氏作。Part23スレより。




 ここにいたのかラムザ
 うん、ちょっと、今日はお前にちょっといい話をしてやろうと思ってな。お前は今日がなんの
日だか知っているか?
 ………そうだ、聖バレンタインデー。世間では、なんだ、女が男にチョコレートなどを作って
渡したりといろいろあるようだが……嬉しそうな顔をするな馬鹿。
 それでな、話というのはバレンタインの起源についてのことだ。
 知っているだろうが、バレンタインとはグレバドス教の聖人の一人に数えられる人物の事で、
今日という日ももちろん彼に来するのだが、彼がどんな人間だったかは知らないだろう?
 まあ、仕方あるまい。これについてはなかなかどうして知らない人間が多い。というのもな、
バレンタインというのは実はグレバドス教の中でも、異例の聖人だったからだ。それでは、彼が
称えられるようになったいきさつについて話してみようか。


 チョコレート? 卑しいことを言うな、いいから話を聞け。






 *


 時は千年以上も前、聖アジョラの時代にまで遡る。知っての通り、当時の畏国は悪政のために
貧しさの極にあり、民もみな貧困に窮していた。
 当然治安も悪かった。盗みや暴虐が横行し、通りには錠に繋がれた囚人が見せしめに転がされ
ていた。そして千年前のガリランド、その街のその路傍、その男も錠に繋がれたまま廃人の様に
うなだれていた。これこそ、後の聖人であるバレンタインその人なのだ。
 異例というのはこのことだ。彼は歴史あるグレバドス教の中で、罪人の身でありながら救済を
許された人間だったんだ。
 しかしこのときのバレンタインは、少なくとも国に許されていなかった。彼は他人の家に押し
入った角で捕らえられ、三日前からこうして道ばたに放置されていたんだ。
 彼のような人間は国中に溢れ返っていて、牢獄も囚人で埋め尽くされていた。そのため、治安
部隊はわざとこうやって罪人を放置して、そのまま餓死させていたのだ。死んだ罪人は埋葬など
されない。街の外に放り出されて、魔物の餌になっていた。魔物どもも飢えていたのだ。死体を
やらなければ、街の人間が襲われるという恐れもあった。もし、このまま明日になったら、彼も
同じような運命を辿っていたことだろう。



 ところが、四日目の朝だった。彼の元に一人の少女があらわれたのだ。
 足の悪いらしいその少女は、びっこをひきながら人気のない通りを歩いていた。お使いの帰り
らしい。ふと、日陰になっている部分に黒い影を見つけて、彼女はあっと声を出し、抱えていた
荷物を取り落とした。バレンタインは顔を上げ、虚ろな目で少女を見た。少女と彼の目が合う。
 バレンタインは嫌な気分になった。数えきれないほど殴られ、ぼろぼろになった黄ばんだ歯。
雑菌がたまり、視界を押しのけてこぶのように腫れ上がった瞼。年の頃から言えば若い方に入る
はずなのだが、荒んだ生活のために、フケにまみれた頭髪は昔の面影など欠片もなく、ひなびた
草のように情けなく茂っている。鼻には腫れ物がただれ、耳は両方とも潰れていた。この綺麗な
少女は、こんな自分の醜態を見て吐き気を催しているに違いない。きっとすぐに逃げ出していく
ことだろう、他の人間たちのように。彼はそう思った。
 その通り、少女はまもなく彼から目を背けると、道をやってきた方角へと引き返していった。
びっこを引いてゆっくり遠ざかっていく少女の背中を見送りながら、バレンタインはまた虚ろな
思考に戻っていった。
 だが、まもなく通りの向こうから、再び少女の姿があらわれた。それも、その手に大切そうに
なにかを抱えて。やがて少女の持っているそれの正体に気付き、バレンタインは目を丸くした。
 パンだった。少女が持ってきたのは、小さな小さなパンだった。しかもあろうことか、彼女は
優しく微笑むと、錠に繋がれた彼に向かってそれを差し出したのだ。
 この少女とて貧しい身分であることは間違いない。身なりも汚く、綺麗な顔には骨が浮き出て
いる。このパンがきっと彼女の一日の食事なのだろう。それを、見ず知らずの罪人に与えようと
しているのだ。
 バレンタインはわなわなと震えながら、放心と口を開けた。ひからびた口内に、少女はそっと
パンを押し込む。そのパンは固かった。彼の腐った歯ではとても噛めない代物だった。
 すると、なんと少女はパンを自分の口に含み、それを噛み下してから再びバレンタインの口へ
あてがおうとしたのだ。
 バレンタインはもはや呆然として、目の前の事態に言葉を失った。こんな暖かい扱いを受けた
ことなど、これまでの彼の人生で一度たりともなかった。
 少女の唾液と埃の混じったそのパンは、臭いカビの味がした。バレンタインは涙を流しながら
くちゃくちゃとそれを噛み締めた。味などわからなかった。彼の心には、ただ眼前の少女の笑顔
だけが鮮やかに映っていた。




