氏作。Part23スレより。



 …気になる。


 どうも視線を感じる。


 いつから? どこから?


 どうして?



「…はぁあ…」
 夜の酒場の一角で、ラファが男どもに囲まれながら溜息をついている。
「ありゃ、ラファちゃんどうしたの?」
「あ、いえ、なんでもないです」
「そう? ならいいんだけど」
 釈然としない顔でラッドが去っていく。そんな彼を頬杖を付いて眺めながら、
「…ふう…」
 と、ラファはまた溜息をつく。ラファは新たな旅路の中で、ある悩みを抱えていた。


 それは、ある誰かに監視されている気がする、というものである。


 ラファと彼女の兄マラークは、彼らの主であったリオファネス城主バリンテン大公の死を境に、
世間で異端者と呼ばれるラムザと行動を共にしている。かつて大公のもとでは幼くして
暗殺集団の中に身を置き、生きるためにとはいえ他者を殺めていたが故に誰かに恨みを買う
ことも当然であろうし、異端者と呼ばれる賞金首の一味に身を置く今の身の上からも、四六時中
狙われている可能性があるのは当然であろう。彼女もそれらを弁えているつもりではあった。


 しかし、彼女を悩ます視線は隊内から発されるものだ。
 知らぬ間に誰かの恨みを買っていたのだろうか? 自分の所在を疎ましく思っているのだろうか?
それとも、自分達に対する単なる興味や物珍しさであろうか?


 …考えても答えが出てこない。


 ただ、マラークがラムザ達に協力するより前に、ラファはラムザ達に助けを求めて暫く
しばし道行きを同じくしているが、そのときから既に、視線を感じていた気がする。


 暫く過ごした中で、視線の主はある程度の見当がついている。おそらく…あの人だろう。
その人物は…見回してみたが見当たらない。どうやら今は酒場にいないようである。
今のうちに宿へ戻って休んだ方がいいかもしれない。ラファはそう考えた。
「ごめんね兄さん、私、先に宿屋へ戻るわ」
「えぇ?!? 寂しいなあ?」「もうちょっと一緒にいようよ?」
 ラファが席を立つと、周囲の男どもが大げさに退席を残念がる。マラークはそんな男どもを
なだめながら、ラファに声をかけた。
「ラファ。大丈夫か?」
「うん。先に休んでるね」
 小さく微笑んだラファが、重い足取りで酒場を後にした。


「早かったな」
 宿屋に戻ったラファを出迎えたのは、アグリアスであった。
 彼女こそが、ラファが自分を監視しているのであろうと考えている人物である。


 理由は解らないが、ラムザ達に助けを求めたときからアグリアスにはじっと見つめられていた
記憶がある。それは兄マラークが一緒になったときも同様で、なぜかアグリアスとしょっちゅう
目が合ってしまうのだ。アグリアスはそれを気まずいとも思っていないらしく、目が合ってなお
ラファをじっと見つめ続けているので、ラファとしては非常に気まずく感じていた。


 そんな彼女に見つかるまいと早めに酒場を出たというのに、この人は律儀にも宿屋の留守番を
していたようだ。もしかしたら自分を待ち構えていたかもしれない、そんな疑心暗鬼がラファに
生まれていた。
「皆はまだ酒場か」
 アグリアスはそんなラファの心境も構わず話を続けている。
「え、ええ、早めにお休みさせてもらおうと…」
「そうか」
 萎縮しながら愛想笑いを浮かべるラファを、アグリアスがじっと見つめている。
 そのまま固まること十数秒。
「あの…なにか?」
 耐え切れなくなったラファが、小さな声でその静寂を破った。
「………」
 が、アグリアスはラファを見つめたまま何も答えない。
「じゃあ私はこれで…おやすみなさい」
「ああ」
 ラファは軽い会釈をしてそそくさとアグリアスの前を通り過ぎる。


 …何事もない。


 ラファは安堵の表情を浮かべ…
「そうだ。後で部屋に失礼させてもらう」
 その言葉にラファが振り返る。
 そのまま固まること十数秒。
「いいな? では」
 とんでもないことを言い放ったアグリアスは、くるりと背を向けて自分の部屋へと歩き出す。
ラファは返答を返すこともできずに暫く固まり続けていた。





    * * *


 わからない。自分が何かしたのだろうか?


