氏作。Part18スレより。



 ツィゴリス特別女子収容所。その名を聞いて震え上がらない者はない。
 どこまでも鬱々と広がる有毒湿地帯のただ中に立つ、分厚い壁に囲まれたこの無愛想な
建物は、一名を最終監獄という。その門をくぐった女が、生きてふたたび出てくることはない。
終身刑かそれ以上の刑を科された者、それもとくに念を入れて、社会から抹殺する必要が
あると判断された者だけがここに送られる。
 囚人は、むろん全員女。看守も大部分女だが、いくらか男もいる。看守による囚人の虐待、
暴行、囚人同士の喧嘩、そんなものはこの塀の中では日常に過ぎない。殺人でさえ、黙認
されることの方が多い。獅子戦争が始まって以来毎日、刑を執行される人数よりも、送り
込まれてくる人数の方が多いが、それでも囚人があふれて困ったことはない。


 その女は、収容所にやってきた当初から異質だった。
 まず、美しかった。女しかいない獄中にあって、美貌はむしろ短所である。妬みや苛立ちの
的となることはあっても、甘やかしてくれる男はいない。だが、そんな下衆な感情などは
跳ね返してしまうほどに、女のまとう空気は気高かった。
 美しく、気高い。それだけの女なら、この収容所にはいくらでも入ってくる。本物の凶悪犯の
ほかに、政争の結果として社会から抹殺された貴婦人というのも、ここの収監者の少なからぬ
部分を占めるからだ。だがそれらの女は、身に付いた高貴の性ゆえに苛酷な牢暮らしに耐え
られず、弱って死ぬか、さもなくば気高さなどかなぐり捨てて、平民や奴隷と変わらぬ性根を
むき出しにするかのどちらかであった。
 その女はどちらでもなかった。ただ毅然としてそこにおり、食うものは食い、奪い合うものは
奪い合っても、なおその気高さを失わなかった。あまり喋らないが、口を開けばその言葉には
いつも確かな説得力と、凛然たる威圧感があった。誰も女には逆らえなかったが、女は別段
誰に何を命ずるでもなく、雑居房の片隅にしずかに座り、小さな窓から空を眺めていた。
 女は、アグリアスと名乗った。アグリアスが入房してちょうど十日目に、事件は起こった。




「オラ、看守! このメシぁ何だ、豚のエサかァ!!」
 丸太のようなふとい足で鉄格子を蹴りつけているのは、「片目のマルゲ」という女囚だ。
ミノタウロスと人間の合いの子かと思われるような巨体に、名の通り片方の目が焼けただれて
潰れている。ロマンダ界隈を荒らし回った盗賊団の女首領で、体中に銃創があるのをいつも
自慢話の種にしている、この房一番の暴れ者である。
「文句がある奴は死んじまいな! 貴様等ぁ豚以下じゃねえか、豚のエサならありがてえと思え」
 でっぷり肥えた中年の女看守が、負けずに罵り返す。せまい石畳の内に詰め込まれた十人
あまりの汚らしい女達が、一様に下卑た笑い声を立てた。ここではいさかいの内にも入らない、
日常の光景だ。鉄格子の端から、別の女囚が冷やかすように甲高い声をはり上げる。
「そんなら、王女様も豚のエサを食ってんのかよう」
 じろりと、看守が声のした方を睨んだ。右手に持った乗馬鞭をパンと高く鳴らして、その女囚の
鼻先へつきつける。
「王女だって、何だいそりゃ」
「しらばっくれても知ってんだよう。今南天にいるオヴェリア王女様は替え玉で、本物がここに
入ってんだろう」
 妙に得意げな顔で女囚が言う。看守は乗馬鞭をもうひとつパンと鳴らし、大声でゲラゲラ
笑い出した。
「いるもんかよ、バーカ! 西の塔に入ってんのは、こそどろさ。王妃様の御落胤つってチンピラを
集めて、一旗揚げようとしてしくじった、あばずれだよ。本物の王女様が、あんなそっ歯の
グレネイドみたいな面でたまるかい」
「それは本当か?」
 その時、いつものようにじっと房の隅にすわっていたアグリアスが、ふいに声を発した。
それはひどく静かで、鋭い声だったので、どんな罵言にも慣れっこになっている看守が、
一瞬言葉を失った。