 その後、バレンタインはすぐに牢獄へと移された。ガリランドに大きな聖堂が建てられる所と
なったので、通りに汚い罪人が繋がれているのは具合が悪かったのだろう。
 だが、場所が変わったところで、囚人たちにはなんの関係もなかった。一度ここへ入れられた
人間が赦されるということはなく、希望は存在しないのだ。生気など灯るはずもない、飢えて、
虚無に暮れるだけの毎日。ほとんどゴミの様な代物を食し、冷たい石床に横たわり、時が来れば
眠った。或いは、そのまま二度と目覚めぬ眠りについた。そこに生者は存在していなかった。
 だが彼は違った。バレンタインは、大いなる喜びに包まれながら日々を過ごしていた。
 あの日のあの出会い。名も知らぬあの少女との関わりが、彼の心を幸福で満たしていたのだ。
 それは感謝であり、賛美であり、友愛であり、恋慕の想いだった。彼は、人に出来る、ありと
あらゆる形で少女のことを想った。やがて、その熱情は彼に創造の技術を与えた。
 ある日を境にバレンタインは熱心に石を彫り始めた。その熱意は、狂気と言ってもよかった。
身体が勝手にやっているような彫り方だった。尤も、彼は彫刻についてまったく無知というわけ
でもなかった。
 というのも、バレンタインの父親は彫刻家だったのだ。血の繋がりはなく、教会の前に捨てら
れていた赤ん坊の彼を拾って育てたらしい。ところが、育てたと言えば聞こえは良いが、実際は
道具のように彼を酷使していただけだった。



 何も出来ない赤子時代は、父親の鬱憤の吐き溜めとして散々に殴られた。抵抗できない赤子を
父親は面白がっているようだった。生後一ヶ月で、彼は泣くことをやめた。生まれて初めて学習
したのは、泣けば殴られるということ。
 歩けるようになったその日から、今度は仕事の手伝いをさせられた。遊ぶ事など許されない。
休みなしで一日中ぶっ通しにこき使われた。もちろん、小遣いなどくれる由もない。
 苦しみの連続。やがてバレンタインは十歳になった。父親から新しく彫刻の仕事を許される。
 初めて持たされた彫刻刀。彼は父親を刺し殺し、家を逃げ出した。
 以来、彼にとって彫刻は憎しみの象徴であった。街で何かの彫像を見かけるたびに、唾を吐き
かけた。こうして捕らえられたきっかけであるあの家に押し入ったときも、窓から見えた彫像が
勘に障ったのだ。


 だが今、粗末な匙で石を削る彼の手つきは、穏やかな愛情に満ち満ちていた。バレンタインは
鼻歌を歌いながら、恍惚と石と戯れていた。
 彼の存在は周囲にも変化をもたらした。生きる意志を放棄していた囚人たちは、彼の楽しげな
様子に惹かれ、いつしか彼の房の周りに集まるようになった。囚人たちの目に、不思議な輝きが
宿りはじめていた。
 そうこうするうちに、バレンタインの手はさらに進んでいく。次第にあやふやだった石の形は
あるものへと近づいていった。
 今なおバレンタインの瞼に焼き付いている、あの少女の笑顔へと。