 ラファは自室で何度も自問自答を繰り返していた。隊の中でも堅物で通っている彼女である、
おそらく何かしら問題があっての話だと思うのだが、全く心当たりがない。
身の振り方の話だろうか、ラファ個人への私怨だろうか。ありえない話ではないだけに、
気落ちした彼女の考えがネガティブに陥っていく。
「ここにいられなくなったら、どこへ行ったらいいんだろう…」


 ──お前が生きていられるのは誰のおかげだと思う?


 『あの男』の言葉が脳裏をよぎる。かつての生きるための代価は…


 ──安心しろ…、次第に恐怖が恐怖でなくなるよ。クックックック…


 リオファネス城の忌まわしい出来事を思い出し、ラファが吐き気を催した。
 ラムザがどんな人物かは解るが、それ以外の人物をラファは良く知らない。アグリアスについても
どんな人間なのかラファにはわからない。バリンテンという悪例を経験している彼女にしてみれば、
どんな辱めを受けるのかわからないのだ、それは恐怖を感じるのも無理はないことだった。
 気が付けば部屋の中に一人だけでいることに恐怖する。小さな身体を更に小さくすくめた彼女が、
ここから逃げる手段を考えるが、それより早く部屋に規則正しい足音が近づいてきた。


「失礼する」
 そしてまもなくノックと共に入ってきたのは、いつもと変わらぬアグリアスだった。しかし
ラファは思わず枕を抱えて身構える。
「今日はあまり飲んでこなかったのか?」
 何気ない会話。しかし悪い方向への妄想が働いて、とてもアグリアスを正視できない。
ラファは黙って頷いた。
「そうか、それは良かった。酔ってふらふら動かれては手元が狂ってしまうからな」
 …どういう意味だろう。手元が狂う?
 少なくともその言葉を聞いてラファが蒼ざめる。アグリアスは自分をどうするつもりだろう。
何か言おうと口を開くが、恐怖で声が出せずにいた。
「悪いが、少し後ろを向いててくれないか? すぐ終わる」
 そう言いながら、アグリアスが懐に手を入れ、何かを取り出そうとした…。





 → 逃げる
   従う



























 → 逃げる



 ラファは、アグリアスの言葉に従い、アグリアスに背を向ける。彼女に従うのではない、
不意をついて逃げるためだ。アグリアスが不用意に近づいてきた隙を狙うしかない。
2歩、3歩と歩み寄ってくるアグリアスが、無防備にもベッドに腰をかけ、ラファに手を伸ばした。


 …今しかない。


 ラファは身を翻して、自分の代わりにとアグリアスの手に枕を押し付けた。そのまま枕越しに
アグリアスを抑えて部屋の反対側へ逃げ出すと同時に、アグリアスが手にした得物を確認する。


「…え?」


 二人の動きが止まった。
 ラファの行動はアグリアスには予測できなかったらしく、思った以上にすんなりと逃げ出せた
筈だったが、ラファはアグリアスの手を見て動きを止めてしまった。
 アグリアスの左手は、ラファの枕で塞がっている。そして彼女の右手には、一本の櫛が。
「す、すまん、驚かせてしまったか」
 アグリアスと同様に驚いた顔のラファを見て、アグリアスが非礼をわびる。
「とりあえず落ち着いて、座ってくれ。ラファの髪が気になったんだ」
「…髪?」
 ラファはあからさまに訝しげにアグリアスを見つめた。当のアグリアスは普段どおりというか、
やはり笑みを浮かべたような面持ちで、ラファを見つめている。
 とりあえず敵意は感じられない、ラファは警戒しながらも、アグリアスに背を向けてベッドに
座り、彼女に問い掛けた。
「けど、どうして?」
 しゅらり、しゅらりと、アグリアスが静かに髪に櫛を通しだした。
「気になっただけだ。それでは不満か?」
「………」
 ラファが何も答えず横目でアグリアスを見ると、なんだかいつもと雰囲気が違う。いつもどおり
しゃんとして背筋を伸ばしたアグリアスなのだが、雰囲気の中にどこか穏やかなものを感じる。


