戸口にもたれかかり、先ほどから
じろじろと無遠慮にアグリアスを眺め回していた男が、ふいに野卑な笑い声を
もらして手を伸ばしてきた。
「俺はこのお姉ちゃんが一晩付き合ってくれるってえなら、船を出してもいいな」
 その手が金色の髪の先に触れる前に、電光のような速度で鞘走った
アグリアスの剣が、男のあごの下に突きつけられていた。ヒュッと甲高い
音を立てて、男ののどが息を吸い込む。
「付き合ってもいいぞ。だが、明日の朝日は貴殿の首ひとつで眺めることになるな」
 マラークを除く室内の男達がいっせいに立ち上がって、殺気をはなった。どうやら、
綱渡りだった交渉にとどめを刺してしまったらしい。望むところだ。聖石を狙っていた
卑劣な商人の郎党の手など、できれば借りたくはない。マラークも舌打ちをして
目の前のテーブルを蹴り上げ、灰皿を投げて燭台をひっくり返した。薄闇の落ちた
室内に、男達の怒号と金属音が立て続けに響く。その音とおぼろな影の動きを
頼りに、アグリアスは即座に数人を切り倒した。
「頼むぜ、まったく。本当になんで来たんだ、あんた」
「こういう時のためだろう」
「フン」
 隠密としては優秀だが、正面切っての戦いとなると、実はマラークはそれほど
腕が立つわけではない。独自の秘術である裏真言は威力はあるもののやたらと
癖が強く、念入りに仕込みをしてからでなくては使えたものではない。戦力として
アグリアスを付けたという考えは間違っていないだろう。背中越しにマラークの
気配が戸口を抜けていったのを確かめると、アグリアスは牽制しつつすばやく
室外へ出た。
 ほとんどどしゃ降りになった雨の中、人気のない通りを並んで駆け抜ける。
堅い革靴で濡れた石畳を走るのは難しい。歩調を合わせてくれていたマラークが、
雨にまぎれてつばを吐いた。
「これで、ウォージリスの船主の七割方を敵に回しちまった」
「なら、残り三割を頼ればいい」
「度胸だけはあるんだよな、あんた」苦笑いをしたマラークは、浅黒い顔をつるりと
撫でて真顔に戻る。
「まあ確かに、その予定だったさ。追っ手がかかってるはずだから、何人か
始末して落ち着いたら、本命に会いに行こう」
「なぜ、最初から本命に行かなかった?」
「最初は大手に話をしに行ったっていう事実が大事なのさ。仁義を切るようなもんだ」
「よくわからんな」
「わからなくていい」
 小馬鹿にしたようなマラークの態度が気に入らなかったが、アグリアス
黙って彼の後について走った。長い髪が、水を含んで重苦しかった。


 海に面した倉庫街の、一番外れにあるみすぼらしい倉庫の鍵をマラークは
ものの数秒で外して見せた。わずかに空けた扉の間から、暗殺者と騎士は
するりと中へ入り込む。
「ここをいくさ場にするのは、気が進まんな」
 冷たくかび臭い空気をかぎながら、アグリアスはほの暗い倉庫の中を見渡す。
確実に迫っているだろうアラン海運の追っ手から逃げるためではなく、迎え撃つ
ためにアグリアス達はこの倉庫へ入ったのである。マラークはすでにてきぱきと
動き回り、内部の構造を頭に入れつつ、簡単な罠をしかけたりしている。アグリアス
言葉などはなから無視しているその様子に腹が立ち、アグリアスはそばにあった
木箱をバンと音高く殴りつけた。
「見ろ、ここに何と書いてあるか。この中身は麦だ。南からわざわざ輸入してきた
貴重な麦だ。今この国がどれだけ飢えているか、知らないわけではあるまい。
ここで戦えば、何箱かは確実に駄目になる。我々の戦いのせいで、無関係の
誰かのパンが失われることになるのだぞ」
「悪いが、知ったことじゃない」
 眉一つ動かさず、マラークは答えた。「建物の位置からいってここしかないし、
広さも高低のぐあいも申し分ない。あんた、バート商会とやりあったことが
あるんだろ? あいつらはマフィアだ。選り好みをしていて迎え撃てる連中じゃないぞ」
「選り好みだと!?」