 さて、このことがあって、バレンタイン自身にもある好機が訪れた。
 彼の熱情に気付いたのは囚人たちだけでなく、看守の一人もあるときバレンタインの不思議な
行動を知った。この看守はまた気のいい男で、バレンタインに何か特別なものを感じ取り、彼の
仕事を神への敬意という形で所長に報告して、年に一度だけの外出許可を得てくれたのだった。
 かくてバレンタインは久々に陽光の下に出た。もちろん看守の見張り付きだが、例の人の良い
看守だったので、ほとんど彼の好きな様に歩かせてくれる。
 街は相変わらず面白みのない風景だったが、やはり外の空気は清々しい。バレンタインは軽い
歩調で歩きはじめた。看守は少しばかり首を傾げる。別に行く宛てなどないだろうのに、確信に
満ちた足取り。
 バレンタインには予感があった。
 まるで奇跡のごとく訪れたあの出会い。神に導かれたとしか思えない、彼女との出会い。
 だから、今こうして自分が光の下にいるのも、きっと何かの役目があってのことに違いない。
 間もなく彼の予感は確信に変わった。前の道を行く小さな人影、それは見まごうことなきあの
心優しい少女だった。
 彼は飛び上がって喜びたいのを抑えながら、看守に気付かれないようにさりげなく少女の後に
ついていった。いくら人の良い看守とはいえ、彼が少女と接触することは見過ごしてくれまい。
囚人と関係を持つのは重い罪にあたるのだ。
 びっこを引く少女を見ながら、バレンタインの胸は終始幸福で満たされていた。懐かしい姿、
彼女は変わっていない。いや、いくらかその美しさを増したかもしれない。路地裏での一時が、
脳裏に鮮明に蘇る。しかしまだ彼女は貧しさから逃れられていないらしい。
 やがて少女は小さな家の戸を開けて、中へと入っていった。どうやらそこが、彼女の住まいの
ようだった。とても粗末な家だった。
 バレンタインは深く胸を痛めた。あれほど優しい心の持ち主のもとに、なぜ神はお恵みを与え
られないのか。幸福とは、然るべき人物のもとに訪れるべきではないのだろうか。せめて、自分
より少しでも、彼女に安らぎを捧げられないことか。哀しみの中で彼はあることを思いついた。


 バレンタインはそっと懐に手を入れると、ひとつの彫像を取り出した。この一年の間、牢獄で
彫り続けてきたあの彫像だ。そして、看守の目を盗み、素早くそれを彼女の家の窓辺に置くと、
その下に走り書きをした。
 それを済ますと、あとはもう振り返りもせずに、彼はさっさと牢獄へと踵を返していった。
 看守や彼女はもちろん、通りの誰もそのことに気付くこともなく、先程までと全く変わらない
時間が街に戻った。ただバレンタインの顔だけは、どこか誇らしげになっていた。




 翌日。一人の紳士がその通りで足を止めた。
 足を止めたということは、目を引くものがあったからだ。
 視線の先、民家の窓辺に、捨てられたように小さな彫像がぽつんと置いてあった。
 近づいて見ると、汚い文字で走り書きがされており、それを読んだ紳士は民家の窓を叩いた。
 家の奥から足の悪い少女が出てくる。
「はい、どちらさまでしょう?」
 紳士は尋ねた。
「この彫像は、君のものかね?」
 言われた少女は首を傾げる。
「いいえ、あなたさまの持物ではありませんか?」
「いや、ここにこうして置かれていたのだよ」
「ですが、私には覚えのないものですわ。どなたさまかが置き忘れたのではないでしょうか」
「しかしだね、ここにちゃんと書き添えがされている」
 紳士は走り書きを指差し、少女は目を丸くした。
「この彫像を買って下さい、と。そしてこれは、君の名前だろう」
「確かにそこにあるのは私の名前ですわ。でも、本当に覚えがないのです。全く不思議ですわ」
「そんなことはね、どうでもいいんだ。これは君の家の窓に置いてあってだね、欲しい人間は、
君から買ってくれと書いてあるんだ。大体見なさい、この彫像は君にそっくりじゃないか」
「そのようですわ」
「そしてだね、私はこいつが是非欲しいんだよ。芸術の類いなら腐るほど見てきたが、こいつは
違うね。とても特別な代物だよ。うまく説明は出来んが、とても訴えかけてくるものがある」
「はあ……」
「とにかく一刻も早く我が家に持ち帰りたい。いくらだ、いくらで売ってくれる? 何としても
欲しいのだよ。いくらでも出そうじゃないか、君、是非売ってくれ」
 そう言って、困惑している少女に強引に大金を押し付けると、紳士は上機嫌で像を持ち帰って
しまった。後に残された少女は、窓辺の走り書きと、遠ざかる紳士の背中と、それから手の中の
大金を呆然と見比べた。
 なにかの悪戯なのだろうか。少女は試しに自分の頬をつねってみたが、夢から覚める気配も、
紳士が戻ってくる様子も全くなかった。