「ねえ、こういうこと、よくやるの?」
 髪をいじられているので後ろは向けない。そのままの姿勢でラファはアグリアスに問う。
「そう…だな。昔はこうしてオヴェリア様の御髪を梳かしていたこともあった」
「…じゃあ、その櫛はお姫様の?」
「これは何かのお祝いに誰かから貰った品だ。使わないから引出しの中にしまってて…随分
 長い間眠らせていた」
 アグリアスが小さく苦笑いする。
「ふう…ん」
「それがあるときにオヴェリア様に櫛がないかと尋ねられて、この櫛を思い出し、それ以来だ。
 もともと私はこれを使う気がなかったから、恐縮ですがよろしければお使いくださいと
 オヴェリア様に申したんだが、これは私が使うべきだと仰っていた」
「で、使うようになったの?」
「全然。この櫛どうしよう、とか思ってたわ」
 アグリアスが、表情を緩めてくすくすと笑い出す。
「それより前に櫛を使ったのは、修道院に行く前の日に先輩に髪を梳いてもらったときくらいね。
 王女様の御前に出る特別な日だから、って言われていたせいもあって、特別な日じゃないと
 そういうことはするものじゃないとばかり思ってたわ。それに、私にとってはこれよりも
 剣の稽古の方が大事だった。だからそんなことがあっても、全然気にしてなかったのよ。
 だけど、オヴェリア様はそれを気にしてて…どうしたと思う?」
 ちょこっとだけ首を傾げて、ラファが答える。
「…お説教が始まったとか?」
「それもあったけど…私を椅子に座らせて、私の髪を梳き始めたの」
「えぇえ!?」
 思わず大仰に驚いて振り返るラファの肩にアグリアスが手を置いて前を向かせる。


「オヴェリア様に身の回りのことをしてもらうなんて恐れ多いにもほどがある。
 だからそれ以来、毎日身だしなみには気をつけたわ。気をつけすぎてオヴェリア様よりも
 出来がいいときもあって、そのせいで気まずい思いをしてた日もあったけど」
 笑いながら再びアグリアスが髪に櫛を通す。
「そうして今度はオヴェリア様の身の回りもちょっと気になったりして…それからアリシア
 ラヴィアン、他の人たちのことも意識し始めた気がするわね」
「王女様なんだから、いつもお化粧してるんじゃないの?」
「扱いが王女でも、暮らしそのものは質素だったわ。香水や頬紅のような高級な化粧品なんて
 無かったし、こうして髪を梳くくらいしかおしゃれらしいおしゃれは出来なかったものよ」
「ふぅん…」
「…はい、これでおわり」
 そう言ってアグリアスがラファの両肩に手を乗せた。
「せっかくの綺麗な黒髪なんだから、今度はちゃんと洗わないといけないわね」
 出来上がりを見てアグリアスが呟いた。ラファが二度三度頭を振ると、しゃらりしゃらりと
軽やかに髪が舞う。
「よし。では、邪魔をして悪かった」
 櫛を通して僅かに落ちた黒い髪の毛を拾い集め、アグリアスがすっくと立ち上がる。
先ほどまでの雰囲気とは打って変わって、いつものアグリアスに戻ったようだ。それに
どこかしら、すっきりした感じを漂わせている。
「…ねえ?」
 一方でいまいちしっくりこない様子のラファが、アグリアスに問い掛けた。
「今まで私をじっと見てたのって、私の髪が気になってただけ?」
「そうだ」
 素っ気無く即答するアグリアス


「そのように綺麗な黒髪は見たことがなくて、それで見とれてて、つい、な。では失礼する、
 ゆっくり休んでくれ」
 満足した笑みをラファに投げかけて、アグリアスがぱたりと、ドアを閉めた。


「はぁぁああ……」


 まもなくラファの溜息が部屋中に響き渡る。てっきりもっとあんなこととか、こんなこととか、
挙句の果てにあんなことまでされちゃったりとか悶々とか戦々恐々とかしていたのに、
とんだ杞憂もあったものだ。
 相手はこちらを誉めてくれているのだから、悪意がないことが解っただけでもいいにしろ。
「一体誰のせいでゆっくり休めなかったと思ってるのよ…」
 がっくり肩を落としてうなだれていると、物音が聞こえてきた。
「ムスタディオ! お前はもう少し身だしなみというものをだな…!」
「俺は頭を触られるのが嫌いなんだよッ! もう気にすんなって!」
「ならんッ! そんな恰好で二度とオヴェリア様の御前に出られると思うかッ!
 私の気が済むまで梳かさせてもらうぞッ!!」
「あああ、二人とも夜中にそんな大声を立てないでください! 恥ずかしいですから!」
 部屋の外でどたどたと走り回る音が聞こえる。その喧騒を聞いていると、悩んでいたのが
あまりに馬鹿馬鹿しく思えて仕方がない。
 どっと疲れの沸いて出たラファは、そのままベッドに埋もれて眠りについていった。





