氏作。Part20スレより。


 月の明るい、風のない夜だった。これという理由もなく、眠りから覚めた。
 あたりはまだ寝静まっている。こういう時は、体が眠り以外のものを欲しているのだ。アグリアス
そうっと、起こさないようにラヴィアン達をまたぎ越え、足元に気をつけながら馬車を降りた。
 マンダリア大平原の夜は静かだ。月光の地平に動くものもなく、ただ虫の音だけが、足首を洗う
渓流のように耳の底を流れる。半円形の陣を組んだ馬車の中央に小さなかまどがしつらえてあり、
おき火がちろちろと燃えている。かまどから少し離れたところに、夜番が立っている。ラムザだった。
 声をかけようとして、アグリアスは躊躇った。ちょうどそのとき雲が晴れ、月の光にラムザの横顔が
青白く浮かび上がったからだ。
 眉根を寄せ、口を一文字に引きむすんで、ラムザは何かを睨んでいた。草原の彼方に何がある
わけではない。ここでないどこか、ここにはない何かを、鋭く激しい、ほとんど憎悪さえこもった
まなざしで、ラムザはつよく睨みすえていた。
 ラムザのこんな表情を見るのは初めてだった。いくさに臨む時に見せる雄々しい顔でなく、聖石を
めぐる争いを憂える鬱々とした顔でなく、ふだんの柔和で物静かな顔でもない。それはアグリアス
知らぬラムザ・ベオルブの横顔だった。
 草を踏む足音にラムザは気付き、ふりむいてかるく剣を上げ会釈をする。そばまで行って見た顔は
もう厳しくはなく、逆にいくらか照れくさそうだ。
「今日は疲れているだろうに。誰かに代わってもらわなかったのか」
 昼間、オーボンヌ修道院でウィーグラフ・フォルズと戦った。楽な戦いではなかった。特に、ラムザ
とっては。剣とともにウィーグラフが叩きつけてくる、暗い毒のこもった真実に、懸命に抗弁していた
姿を覚えている。
「いいんです。一人で考えたいこともあったし」
 すこしの沈黙が流れた。ラムザは月光にうかぶ地平線を見つめたまま、視線を動かさずに問いを発した。
「貴族と平民は同じ人間だと、本当に思いますか?」


 おそろしいほど抑揚のない声だった。さっきよりも長い沈黙の後、アグリアスは答えた。
「彼らとて我々と同じく、喜びも悲しみもする。傷つけば赤い血を流す。我々と変わることはない。
そう言ったのはお前だろう」
「血が赤いだけなら、犬や豚だってそうだ。喜んだり悲しんだりもする」
「……一体どうしたのだ、ラムザ。お前がそんなことを言うとは」
 ほとんど狼狽して、アグリアスは問い返した。生粋の騎士気質であるアグリアスには、身分制度
天地万物と同じく神の与えたものであって、それを破壊するなどとは思いも寄らなかった。ラムザ
出会って、初めてそうした考え方を知ったのだ。そのラムザが、なぜ急にこんなことを言い出すのか。
ラムザアグリアスの方を見ようとしない。
「ずっと考えていたことです。人間に貴賤があるなんて証拠はどこにもない。それはそうだけれど、
人間が平等だという証明だってできやしない。証明できないことは反証もできない。……今日、僕、
きれい事を言っていたでしょう?」
 そこでラムザは、初めてアグリアスの方を向いた。瞳が暗い。ひどく暗かった。
 修道院での戦いで、ウィーグラフに投げかけたラムザの言葉は、彼が心の中に追い求める正義の
姿なのだと思っていた。いくらか理想論的な物言いだとは思ったが、それもラムザの志の高さを示す
ものだと受け止めた。「きれい事」などという汚らしい言葉で片づくものと思ったことはない。素直に
そう告げると、ラムザは苦笑した。
アグリアスさんは優しいですね」
 風が吹きはじめている。空の上では、もっと強く吹いているのだろう。いつのまにか流れてきた
雲が、月にかかってあたりを翳らせた。
 僕が正義を口にするのは、正義に自信がないからです。ラムザは黒い塊をのどから吐くように、
そう言った。