 翌年になって、また牢の外へと出てきたバレンタインは顔をいっぱいにほころばせた。
 少女の家が、少しばかり小綺麗になっていたのだ。
 どうやら自分の思いつきはうまくいったようだ。彼は一年前の結果に満足しながら、懐に手を
さし入れると、また新しい彫像をそっと窓辺に置いた。





 このようにして、バレンタインと少女との見えない交流は続いた。
 バレンタインは毎日その日のために彫像を彫り続け、それによって彼女は次第に裕福になって
いった。バレンタインの仕事にも、いっそう熱がこもった。
 少女の方は、どうしてもこの不思議な好意の主を確かめたかった。そのため、彼女は例の日が
近づくと、窓辺に張り付いて彼がやってくるのを待ち構えたりした。しかし、ほんの少し注意を
そらしたと思うと、いつのまにかそこに彫像は置かれているのだ。
 バレンタインは決して彼女に姿を見せなかった。見せれば彼女がどういう目に遭うのか、彼は
それまでの人生でよく知っていた。全てが無駄になってしまうのだ。それだけは絶対にあっては
ならない。


 彫像の顔は少しずつ変化していった。彼女が成長してゆくにつれてか、それとも彼自身が老い
てゆくためだろうか。彫像は徐々に美しく、年をとっていった。 
 だが、どれだけ彫像が変化しても、込められた暖かみだけは決して薄れることはなかった。



 しかし、終わりは呆気なく訪れた。
 知っての通り、彼の彫像への熱意は、他の無気力な囚人たちにも活気を取り戻させた。それが
蝋燭の灯火程度のものなうちはまだよかった。だが、本来が荒くれのごろつきどもである。すぐ
に愚鈍な本性を取り戻すと、遂には計画して看守を襲い、脱獄を企てる所までいってしまった。
 脱獄は失敗に終わったが、それで済むような虫のいい話はない。所長は激怒し、怒りの矛先を
求めるうちに、ふと、あの看守が言っていたことを思い出した。つまり、囚人たちの生気の元と
なった彼の存在について。
 バレンタインはそんなことなど露ほども知らなかった。変わらず彼女のために石を彫り続けて
いた。やがてその年の日が訪れ、彼は出来上がった彫像を懐に抱えながら、いつものように看守
がやってくるのを待っていた。


 やってきた看守は、みたこともない暗い顔つきをしていた。


 バレンタインは一目で悟った。終わりが来たのだと。
 彼は看守が何か言う前に、これまでの厚意へ心からの感謝を述べた。
 看守はいっそう悲痛な面持ちになり、絞り出すように、すまない、と一言だけ言った。
 そして、彼の腕に錠をはめた。





 表に出た途端、バレンタインの顔に腐った果実が飛んできた。
邪教祖め!!」
 若い男が叫んでいる。そういうことにされているのか、とバレンタインは無感慨に思った。
 通りの脇には整然と並ぶ人の列が出来ていた。人で囲まれた街路の真ん中を、バレンタインは
錠に繋がれながら歩いていかなくてはならないのだ。広場に用意された、絞首台の上まで。
 監視についたのはいつもの看守ではなく、血を見るのが好きな衛兵だった。衛兵は、太鼓でも
叩くように気軽にバレンタインを鞭打ち、そのたびに彼の肉に赤い裂け目が走った。
 激痛が彼の歩みを妨げる。すると衛兵は、さっさと歩けと急かすようにまた鞭を撓らせた。
 急かしたければ叩かなければ良いのだ。そんなことはもちろん承知していながら、衛兵は理不
尽な権力に恍惚と浸っていた。衛兵だけでなく、観衆の多くもまたその催しに興奮しているよう
だった。
 バレンタインは痛みに耐えながら、残酷な野次馬の顔を見渡した。見渡す限りの人の顔。誰も
彼も、バレンタインに憎しみと勝利の目を向けている。彼は無意識に、一人の顔を探した。