「その王女とやらは偽物で、西の塔に入っているのだな」
 アグリアスがたたみかけるように問うた。「西の塔」という余計な一言を入れてしまったことに
気付いた看守の顔にみるみる血が上る。
「そ、だったらどうした、この豚! 貴様なんかの知ったことじゃないよ」
「それだけわかれば用はない。帰らせてもらう」
「はァ? 何を言ってン」
 最後まで言い終えないうちに、ばね仕掛けのように飛び上がったアグリアスが鉄格子を
こえて手を伸ばし、看守ののど首を捕まえた。
 それはあまりに素早く、当の看守でさえ何が起こったのかわかっていないようだった。
呆然とした顔に理解の色がさす前に、万力のようなアグリアスの指が看守の喉を潰し、
首の骨を砕いていた。
「ご……」
 嘔吐をこらえているような、奇妙にか弱い声をたてて、女看守は息絶えた。まだ喉をつかんだ
ままの手で、でっぷり肥えた体を軽々とささえて、もう片方の手でポケットをまさぐる。ほどなく、
アグリアスはじゃらじゃらと重たげに鳴る鍵束をつかみ出した。
「……おめえ、脱獄するつもりなのかよう」
 さきほど、王女の話を持ち出した女囚が、おびえたような声で言った。アグリアス
振り向きもせず、鍵をひとつひとつ鍵穴にあてがって試しながら、こともなげに答えた。
「つもりではない、脱獄する。ついでに、ここに投獄されている思想犯達を解放する」
 いじけた、弱々しい笑いが、女囚達の間に起こった。
 言うまでもなく、脱獄は収容所内において最も重い罪の一つである。捕まって刑罰を
受け、五体と心を満足にたもってもとの獄舎に戻ってきた者はいない。そして、捕まらずに
逃げ切った者も、この収容所ができて以来一人としていなかった。
「あ、あたしは行かないよ。脱獄の共犯なんて、ごめんだからね」
「別に来なくともよい。お前はどう見ても思想犯という顔ではない」
 鍵の一つが合い、耳障りな音を立てて大きな錠前が石畳に落ちた。アグリアスは鉄格子を
無造作に押し開け、廊下へ出しなに振り返って、
「覇気のない者は残るがいい。もっとも、貴様等のような社会の屑に覇気がなかったら何が
残るのか知らぬがな」
 りんと通る声で、言った。


 間髪を入れず、ぬうと立ち上がった者がある。
「もちろん、アタシゃあ行くぜ」
 「片目のマルゲ」だった。マルゲは節くれだった拳をアグリアスに突きつけ、半分焼けただれた
顔をゆがませて、にたりと笑った。
 続いて壁際から、垢じみた中年女がのそのそと這い出てきた。
「面白そうじゃないの。わたいも行くよ」
 もう十年もここに入っている、グローリアという名の女詐欺師だ。この収容所で十年、生き延びて
きた経験と知恵、立ち回りの狡さは認めぬ者がない。グローリアが乗ったということは、この
脱獄には勝算があるのだ。そう考えて、さらに何人かの女囚が立ち上がったが、最後まで
立たぬ者も何人かはいた。その連中には、もうアグリアスもマルゲも目を向けない。
「では、急ごう。すぐ鎮圧隊が来る」
 アグリアスの号令一下、女達がぱっと廊下へ散った。