    * * *


 今夜も酒場でマラークがぼやいている。
「なあ、ラムザ。ここ最近、ラファがちょっとつれなくてさ」
「へえ」
「夜になると大概アグリアスと一緒にいるんだ。どう思う?」
「うーん…どうなのかなあ。でもあのアグリアスさんだから心配ないと思うよ?」
「いやいやそうじゃない。俺はやはりこの辺で兄としての立場を再認識させるべきだと思うんだよ」
「そう?」
「そうだよ、だってたった一人の肉親だしな。ラファは俺が守らなきゃ」
「親バカならぬ兄バカだな…」
 酒の勢いに少し飲まれたマラークに、ムスタディオがポツリともらした。
「兄バカでもいいさ! ラムザ、同じ妹を持つ身なら解るだろう!」
「う…!」
「俺は一度死んだあの日から、妹が幸せになるための努力を惜しまないつもりで来たんだ!
 ラムザ、君だって妹は心配だろう!?」
「そ、それはそうだけど」
「倦怠期じゃないの?」
「その妹が恋人が出来たというのならまだしも!」
「そこは重要だよ!」
 そのツッコミはラムザの本音だろうか。隣のラッドは自分の発言を流されて寂しそうな顔だ。
「確かにそうだが、そういうわけでもないのに俺の元を離れようとしてるんだぞ!」
「いや、それはありえないよ…あ、でも、うーん、アルマの場合は…うーん」
「おいおい…発想が飛躍しすぎっつーか、過敏に心配しすぎじゃないか?」
 熱弁するマラークに同調してしまっているラムザを見て、ムスタディオが呆れてみせた。
「ああッ、でもアルマがそうなったりしたら…ああああ、大変だあああ! ど、どうしよう!?」
「…なあラッド、ラムザって今日もミルクか?」
「うん。素面だよ」
 もう慣れたかのように返すラッド。
「…やってらんねえ」
「ムスタディオッ! 今日という今日はその頭を…」
「やべっ! ラッド、後は任せた!」
「え、えええええ!?」
「待てムスタディオ! 話の途中で逃げるとは何事だ!」
「うわああ、アグリアスさん!! アルマを取らないでくださーーい!!」
「やっぱりここは俺の出番をだな…って、ラムザ! 俺の話を聞いてくれ!」



 かくして以後彼らの道中が平穏だったかどうかは別にして、ラファとアグリアスの逢瀬もまた、
日常の一部となっていったのであった。







    * * *


 さて、それからしばらくして。


「メリアドールさん、よろしくお願いします」
「ええ、こちらこそ」
 ラムザ達一行に、新たにメリアドールが道行を共することになった。彼女は神殿騎士と
いうことで、戒律もあるのであろう、フードを目深にかぶっている。
「あの中はどうなっているんだろうな…」
 誰かの呟く声に、ふとラファが嫌な予感を感じて後ろを見やる。
「…!」
 そこには彼女の予想通り、メリアドールを熱心に見つめるアグリアスの姿があった。
何度か首を傾げて、どうにかフードの中が見えないかと角度を変えては見入っているようだ。
「…はぁあ…」
「ありゃ、ラファちゃんどうしたの?」
「あ、いえ、なんでもないです」
「そう? ならいいんだけど…ねえ、こんなやり取り以前もなかったっけ?」
「そ、そうでしたっけ? あはは…はぁ」


 おそらくこれから起こるであろうメリアドールの災難に、疲れた笑顔を浮かべながら
やれやれと首を振るラファであった。



おしまい



























 → 従う



 ラファは、アグリアスの言葉に従い、アグリアスに背を向けた。
 何もまだ自分に危害を加えると決まったわけではない。それに、仮に自分に落ち度があったと
しても、それはやはり罰せられるべきだと思う。
 すぐ終わるというのだ、すぐに終わらせて欲しい。
 ラファは後ろを向き、観念して目を閉じた──。


 しゅい、しゅいと、自分のすぐ後ろから布のすれるような音が聞こえる。時折アグリアスの手が
首筋に触れる。頭になにかが当たっている。そして、後ろから引っ張られるような感覚。