 アグリアスが思わず剣の柄に手をかけた時、重たい樫の扉がきしむ音がした。
即座に抜剣し、木箱を背にして扉に剣を向ける。マラークの姿はすでに見えなく
なっていた。倉庫の口から漏れ入ってくる光が人の形に、大勢の人間の形に
遮られる。アグリアスは一つ息を吐いて頭を切り換え、疾風のように馳せ寄ってきた
影と切り結んだ。


 男達は皆、手練れであった。たった二人を追うのに、これほどの手勢を惜しげもなく
使えるものかとアグリアスはひそかに驚嘆したほどだ。彼女は知らぬことだが、
バート商会は今、頭領であるバート・ルートヴィヒを失い、熾烈な跡目争いの
真っ最中であった。よそ者の若僧二人に縄張りをかき回され、おまけに逃げられたと
あってはアランの面目は丸潰れとなり、跡目の候補から完全に脱落する。それを
防ぐため、配下の中から選りすぐりの精鋭を集めて送り込んできたのである。
 まともに戦えば、アグリアスとて人数に圧倒されていただろう。しかし、倉庫の
中という地の利があった。狭い中での乱戦なら、人数の少ない方に有利である。
見えない物陰から襲うカミュジャの一撃は鋭く、高く低く積み上げられた木箱の
山を越えてくる者は、裏真言の格好の餌食となった。木箱を傷つけたくない
アグリアスは聖剣技を極力使わず、そのために苦戦を強いられることもあったが、
マラークが(渋々ではあったが)フォローしてくれていた。少しずつではあるが
襲撃者達の数は減らされてゆき、戦いの流れは確実にアグリアス達に
傾きつつあった。男達に退却の気配が見えた、その時である。
 ふいに、烈風のような一撃がアグリアスを襲った。アグリアスが戦慄したのは、
その攻撃が鋭かったからでも速かったからでもない。その刃先に、すさまじいほどの
殺気がこもっていたからである。咄嗟に大きく飛びのき、その隙を突こうとする
別の男達を牽制しながら、アグリアスはさっきまで自分がいた場所を睨みすえた。
 刃の主は少年だった。ただの少年でないことは、身のこなしを見ればわかる。
子供らしい大きな瞳が、燃えるような憎悪を込めてアグリアスを睨み返している。
彼らは単に仕事で自分達を追ってきているだけのはずだ。これほどの殺意を
ぶつけられる理由がわからず、戸惑うアグリアスに少年は一直線に突っ込んでくる。
寸前で体が動き、突き込まれた短剣を受け止めた。刃ごしに見る少年の顔立ちに、
アグリアスは見覚えがあるような気がした。数瞬考えて、思い至る。
「君は……」
 剣気のゆるんだ瞬間を見逃さず、少年の短剣がすべり、アグリアス
右脇腹へ差し込まれた。
「!」
「マラーク、待てっ!」
 瞬時に少年の背後へ回り込み、その脳天を叩き割ろうとするマラークを制する。
声だけでは止まりそうになかったので、アグリアスは少年ごしに剣を突き出して
マラークの棍を遮った。同時に、空いた手で短剣の柄をつかもうとすると、
少年がぱっと飛びすさる。堅い音を立てて短剣が床に落ち、腹にじわりと熱い
痛みが湧いた。マラークが無言で隣へすべり込んで来、つかの間二対一で
睨み合う体勢となる。痛みとともに濡れたものが広がってくる腹をおさえて、
アグリアスは少年の顔をじっと見定めた。それほどよく見たわけではないが、
目尻やあごの形に面影があった。
「この少年は……おそらく、昼間われわれが討った少女の肉親だ。たぶん、
兄だろう。違うか?」
 答えるかわりに、少年はもう一本短剣を取り出して構えた。その瞳には
不退転の決意と怨念とがぎらぎらと輝き、アグリアスの言葉を肯定している。
 マラークは一瞬だけ呆れ顔でアグリアスを見、それから無言で少年に
打ち掛かった。マラークの腕が立たないと言っても、アグリアス達一流の水準で
見ての話である。少年の腕前は、一流というにはやや苦しい。年齢にしては
大したものだが、この討伐隊には実力ではなく、執念によって選ばれたのだろう。
あっという間に少年は追いつめられてゆき、たまらずアグリアスは叫んでいた。