 最後の心残りはやはり少女のことだった。会うことは叶わなくとも、なんとかしてこの最後の
彫像だけは彼女のもとに贈り届けたかった。
 だが、今となってはそれも叶わない方がよかった。彼女は、決して、自分と関わりを持っては
ならないのだ。最後の最後まで、決して。
 もしも彼女がここにいるのなら、絶対に同情の眼差しなど送らないで欲しい。それどころか、
先程の男のように果実を投げつけてくれればいい、とすらバレンタインは思った。今こうやって
自分に鞭を打っているのが彼女なら、どれほど救われることだろうか。彼はあくまで少女の身を
案じ続けていた。
 そのせいで彼の歩みは止まってしまい、衛兵がひと際強く彼の背を打った。激痛に耐えかね、
彼はたまらず身をよじった。そのはずみに、バレンタインの懐からこぼれ出たものがあった。
「おや、なんだこれは?」
 地に落ちた彫像に、衛兵が眉を顰めた。バレンタインは血相を変えた。だが、彼の両手は頭の
上に繋がれており、彫像を拾い上げることは出来なかった。
 衛兵の汚い手が彫像に近づき、バレンタインは胸の内で叫んだ。彼に残された最後の温もりが
摘み取られようとしていた。
 ところが、やがて彫像を拾い上げたのは衛兵の手でもなければ、彼自身の手でもなかった。








「あなただったのですね……」
 その場を支配していたざわめきが、ふっと消え失せた。
 彫像がこぼれ落ちた途端、観衆のなかから走り出たその女性は、震える手で彫像をそっと拾い
上げると、跪きながら彼を見上げた。バレンタインは息をのんだ。 


 あの少女だった。



 もうボロを身に纏ってはいない。足もすっかり良くなっているようだ。どこからみても、立派
な貴婦人の姿だった。
「恩人さま……私の恩人さま……!」
 彼女はぼろぼろと涙をこぼしながら、あの日のように、錠に繋がれている彼にすがりついた。
そして、それまでのことを口早に申し立てた。
 彫像を売ったお金で足を治したこと。その地の領主のもとに奉公に出たこと。末の息子に気に
入られて、今は彼の妻となり幸せに暮らしていること。所々に感謝の言葉を交えながら、夢中で
話す彼女をバレンタインは静かに見守っていた。
 彼は娘を、恋人を、母を想うような眼差しで彼女を見据えた。
 嫉妬や悔いなどない。幸せに暮らしていると、彼女自身の口からそんな言葉が聞けただけで、
彼はもう他に何も望むことなどなかった。
 あの日、彼が味わったパンの味を、ようやく彼女に返すことが出来たのだ。
 大きな仕事を終えたような、素晴らしい充足感がそこにあった。 


 そして彼は、最後の仕上げにかかった。



「お嬢さま、お人違いでしょう。あっしはあなたさまなんか知らねえ」
 バレンタインはつっけんどんに言った。
 少女はその言葉に驚き、懸命に首を振りだした。
「いいえ、いいえ、見間違えるものですか。この彫像は、あなたが私に贈って下さった……」
「そんなもん、あっしは知らねえ。どこぞで拾ったもんでしょう。よく覚えておりませんや」
「ああ、恩人さま、嘘をおつきにならないで。……なぜ、なぜそのような事を言われるのです。
私はこの何年もの間、ずっとあなた様にお会いするのを待ち望んでいたのですよ」
「あっしはここ何年も外に出たことなんぞねえ。お嬢さまも知らねえ。その像も知らねえです。
そいつは持ってって、どうかお嬢さまの家の窓辺にでも飾っておいてくだせえ」


 少女はハッと目を瞬いた。
 その隙に、バレンタインは衛兵に言った。
「兵隊さま、この方は気が違ってるんでございましょう。早いとこなんとかしてくだせえ」
 そう言うと、気を呑まれていた衛兵は我に返り、彼女を引き離しにかかった。
 なおも泣きすがろうとする彼女から離れ、彼は再び自ら絞首台へと足を踏出していった。
 鞭の痛みも、大衆の蔑視も、もはや彼の心には何ももたらさなかった。


 絞首台の階段へ足をかけたとき、彼はわずかに、空を見上げた。



 神は確かに存在した。
 そして、自分の最後の願いをかなえてくれた。



 彼のささやかな善行は、完全なる結末を迎えたのだ。




 処刑は滞りなく執行され、汚れなき彼の魂は、天高く召されていった。










 *


 そして、彼は聖人と称さられるようになり、今日に至る。それから、もう分かったと思うが、
彼が一年に一度だけ外出を許された日が、ちょうど今のバレンタインに当たる、ということだ。
どうだ。実に心安らかな話だろう。


 ……さてラムザ、この話の教訓がわかるか?


