氏作。Part22スレより。



「隊長、私たちの隊の上位10名で決闘をしてもらいましょう」
桜の花弁がはらはらと舞い落ちる、うららかな春の午後にまどろむラムザへの
アリシアのそんな言葉はまさしく寝耳に水だった。
春の暖気に普段よりも余計にぼうとしたラムザをよそに、アリシアの熱弁はとどまるところを知らない。
夢と現の境を浮遊するかのような惚けた様子のラムザに、彼女の熱意が
期待していた通りに伝わったのかははなはだ疑問であるが、アリシアの話の概要は以下のようなものであった。


『現在は10名の実力者がその時その時で適当に5人に組んで出撃しているが
 勝利を確実にするためにもっとしっかりと戦力を考慮した編成を行うべきである。
 そのためにも上位10人が決闘をして、上位5人を決める必要がある』


確かに"しっかりとした編成"というのはかねてからの課題事項だった。今までが適当すぎたのだ。
出撃した後でメンバーの編成に致命的なミスを見つけるというのは一度や二度のことではなかった。
このままではいつの日か取り返しのつかない事になるかもしれない。
熱のこもった論調と曇り一つ無い誠実な眼差し、そしてラムザの不安を煽る巧みな話術に
いつしかラムザは彼女の提案を神託とばかりに思い込み、諸手を挙げて同意するばかりである。
こうしてラムザは隊の皆にアリシアの提案の要旨を伝え、10日間の猶予の後に決闘を行うことを公表したのである。
アリシアの陰の助言は幾度と無くラムザと隊全体に影響を及ぼしてきた。
虚実が交差する、公明正大を装った進言とは名ばかりの彼女の巧みな誘導によって、
今回もまんまとアリシアたちは10日の休暇と決闘という余興を手にしたのである。
猶予期間の10日の間、隊の皆はここぞとばかりに遊び惚け、さりとて決闘日という祭りの為の準備にも余念がない。
上位10名も稽古に精を出す者、寝て過ごす者、酒盛りに参加する者などさまざまである。


戦いの連続の日々である彼らにとって、10日の休暇は夢のように愉しい娯楽続きで時間は飛ぶように流れた。
決闘当日、会場は沈黙の緊張に彩られた厳粛なもの……かと思いきや、現実はその対極にあった。
暖かな日差しのもと、咲き誇る桜の木々に囲まれて、隊の皆は酒を飲み交わしながら
今か今かと決闘という極上の肴が差し出されるのを待ち構えている。
公にはされていないものの、この決闘の勝敗に賭博まで絡んでいるのだから始末に負えない。
このような祭りじみた空気の中で緊張できようはずもなく、10戦士もどこかたるんだ様子である。
この決闘には以下の三つのルールが定められていた。


一つ、この決闘は互いの殺傷を目的としないものであり、武器は本物を使用してはならない
二つ、上位10名の決闘の組み合わせはくじ引きによって公正に決められる
三つ、勝者を正戦士、敗者を補欠とする


二つ目のルールに従い、決闘の組み合わせが発表されるたびに、酒に酔った観衆は蜂の巣をつついたようにどよめき続けた。
滞りなくくじ引きと決闘の組み合わせの発表は完了し、しばしの準備時間の後に、いよいよ決闘が開始される。
駆けつける友人に激励を受ける者、対策を考えあぐねる者、楽勝とばかりに余裕を振りまく者など十人十色であるが、
ことアグリアスに関して言えば…普段と何一つ変わらない。
まるで感情を欠いた乾いた碧眼はひたと虚空を見据えたきり微動だにせず、いささかの動揺も感じられない。
傷痕一つ無い端麗な相貌は、彼女が未だ誰にも地に屈服させられたことの無い絶対の強者であるところを示していた。
携えた巨大な長剣は大の男の剣士でさえ扱いに困窮するような代物である。
そんな大剣を難なく振るい使いこなすアグリアスは、女の身としては破格の剣豪である。
対戦相手が誰であろうと顔色一つ変えないのは、己の力量への自信故か、それとも彼女に大切な何かが欠落しているからか???。
熱気のさなかである会場を一瞥さえせずに、アグリアスはその場を立ち去った。