 ツィゴリス特別女子収容所には百四十四の雑居房と八十三の独房、十一の特別房があり、
雑居房は四つずつ四階、九つの棟に分けられている。すべての棟・すべての階は当然、常に
監視されており、囚人に不穏な動きがあれば、即座に鎮圧隊が派遣されるようになっている。
 隣の房を開けようと鍵を選んでいた女囚のこめかみに、にぶい音を立てて太い矢が突き立った。
声もたてずにその女囚は倒れ、咄嗟に伏せたアグリアス達の頭上に、雨あられと矢が降り注ぐ。
廊下の突き当たり、階段に通じる鉄扉の向こうに看守が二人、ボウガンを構えていた。
 底辺の罪人が放り込まれるこの場所で、脱獄を企てた者に人権などはない。警告も、恫喝さえ
なく無言で次から次へ撃ち込まれる矢を体中に受けて、試射用の巻藁さながらとなった女囚が
また一人倒れる。早くも浮き足だった女達を叱咤し、かき分けて、マルゲが素早く房へもどり、
ありったけの毛布をかき集めて、丸めて束ねて即席の盾をこしらえた。アグリアスがそれを
横目で見て頷く。
「それを押し立てて前へ出ろ。私も行く」
「扉までは保たんぜ」
「5ヤードまで近づけば私に勝機がある」


 看守の死体から奪った鞭を腰にさし、剣を片手にして、アグリアスがゆっくり身を起こす体勢に
なる。マルゲは手のひらに唾を吐くと、毛布の柱を体の正面に抱え、勢いをつけて廊下へ飛び出した。
「うおおおおッ!!」
 無数の矢がマルゲめがけて放たれ、たちまち毛布が針山のようになる。マルゲの巨躯は
毛布の陰に入りきらず、何本かが肩や手を貫いたが、それでも突進は止めない。鉄扉まで
あと数ヤードという所まで迫り、焦った弓兵が戸口から退いて扉を閉めようとした時、巨躯の
陰からアグリアスがふわりと飛び上がった。
「命脈は無常にして、惜しむるべからず……ッ!!」
 瞬間、閃光がアグリアスの振り下ろした剣と二人の弓兵をつなぐ。金色の髪が舞い上がり、
舞い降りても、弓兵達はぴくりとも動かなかった。その手から素早くボウガンを取り上げ、
アグリアスは肩から先をほとんど血だるまにしたマルゲへ向き直る。
「貴殿のおかげで楽に突破できた。礼を言う」
 灰色の囚人服がおびただしい血で茶色に染まってしまった腕に手をかざし、二言三言
何事か唱えると、マルゲの傷の痛みが嘘のように引いた。袖を引きちぎり、傷だらけの
太い腕をむき出しにする。そこにある傷はすべて古傷ばかりで、今負った矢傷はきれいに
塞がっていた。なかば呆然と、マルゲは目の前の美しい女を見すえた。
「白魔法まで使えるんか。さっきの妙な剣術といい、アンタ只者じゃねえな」
「只者はこんな所に入れられたりすまいさ」
 ボウガンの調整を確かめ、落ち着いた所作でまだ止まったままの二人の弓兵の眉間へ
一発ずつ撃ち込んでから、アグリアスは振り返って微笑んだ。獣じみた不敵な笑みを、
マルゲも返す。
「アタシはマルゲ。雷霆団のマルゲだ。アンタの名前は?」
アグリアスオークス。王女殿下の騎士にして、教会に弓引く異端者だ」
 廊下に並ぶ残り三つの房が解放され、女囚達がわっと飛び出してくる。喚声の中、
二丁のボウガンをアグリアスはマルゲとグローリアに、それぞれ放ってよこした。