「…?」


 何をしているのだろう。不思議に思ったラファは、ゆっくりと目を開けた。


 …が、視界には誰もいない。


「あ、動かないで」
 気になって左右を見ようとすると、アグリアスがその動きを制した。
「…じっとしてて」
 息を呑むくらい、今までにないアグリアスの優しい口調にどきりとする。
 少し右を向いて動きの止まったラファの頭を、アグリアスの両手が前を向かせる。
ラファは彼女の右手に握られた櫛を見て、ようやくアグリアスが何をしているのか
理解した。



「ねえ、こういうこと、よくやるの?」
 髪をいじられているので後ろは向けない。そのままの姿勢でラファはアグリアスに問う。
「そう…だな。昔はこうしてオヴェリア様の御髪を梳かしていたこともあった」
「…じゃあ、その櫛はお姫様の?」
「これは何かのお祝いに誰かから貰った品だ。使わないから引出しの中にしまってて…随分
 長い間眠らせていた」
 アグリアスが小さく苦笑いする。
「ふう…ん」
「それがあるときにオヴェリア様に櫛がないかと尋ねられて、この櫛を思い出し、それ以来だ。
 もともと私はこれを使う気がなかったから、恐縮ですがよろしければお使いくださいと
 オヴェリア様に申したんだが、これは私が使うべきだと仰っていた」
「で、使うようになったの?」
「全然。この櫛どうしよう、とか思ってたわ」
 アグリアスが、表情を緩めてくすくすと笑い出す。
「それより前に櫛を使ったのは、修道院に行く前の日に先輩に髪を梳いてもらったときくらいね。
 王女様の御前に出る特別な日だから、って言われていたせいもあって、特別な日じゃないと
 そういうことはするものじゃないとばかり思ってたわ。それに、私にとってはこれよりも
 剣の稽古の方が大事だった。だからそんなことがあっても、全然気にしてなかったのよ。
 だけど、オヴェリア様はそれを気にしてて…どうしたと思う?」
 ちょこっとだけ首を傾げて、ラファが答える。
「…お説教が始まったとか?」
「それもあったけど…私を椅子に座らせて、私の髪を梳き始めたの」
「えぇえ!?」
 思わず大仰に驚いて振り返るラファの肩にアグリアスが手を置いて前を向かせる。


「オヴェリア様に身の回りのことをしてもらうなんて恐れ多いにもほどがある。
 だからそれ以来、毎日身だしなみには気をつけたわ。気をつけすぎてオヴェリア様よりも
 出来がいいときもあって、そのせいで気まずい思いをしてた日もあったけど」
 笑いながら再びアグリアスが髪に櫛を通す。
「そうして今度はオヴェリア様の身の回りもちょっと気になったりして…それからアリシア
 ラヴィアン、他の人たちのことも意識し始めた気がするわね」
「王女様なんだから、いつもお化粧してるんじゃないの?」
「扱いが王女でも、暮らしそのものは質素だったわ。香水や頬紅のような高級な化粧品なんて
 無かったし、こうして髪を梳くくらいしかおしゃれらしいおしゃれは出来なかったものよ」
「ふぅん…」
「…はい、これでおわり」
 そう言ってアグリアスがラファの両肩に手を乗せた。
「せっかくの綺麗な黒髪なんだから、今度はちゃんと洗わないといけないわね」
 出来上がりを見てアグリアスが呟いた。ラファが二度三度頭を振ると、しゃらりしゃらりと
軽やかに髪が舞う。
「よし。では、邪魔をして悪かった」
 櫛を通して僅かに落ちた黒い髪の毛を拾い集め、アグリアスがすっくと立ち上がる。
先ほどまでの雰囲気とは打って変わって、いつものアグリアスに戻ったようだ。それに
どこかしら、すっきりした感じを漂わせている。
「…ねえ?」
 一方でいまいちしっくりこない様子のラファが、アグリアスに問い掛けた。
「今まで私をじっと見てたのって、私の髪が気になってただけ?」
「そうだ」
 素っ気無く即答するアグリアス


「そのように綺麗な黒髪は見たことがなくて、それで見とれてて、つい、な。では失礼する、
 ゆっくり休んでくれ」
 満足した笑みをラファに投げかけて、アグリアスがぱたりと、ドアを閉めた。