決闘の半ば以上は既に終わっていた。
この日の為にムスタディオが徹底的にカスタマイズした新生・労働8号は
試合開始と共に暴走、最終リミッターを解除した最大出力による一斉射出された砲撃はマラークを即座に粉砕し、
ベイオウーフの魔法剣・コンフュを喰らったモトベが混乱して解説が止まらなくなり失格、
武器を開始早々オルランドゥに弾かれながらもラファが健気に奮闘し、
それを見かねた観衆たちに酔いの勢いも加わってオルランドゥに対しての帰れコールが勃発、
オルランドゥが突如腰痛を訴え敗退するという、狂気じみた結果に終わった。
「ううう・・・いつかレギュラーに戻って見せるんだから・・・!」
頭にできた大きなこぶをさすりながら、メリアドールは重い足取りでアグリアスを探しあぐねていた。
メリアドールの対戦相手はレーゼであったのだが、レーゼが風邪で出場不能であったため、不戦勝かと思われた。
しかしそれはぬか喜びに終わることになる。
レーゼが数ヶ月前に手なずけたペットのレッドドラゴン(名前:キャシー、♀)を代役として差し向けてきたのだ。
刃物としては最高級の切れ味と硬度を誇る刀、それも名工のこしらえた業物を
でこぴんでへし折ったという伝説をもつ怪物レーゼを相手取るよりかは、なるほどよほどましではあるかもしれない。
しかし眼前にそびえ立つ小山ほどもある竜を相手するのに、手に携えた木剣では何の意味もなさなかった。
開始数十秒で木剣はキャシーの吐き出した業火によって灰にされ、体当たりを受けて
まりのように吹き飛ばされたメリアドールは石に後頭部を強打して昏倒し、敗退したのだった。


会場の喧騒も届かない平原に音を立てるのは時折吹きすさぶ風のみ。
生き物の気配さえなく、岩肌がそこかしこに散見される寂しい不気味な場所だった。
見るからに長居はしたくない、まるで人でない亡者か何かに出遭いそうな荒野に
独り座り込む者は…心胆の小さな人間ならば出会い頭悲鳴さえ上げるかもしれない。
冷たく光る白刃に見入る、アグリアスだった。
職人が慈しんで創り上げた人形のような顔立ちは紛れも無い美女のそれである。
きらびやかな金の髪、整った目鼻立ち、透き通るように白い肌。欠点など何一つない。
そんな彼女を亡霊かと見紛わせる原因は…その眼にあった。
感情の欠片さえうかがわせない虚無が滲んだ瞳は、それを見る人間を畏怖せしめる。
いかに容姿が端麗であろうが、いかに声が美しかろうが、彼女はその双眸だけで
それらの印象の全てを反転させていた。
同じ人間のものとは思えない、およそ血の通った人のものとは思えないその眼はまさに人形のそれだった。
まるでその瞳に宿る、光さえも帰ってこれないような
底なしの闇に引きずり込まれるような、そんな不安をかき立てる眼だった。
整った顔を眉一つ動かす事無く人間を斬殺し、屍の山を築き続ける人形のような女???
恐怖と揶揄を込めた"殺人人形"という裏のあだ名は、よく彼女の的を得たものだった。
「あっ、いたいた!こんな所で何やってるのよ。もう!」
ようやくアグリアスを探し出したメリアドールが、息を切らせてアグリアスのもとに走りよってくる。
無言で俯くアグリアスを前に、心の準備を整えたメリアドールが思いの内を語り始めた。
「……私は負けたけど、同じ女の剣士として、あなたには勝って貰いたいのよ。
 だ、だからその…が、頑張りなさいよ……!」
気恥ずかしいのか、顔を赤らめながらささやかながらも精一杯の声援を贈るメリアドールをよそに、
アグリアスはやはり無言のまま立ち上がり、彼女に見向きもせずにすたすたと会場へと出向いていく。
いかに無愛想で無口が常であるアグリアスだろうが、せっかくこうしてわざわざ応援に
出向いてやった戦友に対し、この反応はあんまりではなかろうか。