 どこぞの下らん貴族共のせいで現状のような風習となっているが、聖バレンタインという日は
本来チョコレートなどではなく、真心を贈る日なのだ。品の体裁など関係はない。それを贈る者
自身の気持ちが、思いの丈が大切なのだ。逆に言えば、どれだけ豪華な代物を用意したところで
感情の伴わない贈り物など意味がないということだ。
 つまりだな、私は現状のバレンタインのような、ただ菓子を買いさえすればいいというような
在り方など、愚の骨頂だと思うのだ。あまつさえ「義理」などといって渡すものもいる始末では
ないか。目的のない贈り物など、もってのほかだ。そう思わないか?


 ところでラムザ。お前は別に私の夫でもなければ連れ合いでもないし、そうなる予定もない。
 だが、現状としてお前が私にとって重要な人物であることには違いないだろう。
 というわけで、これだ。受け取っておいてくれ。



 ……本ですか?
 そんなこと見れば分かるだろう。本だ。何を怪訝そうな顔をしている。


 ただの本ではないぞ。私の祖父の代から愛用されてきた、年季のこもった指南書だ。
 お前に剣を教えるようになってから随分経つが、そろそろその必要もなくなってきたようだ。
今のお前の腕前は、私にもそう劣らない。教えられるようなことはもう済んだだろう。後は自ら
実戦で技を鍛え上げていって欲しい。
 だが、何事にも成り立ちというものが重要だ。時には基本に立ち返り、古き書を読んで初心に
戻ることも大事な訓練だ。うん、その通り。バレンタインの話も同じことだな。
 正直な所、私もこれを譲るのは惜しいが、他でもない愛弟子のお前だ。それに何より、今日は
バレンタインであるからな。遠慮せず受け取ってくれ。嬉しいだろう? ふふ、そうかそうか。
 なんだなんだ、そこまで露骨に嬉しそうな顔をすることもないだろう。こっちも照れてくるで
はないか。そんなに嬉しいのか?
 ふふ……そんなに喜んでもらえるとはな。いや、私も正直迷ってな。もちろん起源というのは
敬って然るべきものだが、しかしながら現存する慣習というのも、そう軽んじて扱ってよいもの
かどうかと言えるし、もちろん私は……、




 え、なに?


 顔に何かついてる……?







 ……ラムザ、貴公、なにか勘違いをしていないか。
 なにを? 何でもいい、とにかく……、おい、その締まりのない顔をやめんか!
 これはだな、つまり……先程貴公を探していた最中に厩舎の方も覗いたのだが、折悪くボコが
暴れていて、泥が跳ねたのだ。うん、恐らく、そのとき私の顔に跳ねたのだろう。それだけだ。


 …………なに!? 貴公、いったい私の話を聞いていたのか!! なぜ私がチョコレートなど
作らなければならないのだ! そんなものを作るのは、風習に囚われた愚か者のする……
 ラ、ラムザッ!! 貴様、私を愚弄するか! 作れないのではない、作らないんだっ!!
 いいか、もう一度言うが、バレンタインの志というものは……笑うな馬鹿者!!
 わっ、やめろ、こら、触るな! 舐めるな! 泥だと言っているだろうが!!



 ……もういい。おい、それ返せ。
 は? じゃない。いいから返さんか。
 考えてみれば、私の主君はオヴェリア様おひとりだけだ。お前なんぞどうでもいい。
 大体お前の剣術など、まだ子供騙しだった。それを手にするのは十年早い。
 人の厚意を踏みにじりおって、こら、ラムザさっさとよこせ!
 

 おい待て、ラムザ! どこへ行く!
 この薄情者め、待てというのに! ラムザ! ラムザッ!! ……もう!!





 終





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