「おい、非常呼集がかかってるぜ。脱獄だってよ」
「面倒くせえ。おいらはここで、仔猫ちゃんと遊んでる方がいいや」
 伸びほうだいの髭ををぼりぼりと掻きむしり、その看守は脂ぎった笑みを浮かべて黄色い
歯を見せた。
 蒸し暑い尋問室の中に、男の体臭がこもっている。声をかけた方も、かけられた方の
看守も男だ。酒に濁った眼がどろりと見すえる先には、一人の少女が吊り下げられている。
 歳のころは15か、16といったところだろう。華奢な両腕に大きな鉄の手枷がはめられ、
枷から伸びる鎖は壁に埋め込まれている。手枷のままかなり手荒に扱われたのだろう、
手首には痛々しい擦り傷が一面についていた。囚人服は原形をとどめぬほどに破り去られ、
露わになった褐色の肌のあちこちに幾条も鞭の痕が走っている。汗ばんだ腹部が、
獣脂ランプのにぶい明かりを照り返してゆるやかに起伏しているのが艶めかしい。
 男達の会話を聞いて、うなだれていた少女はわずかに顔を上げた。
「脱…獄……?」
「よけいな心配するなよ、仔猫ちゃん。お前は逃げたりできねえよ。ここでずうっと、おいら
達と遊ぶのさ」
 すかさず、髭の看守が鞭を鳴らす。少女がびくりと身をすくめたのを確認すると、とたんに
猫なで声を出して、少女のほそい肢体をなめずらんばかりに身をすりよせていった。看守の
目は少女のほそい腰や、こぶりな尻や、まだうすい胸元などに吸い付いていたので、深い
黒檀色のその瞳に、一つの光が灯ったことには気付かなかった。
 酒でむくんだ男の手が、少女の脇腹のあたりをねちっこく撫で回していた時、ふいに
褐色のしなやかな脚が持ち上がり、看守の首に絡みついた。男はちょっと驚き、たちまち
いやらしく相好を崩す。
「おう、仔猫ちゃんも気分が出てきたのかい。待ってな、今俺の………ごぎんっ」
 いやらしく笑ったまま、男の顔は首の上でほとんど逆さまになるまで回転し、そして
動かなくなった。異様な声にもう一人の看守が振り向いた時にはもう、壁には空の手枷が
つぶら下がっているだけで、同時に首筋に冷たい刃が押し当てられるのを感じ、それが
彼がこの世で感じた最後のものとなった。



アグリアス!」
 西三号棟と四号棟のあいだの中庭で、今しも衛兵の一人を斬り倒したアグリアスは、
聞き慣れた声に振り返って目を細めた。
「ラファ、来たか」
 聖剣技の余波で吹き飛んだ瓦礫の山を、器用に跳びこえてくる褐色の肌の少女―
―ラファは、ぼろきれのようになった囚人服の残りを巻きつけて胸や腰をおおっただけで、
露わな肌も、縦横に走る鞭のあざもそのままだった。アグリアスはその格好や傷跡を
ちらりと見て眉をひそめるでもなく、
「大事ないようだな」
「慣れてるもの。どんな様子?」
「私のいた三号棟は制圧して、両隣に食いついたところだ。思ったより肝の据わった
連中が多いので、はかどっている」
 言う間に、四号棟の裏手からマルゲと、その手下らしい数人の女囚が出てきた。マルゲは
肩と脇腹から血を流しているが、アグリアスを見つけるとふとい腕でガッツポーズを作ってみせる。
「四号棟はもうこっちのもんだ。そこのチビっこいのは誰だい?」
 「チビっこい」という形容にむくれたラファを、笑いながらアグリアスが紹介する。カミュジャの
名を聞いて、マルゲの顔色が少し変わった。
「ところでラファ、西の塔の特別房について何か知らないか? オヴェリア様の偽物が入って
いると聞いた」
「王妃の私生児だっていう女のことなら、一昨日見てきたわ。教わった人相とはぜんぜん別人よ」
「そうか」と、アグリアスは安堵の息をつく。「なら後はこの収容所を潰すだけだな」
「勇ましいね」
 カラカラと笑ったマルゲの視界が、かがやくばかりのオレンジ色に染まった。
「!?」