腹に据えかねたメリアドールは思わず声を張り上げていた。
「ちょっ…ちょっとお!無視しないでよ!」
「………なに?」
ゆるゆると振り向くアグリアスの視線に囚われた瞬間、メリアドールは戦慄に動けなくなっていた。
殺気でも怒気でもない、力強い何かが彼女の双眸に灯っている。
何者の指図にも力にも屈しない圧倒的な意志……こんなにも強い感情を顕わにした彼女など
メリアドールは滅多に見たことが無かった。
こんな目をする時の彼女…そうそれは決まってアグリアスが人を斬り殺し、血の海に佇む時だった。
倒れ付すラムザをこの異様な眼で見下ろす、返り血に染まったアグリアスという不吉な光景が脳裏に去来する。
「…あ、あなたまさか変な事考えてるんじゃないでしょうね…!」
他を威圧してやまない今のアグリアスと対峙してなお問いかけるメリアドールは、幾多の死線をくぐり抜けてきた闘士だけのことはあった。
「…心配するな。終わらせるだけだ」
抑揚の無い乾いた声で短く言い放つと、アグリアスは再び歩みだす。
「(お、終わらせる…?)」
釈然としない物言いに戸惑いながらも、立ち去るアグリアスを見取って慌てて最後の助言を贈った。
「と、とにかくしっかりやりなさいよ!あなたが本気を出せば
 ラムザなんて敵じゃないんだから!」


残る一試合、宴もたけなわという時分で会場は盛り上がりの一途を辿る。
ラムザは木剣を握って未だ現れぬ対戦相手に思いを馳せる。
その名も知れた剣豪アグリアス、そして浅からぬ因縁がある人間。
果たして己に勝算はあるのかと自問し、この宿命めいたくじ結果に感じ入る。
満を持した観衆の前に影のように現れたアグリアスが一瞬にして皆を黙らせたのは…
その手に携えた冷たくも禍々しく光る凶刃故か、白刃に勝るとも劣らない鋭い眼光故か。
緩みきった空気がたちまち温度を下げ、異常な密度の緊張に氷結していく。


「だ、だめです!原則として本物の武器は使用禁止です!」
しばし呆然としていた審判のアリシアが慌ててアグリアスに詰め寄るが、彼女の眼中にアリシアは映らない。
「黙っていろ」
一切の反論を許さない威厳さえ漂わせる語気に、アリシアはすくんで動くことさえ出来ない。
ラムザ。これは正戦士の座を賭けた勝負…だったな?」
見たことのないアグリアスの鬼気迫る目に気圧されながらも、ラムザは肯定の意味を込めて首を振った。
「よし。ならばこうしよう。この勝負に私からの試験の意も込めよう。
 私からの最後の課題だ。
 真剣を以て私と立合い、そして勝って見せること。
 剣の師としてお前に命ずる。真剣で私と戦え」


ラムザアグリアスに剣の指南を受けていた。ラムザ自身がそう彼女に志願したのだ。
軽捷にして流麗、いかなる屈強な猛者を相手取ろうと、己に触れさせる事さえなく悉く斬って捨てる。
稚拙な我流の剣しか知らなかった当時の彼にとって、アグリアスの振るう剣はこの上なく力強く、そして美しく感じられた。
弟子入りした後は幾度と無く難題を課せられ、木剣で叩き伏せられる日々が続いた。
彼女は手加減というものをまるで知らず、ラムザアグリアスとの乱捕りで勝ち得た事などただの一度すらなかった。


相変わらずアグリアスは表情の一切を変えず、ただ針のように突き刺さる眼差しを向けてくるばかりである。
手には女性が扱うには規格外ともいえるほどの巨大な剣。その鈍い光が肉食獣の牙を思わせる。
まるで抜身の刃物そのもののような、その場の者を緊張させずにはおかない危うさが彼女に纏わりついていた。
このアグリアスを前に、真剣を以て戦う。その意味を考える。
一切の攻めは届かず、ただ打ち据えられるのみ。過日の乱捕り稽古の光景がありありと蘇る。
その手の内の剛剣で一刀の下に斬り捨てられるやもという冷え冷えとした不安が胸を凍てつかせた。
───しかし。だからといって逃げるわけにはいかなかった。
この決闘は、曲がりなりにも正戦士の座を賭けた正式な勝負。
加えて師であるアグリアスの最後の課題となれば、受けざるを得ない。
幾度地に這い蹲ろうが、幾度その身に木剣の打擲を叩き込まれようが、
ラムザアグリアスの課した試練をこれまで全てこなしてきたのだ。ここで降りてはいけない。