「よせ! この子らは、戦いを仕込まれてしまっただけだ。貴公と同じ
身の上なのだぞ!」
「知るか!」
 流れが変わったと見た男達が、たちまち殺到してくる。アグリアスは傷を
かばいつつ、それらの相手をするので手一杯になった。視界の端に、予備の
短剣も弾き飛ばされて、途方に暮れた少年の顔がよぎる。アグリアスは咄嗟に、
さっき床に落ちた短剣を蹴って飛ばした。今しもとどめを打ち込もうとしていた
八角棒の軌道が、一瞬さえぎられる。マラークが怒りの声を上げた。
「いいかげんにしろ、アグリアス! あんたはどこまで…」
「マラーク、聞け!」
 余計な動作のせいで隙ができ、二の腕に浅くはない一撃を受けた。脂汗を
にじませてその男を斬り倒しながら、アグリアスは叫ぶ。「頼むから、その子を
殺したりはするな。そんなことをしてしまっては申し訳が立たん」
「何に申し訳をする気だ」
「我が騎士道にだ!」
 歯を食いしばって、また一人を斬り倒した。いったん勢いに乗りかけた男達の
攻め手が、ふたたび崩れはじめる。マラークはひとつ舌打ちをして、すばやく
影の中へ姿を消した。たちまち、奇怪な形をした炎の文字が中空に浮かび上がり、
男達の幾人かを焼いた。
 アグリアスの気迫と、影から繰り出されるマラークの攻撃が男達を押し戻し、
やがて残りわずかとなった男達は、背を見せて散り散りに逃げていった。最後の
一人を見送ったアグリアスは、剣を下ろして大きく息をつく。それから、まだ
へたり込んだままの少年へ向き直った。
 大量の死体を目にするのは初めてなのか、とどめを刺されかけて恐怖に呑まれた
のか、少年は足元の短剣を拾うことさえせずに硬直している。死体の山を踏み越えて
アグリアスは少年の目の前に来ると、しゃがみ込んで視線を合わせた。
「君の妹を殺したのは確かに我々だ。その罪から逃れるつもりはない。だが願わくば、
君のような子供にはこんな血なまぐさい場所から去り、陽の当たる道を進んでほしい」
 少年の瞳が、少しずつ焦点を取り戻してきたと思うと、跳ねるように右腕が動いた。
鎧の隙間を目がけて繰り出された鋭い鉄釘を、アグリアスは体をひねって肩当てで
防いだ。
「さ、行くがいい。我々ももう出てゆく」
 少年の肩をかるく叩いて、立ち上がって背を向け、歩き出す。いつのまにか
背後にいたマラークが、憮然とした顔で肩をすくめた。
「余計なことだと思うがな」
「構わん。いいか、マラーク。貴公の言うとおり、騎士道とは何の役に立つものでも
ない。だからこそ、騎士道を守り抜くことは貴いのだ」
 マラークはもう一度、肩をすくめた。それから背後を振り返り、まだうずくまったままの
少年に言葉を投げる。
「おい、お前の妹にとどめを刺したのはこいつじゃない、俺だ。次からは俺のところに
来るんだな」
 少年は動かず、アグリアス達ももう振り返らなかった。倉庫を出ると、相変わらず
雨が降っている。たださっきよりはいくらか、雨足が弱まったようだ。アグリアス
腰の袋からハイポーションを取り出すと一息に飲み干し、びんを海へ投げ捨てた。
「さて、本命とやらの所へ行くとしよう。今度は大丈夫なのだろうな」
「たぶんね。それにしても、これだけ騒いで件のダンジョンが何でもなかったら
えらく気の毒だな」
「誰がだ?」
「今の立ち回りのせいで、パンを失った誰かがさ」
「あっははは!」アグリアスは今日初めて、声を上げて笑った。「貴公でも冗談を言うのか。
それとも、慰めてくれているつもりか?」
「どっちも違う。俺にだって、良心くらいある」
「そうか、そうだな、すまなかった。はは」
「何がおかしいんだ、まったく。今度はさっきみたいに暴れ出してくれるなよ」
 金色の髪の女騎士と、浅黒い肌の男は、一人分の足音を立てて雨の中を去っていった。
ハイポーションのびんが一つ、よごれた波の間をしばらくただよって、やがて沈んだ。



End