「はぁぁああ……」


 まもなくラファの溜息が部屋中に響き渡る。てっきりもっとあんなこととか、こんなこととか、
挙句の果てにあんなことまでされちゃったりとか悶々とか戦々恐々とかしていたのに、
とんだ杞憂もあったものだ。
 相手はこちらを誉めてくれているのだから、悪意がないことが解っただけでもいいにしろ。
「一体誰のせいでゆっくり休めなかったと思ってるのよ…」
 がっくり肩を落としてうなだれていると、物音が聞こえてきた。
「ムスタディオ! お前はもう少し身だしなみというものをだな…!」
「俺は頭を触られるのが嫌いなんだよッ! もう気にすんなって!」
「ならんッ! そんな恰好で二度とオヴェリア様の御前に出られると思うかッ!
 私の気が済むまで梳かさせてもらうぞッ!!」
「あああ、二人とも夜中にそんな大声を立てないでください! 恥ずかしいですから!」
 部屋の外でどたどたと走り回る音が聞こえる。その喧騒を聞いていると、悩んでいたのが
あまりに馬鹿馬鹿しく思えて仕方がない。
 どっと疲れの沸いて出たラファは、そのままベッドに埋もれて眠りについていった。





    * * *


 今夜も酒場でマラークがぼやいている。
「なあ、ラムザ。ここ最近、ラファがちょっとつれなくてさ」
「へえ」
「夜になると大概アグリアスと一緒にいるんだ。どう思う?」
「うーん…どうなのかなあ。でもあのアグリアスさんだから心配ないと思うよ?」
「いやいやそうじゃない。俺はやはりこの辺で兄としての立場を再認識させるべきだと思うんだよ」
「そう?」
「そうだよ、だってたった一人の肉親だしな。ラファは俺が守らなきゃ」
「親バカならぬ兄バカだな…」
 酒の勢いに少し飲まれたマラークに、ムスタディオがポツリともらした。
「兄バカでもいいさ! ラムザ、同じ妹を持つ身なら解るだろう!」
「う…!」
「俺は一度死んだあの日から、妹が幸せになるための努力を惜しまないつもりで来たんだ!
 ラムザ、君だって妹は心配だろう!?」
「そ、それはそうだけど」
「倦怠期じゃないの?」
「その妹が恋人が出来たというのならまだしも!」
「そこは重要だよ!」
 そのツッコミはラムザの本音だろうか。隣のラッドは自分の発言を流されて寂しそうな顔だ。
「確かにそうだが、そういうわけでもないのに俺の元を離れようとしてるんだぞ!」
「いや、それはありえないよ…あ、でも、うーん、アルマの場合は…うーん」
「おいおい…発想が飛躍しすぎっつーか、過敏に心配しすぎじゃないか?」
 熱弁するマラークに同調してしまっているラムザを見て、ムスタディオが呆れてみせた。
「ああッ、でもアルマがそうなったりしたら…ああああ、大変だあああ! ど、どうしよう!?」
「…なあラッド、ラムザって今日もミルクか?」
「うん。素面だよ」
 もう慣れたかのように返すラッド。
「…やってらんねえ」
「ムスタディオッ! 今日という今日はその頭を…」
「やべっ! ラッド、後は任せた!」
「え、えええええ!?」
「待てムスタディオ! 話の途中で逃げるとは何事だ!」
「うわああ、アグリアスさん!! アルマを取らないでくださーーい!!」
「やっぱりここは俺の出番をだな…って、ラムザ! 俺の話を聞いてくれ!」



 かくして以後彼らの道中が平穏だったかどうかは別にして、ラファとアグリアスの逢瀬もまた、
日常の一部となっていったのであった。







    * * *


 さて、それからしばらくして。


「メリアドールさん、よろしくお願いします」
「ええ、こちらこそ」
 ラムザ達一行に、新たにメリアドールが道行を共することになった。彼女は神殿騎士と
いうことで、戒律もあるのであろう、フードを目深にかぶっている。
「あの中はどうなっているんだろうな…」
 誰かの呟く声に、ふとラファが嫌な予感を感じて後ろを見やる。
「…!」
 そこには彼女の予想通り、メリアドールを熱心に見つめるアグリアスの姿があった。
何度か首を傾げて、どうにかフードの中が見えないかと角度を変えては見入っているようだ。
「…はぁあ…」
「ありゃ、ラファちゃんどうしたの?」
「あ、いえ、なんでもないです」
「そう? ならいいんだけど…ねえ、こんなやり取り以前もなかったっけ?」
「そ、そうでしたっけ? あはは…はぁ」


 おそらくこれから起こるであろうメリアドールの災難に、疲れた笑顔を浮かべながら
やれやれと首を振るラファであった。



おしまい