「…誰か、僕の剣を持ってきてください」
重苦しい静寂が場を支配するさなか、ラムザの毅然とした声が響き渡る。
「た、隊長!」
アリシアが堪らず止めにかかるが、ラムザとてこの対決以外に心を割く余裕などない。
「お互いが同意の上なら…別に構わないでしょう」
「うっ…ううう〜〜〜…け、怪我しても知りませんよ…!
 し、真剣の使用を認めます!」
渋々了承したアリシアの判定に、沈黙は大歓声に破られる。
歓喜と声援に色めき立つ周囲をよそに、当の二人の間には言葉一つなく、視線が交錯するばかりである。
声をかければすぐに届く距離にお互いがいるというのに、決して踏み越えることができない隔たった境界の先に彼女はいた。
まるで此岸と彼岸に互いの身を置いているかのような、絶望的な距離を感じていた。
ラムザの眼前で剣を携え、その双眸に常軌を逸した何かを灯らせるアグリアスは…彼が知っているどの彼女とも違う。
なぜこのような目を自分に向けるのか?彼には到底答えを出しえなかった。


ラムザアグリアス、師弟である二人が同様に剣を構えて対峙する。
女の双眸に滾るものは炎より熱く、手に随える得物は氷よりなお冴え冴えと冷たく光る。
アグリアスーーーっ、何考えてるのか知らないけど殺しちゃだめだからねーーーっ!」
遠くからのメリアドールの呼びかけも、まるで彼女の意中には響かなかった。
「…それでは…決闘、開始っ!」
掛け声と共にアグリアスが疾駆する。
1/2秒間に繰り出されたアグリアスの三連撃は凡夫からすれば太刀筋さえ視認できない速度である。
かつてない剣の速度と重みに驚愕しながらも、驟雨の如き刺突と斬撃にラムザは感情に捉われている暇さえ与えられない。
女の細腕から紡ぎだされるものとは信じがたい入神に域に達した剣術は、
その身のこなしは疾風が如く、その打擲は迅雷が如く猛々しい。
秒間数手に渡る虚実入り乱れた軽捷極まりない怒涛の剣撃を、ラムザはただ必死の形相で受け続けるばかりである。
一切の遊びの無い、神速の一撃を次々と叩き込むアグリアスは、依然としてその端麗な顔を歪める事も無い。
その身に刻み込んだ秘技絶技を繚乱させ、圧倒的優位を譲らぬままアグリアスの猛攻は続く。
絢爛と咲き誇る桜花の下、刹那の剣の激突であまたの火花が狂い咲く。


自分の弟子を手ずから死地に追い込みながら、アグリアスはその人形然とした顔を微塵も崩さない。
ただその透き通る碧眼にのみ、秘め隠した内なる激情を滲ませていた。
幾年月の修羅道の果て、彼女の心は固く閉ざされ、内なる心情を言葉にすることは叶わなくなった。
声にならない叫びを剣に託し、ただこうして打ち続ける他になかった。
こうしてラムザと剣を打ち合わせていると、今となっては遠い過日の情景が目に浮かぶ。


未来への期待と展望を胸に剣士を志した時は、人生で最も恵まれた時期だったのかもしれない。
白刃と血飛沫が交錯する、幾多の地獄をくぐり抜けるうちに、彼女はいつしか人間性を失っていた。
自分が斬り殺した人間の怨霊を幻視し、夢の中でさえそれらは追いすがってくる。
返り血に赤く染まった半身からは亡者の怨嗟の声がいつまでも耳に響いてくる。
己の業に悔い悩み、戦場の地獄絵図が脳裏に不意に蘇り、
ついには人を殺すことに前ほど抵抗を示さなくなった己自身さえもが恐怖の対象となった。
殺人術ばかりが上手くなって、心の方は擦り切れる一方だった。
外見ばかりを誰にも負けないように強くして、肝心の中身はからっぽになっていた。
感情は次第に抜け落ちていき、目からは生気が失われ、人とは必要最低限しか口を利かなくなっていった。
自分が陰で"殺人人形"などと呼ばれているのも知っていた。
怒りを感じるどころか、己の所業を顧みてなるほど相応しい二つ名だと感じる程度だった。
胸の内に巣食う狂気が少しずつ自分の正気を侵していくのを止めることもできず、
それでも頑なに最初の誓いだけは護り続けた。
即ち、己の悪行を悔い、殺した人間の冥福を祈るささやかな黙祷と、剣士を辞めないという意志の確認。
前者の理由は、いかに鬼畜外道に身を堕とそうと、それでも人でありたかったから。
人の人生を絶ちきったという現実に後悔さえ感じなくなるようになれば、それはもはや人ではない。
後者の理由は、いかに人殺しが心を引き裂こうが、それでも自分が自分でありたかったから。
幾多の人の命を奪い、心まで擲って今日まで繋いできた剣の道を終わらせることは、自分の存在意義が消失することだから。
斬り伏せた人の屍を前にする度にこの誓いを胸に思い出し、鋼の意志が刹那の間だけ乾いた瞳に去来した。