「誰も不幸にならない世界なんて、そんなものはあるわけがない。僕が目指す場所は、たぶん
決してたどり着けない所です。それでも、目指し続けることに意味があるんだと信じて歩いているけれど。
時々、自信がなくなる。意味なんか本当はないんじゃないか、僕はただ甘ったれたガキのたわ言に
皆を付き合わせているだけなんじゃないかってね。……だから僕はウィーグラフのような男に会うと、
何か言わずにはいられない。黙っていたら消えてしまいそうだから、自分の信念を大きな声で
怒鳴らずにいられない。『現実はもっと厳しいものなのだ』だって? そんなこと、嫌というほど
知っている。僕はミルウーダもティータも救えなかったんだ。くそっ」
 いつしかまた、あの何者とも知れぬ彼方へ向ける憎悪のまなざしに、ラムザはなっていた。言葉もなく
その横顔を見つめながら、アグリアスは理解した。彼は甘やかな理想を追い求めたりしているのでは
ない。むしろ、彼の眼差しはウィーグラフやディリータのような者達よりもはるかに醒めている。英雄と
呼ばれ、梟雄と呼ばれる者達が、その信念の最初の一歩を踏み出すためにあえて目をつむり、
いくらかの苦い笑いをもってやり過ごした泥の沼へ、彼は頭から突っ込み、そしてその中で大真面目に
剣を振るい続けているのだ。
 毎日何百もの人間がごみのように死んでいくこの戦争の中で。この若者は、その最初に出会った
たったひとつの死から、今も目を背けられずにいるのだ。
「お前は真面目で、不器用なのだな」
「……よりによってあなたに、そんなことを言われるとは思わなかった」
 失礼なことを言うので、剣の柄でラムザの後頭部をかるく小突いてやった。いてっ、とラムザが笑う。
「お前の正義は、お前が自分で思っているほどやわなものではない」
「そうだといいんですが」
「なあ、ラムザ?」なおも不安げなラムザに、アグリアスは腰へ手を当ててみせる。聞き分けのない
弟をさとすようにやさしく、力強く微笑んで、
「我々はたった十六人の小部隊だ。たった十六人で南天騎士団、北天騎士団、教会まで敵に回して、
今まで一人の戦死者も出していない。物資も足りている、士気も高い。お前は間違いなく名将だよ」


 雲が流れて、半円の月がしらじらと姿を現した。降りそそぐ青白い光を受けて、アグリアスの髪が
プラチナの淡い輝きをはなつ。
「もっと自信を持て。お前は天騎士バルバネスの子だ。それでも足りぬというなら、このアグリアス
オークスが見込んだ男だ。私の目まで頼りないというつもりか?」
「……はは。確かにそうだ。失礼しました」
 しばらく間をおいたあと、ラムザは小さく笑って、頭をかいた。
「弱音を吐いてしまいましたね」
「たまにはいい。夜に一人で考え事などすると、どんどん悪い方へ思い詰めていくこともあるから、
気をつけろ。お前はそういう類だぞ、きっと」


 夜番を代わってやろうか、とアグリアスは言ったが、それは丁重に断った。ぼちぼち眠気が
戻ってきたのだろう、小さくあくびをしながら馬車に戻っていくアグリアスの背中を見送る。
 月光に照らされたアグリアスの姿は、まるで燐光をまとった女神のようだった。すぐに言葉を
返さなかったのは、見とれてしまったからだ。
 思えば、節目節目でいつも、あの人の存在と言葉に支えられてきたようだ。自分が捨てた……
否、逃げ出した貴族という生き方を、あの人は見事にやり遂げている。それゆえに、この上なく
頼もしいこともあり、また、ひどく危うく見えることもある。
「なあ、家畜に神はいないかい? ……だとしたら、いなくてもけっこう、生きていけるものだよな」
 煌々と夜空にかかる月を見上げ、今はもういない僚友へ、ラムザはふと、つぶやいてみた。



End