生ける人形も同然と化して久しい頃、ラムザが剣の指導を願い出てきた。
そんな面倒事は御免だったし、人と話すのも嫌気が差すので断ったが、彼の熱意に根負けした。
人に何かを教えるのはほとんどした事がなかったし、甘やかすつもりも毛頭なかったので酷い指導だったかもしれない。
しかし彼には情熱と向上心があった。今思えばあまりに無茶な私の課題もよく努力してこなしていった。
技量の上達に一喜一憂し、懸命に剣を振るう彼は輝いていた。
狂気の闇に怯えて暮らす今を遥かに遡る、少女時代の無垢な自分を眺めているようで心が和んだ。
笑いもしなければ冗談の一つも言わないこの私に、ラムザは笑顔で接してくれた。
その笑顔を見て、私の廃れきった灰色の心は少しずつ色を取り戻していくかのようだった。
彼と共に在ることが、彼と共に剣を振るうことが楽しかった。
伽藍の心に咲く一輪の花のように、その日々と思い出は暖かく、大切なものだった。
こんなからっぽの私でさえ、あるいは人の心を取り戻せるのではないか、と思えるような時間だったのだ。


ラムザアグリアスの剣が鍔迫り合いの形をとり、ほんの数瞬だけ両者の動きが硬直する。
これまでのアグリアスの猛攻を忘我無心の境地で受け続けていたラムザの意識が一瞬だけ引き戻された。
その時ラムザの目に映ったアグリアスの双眸には…先ほどの刺すように他を威圧する力が篭っていなかった。
それが何かは分からない、玄妙な何かが彼女の目を彩っていた。
再び剣と剣は主に振るわれて互いを喰い合う極限の応酬劇を紡ぎだす。


この戦いで、そんな暖かい日々を終わりにしようと思った。
勝者のみが正戦士の権利を獲得できる。つまり、私たち二人のいずれかはもう戦陣に身を投じることはない。
十分に私の技を受け継いだラムザになら、安心して後を託せた。
ラムザとの最初で最後の真剣勝負を始める前、全力をもって決闘に臨もうに誓った。
それが今まで全身全霊で私から剣を学んでくれた、彼への果たすべき最後の礼儀だと思ったから。
私が半生を賭けて積み上げてきた剣の技を、こうして受け続けているだけで彼は文句なく免許皆伝だった。
私にほんの一時でも暖かい時間を与えてくれた感謝と、優しい寂しさが静かに胸をつつんでいた。
最後に微笑んで???終わらせた。


始終優勢を譲らなかったアグリアスの剣が、何の前触れもなく宙を舞って地に突き刺さる光景は、
その場に居合わす名だたる戦士達を驚愕させてやまなかった。
技を繰り出したラムザ本人でさえ、拍子抜けするほどの呆気なさに呆然としている。
「ちょっ…何やってるのよ!そんな手にあなたが剣を弾かれるはずがないじゃない…!!」
メリアドールの叫びも、棒立ちのまま微動だにしないアグリアスには意味がなかった。
「私の負けだ」
無手のアグリアスがぽつりと呟いた。
誰よりも高く、誰よりも強く、そうあろうとしたアグリアスに初めて突きつけられる敗北という現実。
悔恨と憤怒の情に駆られているかと思いきや、彼女はあくまで平静で、いつも通りの無表情を保っていた。
ようやく我に返ったアリシアが声高らかに判定を告げる。
「勝者、ラムザっ!」
大歓声に包まれる中、今しがたの激闘の疲れなど微塵も窺わせない平然とした様子で剣を拾い、ラムザに向かって歩いてくる。
未だ事態を把握しきれず、混乱のていを隠せないラムザだが、その目に映る彼女の目は、かつてないほど穏やかなものだった。
楽しかった師弟関係は幕を閉じ、胸に溢れる感謝の意を伝えたいというのに、息が上がって言葉を発することすら叶わない。
歯噛みするラムザをよそに、まるで普段と変わらず凛然とした彼女は顔色一つ変わらない。
すれ違う瞬間、時間にして1秒にも満たない間に聞いた言葉は…果たして疲弊したラムザの幻聴だったのだろうか。
「ありがとう」
その声はあまりに優しく、柔らかく、かのアグリアスが口にしたとは思えないほど温もりに満ちたものだったのだから。


こうしてラムザ隊の長い一日…狂気と死傷者交差する5試合が終わった。
意気込んだ参加者10名のうち半数の5名が勝利に至らず敗北に呑み込まれ消えた…。
彼らの正戦士としての時代は閉じた。ここから先は補欠の一語。



その日の夜、ラムザアグリアスに呼び出された。
燦然と輝く満月が舞い散る桜の花々を煌々と照らす静かな夜だった。
舞う花の香気が芳しい、花明かりの桜の木の下で彼女は待っていた。
月映えに濡れそぼつ金の髪は艶やかで、白い服は月華を受けて光り輝いていた。
鎧を着込んでいる姿しか見たことのないラムザにとって、今の彼女の細い体躯は繊細な硝子の彫像のように映った。
月光を吸う碧眼はどこまでも透明で、それを覗くラムザの目を捉えて離さない。
冷然としたアグリアスしか知らないラムザにとって、眼前の女性はまるで別人かと思えるほどだった。
とめどなく降り継ぐ桃色の花弁を身に纏うアグリアスは、まるでこの世のものでない花の精か何かのように思わせた。
「卒業、おめでとう」
その美貌に浮かぶのは、一点の曇りもない満面の笑顔。
伽藍の胸の内で慈しんで育て上げた、華の笑顔だった。
その晴れやかな笑顔は全くの無垢で、年齢不相応な、穢れを知らない新雪の少女を思わせた。
今度こそ信じられないものを目にしたラムザは、ただ固まって眼前の奇跡に瞠目する以外にない。
「酒でも…飲まないか」
酒瓶を手に微笑するアグリアスに、ラムザはただ呆然として頷くばかりだった。
音もなく静かに散っていく桜花の下、冴える月夜に二人は言葉もなく酒を飲み交わしていた。
この日、この夜に言葉は無粋だった。語らずとも、共に切磋琢磨し剣に励んだ在りし日を追想し、心を繋ぐことができた。


こんなにも穏やかな目をしたアグリアスを、ラムザは想像だにしなかった。
追憶に浸り、月を見上げるアグリアスは、まるで夢見る少女のような面持ちだった。
鎧で身を固めることも、冷え切った目で死を織り成すこともない、
柔らかな眼差しで、雅趣薫る夜を楽しむ一人の幽雅な麗人だった。
微笑みをたずさえた、月映えに輝くアグリアスは一点の穢れもない人形姫のように尊く、気高く、美しかった。
一陣の風が吹き、盛大な花吹雪が夜空に舞う。
月に叢雲が縋りつくように、花を風が吹き散らすように、雅はとかく妨げられるもの。
アグリアスの心を和ませた、夢の日々も今夜をもって終わりを告げる。
美しくも儚く舞い散るこの桜も、花の命が費えようとしている最後の瀬戸際である。
楽しい日々は終わっても、胸の内にしまわれた暖かな思い出は消えることがない。
華の想いは、決して散る事無く心に咲き続けるのだ。
気がつけば心はかつてないほど安らぎに満ち、心の内の闇は洗い流されていくようだった。
この胸の内の温かな灯火を大切にしていけば、いつの日かまた心穏やかに暮らせる日を迎えられると、そんな気さえした。
頬を薄桃色に染め、心地良いほろ酔いの気分の中、アグリアスは滅多に口にしない心中を話していた。
「…生きて帰って…もう一度こうやってお前と桜の下で酒を飲みたいな…」
嘯風弄月の夜に、彼女のそんな言葉が吸い込まれて消えた。


                                        fin