 三人の立っていた場所を中心に、突如として巨大な火柱がうずを巻いた。肉と土の灼ける
臭いが猛烈に沸き上がり、空気がふくらんで熱風となり中庭じゅうを吹き荒れる。そこかしこで
行われていた戦闘が、いっとき中断された。炎が消えた後には、服と髪の毛の先を焦がした
アグリアス、ラファ、全身に火ぶくれを作ったマルゲ、炎に焼かれた幾人もの女囚達、そして
同じ炎の中にいたにもかかわらず、火傷ひとつない衛兵達が残っていた。
「……ごほっ」
 煙の沁みる視界の端で、アグリアスは役目を終えて空気の中へ消えていく火炎色の巨人を
とらえた。そして、中庭を見下ろす小塔のてっぺんに見え隠れする、額に特徴的な角を
生やした人影も。
「お誂えだ。ラファ、頼むぞ」
「任せて」
 たっ、と軽やかに駆け出すラファ。それを見送って、アグリアスは剣を構えなおす。召喚術の
炎は味方を焼かない。ただ一人立ってピンピンしているアグリアスに、衛兵達がいっせいに
向かってきた。
「小賢しいッ!」
 まだ煙を上げる石畳を蹴って、そのただ中に突っ込む。剣を手にしたアグリアスにとって、
味方が少ないのはむしろ有利だ。あたり構わず聖剣技を繰り出し、噴き起こる爆光で地面ごと
剥ぎ取るようにして片端から叩きのめしていく。
 中庭の衛兵達は、ほとんどが男だ。長槍の切っ先が胸先をかすめ、焦げた囚人服のすそが
ちぎれ飛んだ。形良く引き締まった白い腹が露わになる。ひょう、と口笛を鳴らした男が、
次に斬り倒された。間髪を入れず、別の衛兵が後ろから組み付き、長い三つ編みを掴んで
押さえ込もうとする。掴まれたのをそのまま、頭を思いきり振り回して相手の体を浮かせ、
抱え上げてデスバレーボムの要領で頭から石畳へ叩きつけた。
「髪は女の命だぞ。無礼者め」



 さらりと言った時には、相手はもう首の骨が折れている。剣をつらねてアグリアスを囲む
男達の輪が、いくらか退いた。この収容所の基準からしてさえも並でない女を相手にして
いるのだと、ようやく判りかけてきたらしい。だが、もう遅かった。

 しばらくして、中庭を見下ろす見張り台の上に奇妙な形をした光が数回炸裂し、断末魔の
悲鳴がそれに続いた。その音で意識を取り戻したマルゲが痛む眼を開けると、すでに中庭に
立っている衛兵は一人もおらず、アグリアスが足早に歩き回って、傷を負った女囚達を魔法や
拳技で回復させていた。
「マルゲさん、白魔法が使えないんですって?」
 ふいに全身の痛みが薄らいで、振り向くとラファと名乗った少女がケアルをかけてくれていた。
武器王子飼いの恐るべき暗殺集団にいたという、南方人らしい少女。褐色の肌に、転々と
返り血が散っている。
「そこの、両腕に刺青した男がもうじきクリスタルになるから、取っておくといいわ」
「魔法は好かないんだ、アタシは」
「選り好みしてるうちは一流半どまりよ。あなたみたいな人の方がかえってかかりやすい術も
あるって、知ってる?」
 全身の火ぶくれがほぼ引いたのを確かめると、ラファはさっさと次の怪我人をさがして死体の
山の上を身軽に越えていった。その後ろ姿を見送って、マルゲは二の腕をさすりながら、
両腕に刺青をした男の命が尽きるのを、じっと待った。








 石畳を割らんばかりの荒々しさで、衛兵たちの鉄靴が耳障りな音を立てて駆け回っている。
中央棟司令室は、収容所設立以来の非常事態に騒然となっていた。
 ひっきりなしに伝令が走り、補充用の矢やポーションが運び出される。女たちの脚が
せわしなく行き過ぎる、その股の間をくぐるようにして、グローリアはひっそりと一人通廊の
影を選んで忍び歩いていた。
 アグリアスという女騎士は、予想どおりよくやっているようだ。もとより並の女ではないと
見たから乗ってみせたわけだが、それでも本当にこの刑務所を破れるなどとは期待して
いない。混乱に乗じて自分だけでもうまいこと逃げ出せればいい、そう考えるのが
グローリアという女だ。
 収容所内がこれ以上混乱すれば、かならずライオネルかザランダあたりへ増援を要請する
早馬が出る。瘴気の満ちた湿原のただ中に立つこの収容所から外界へ人が出て行くには、
それなりの装備と黒チョコボが必要だ。その腹へでもなんとかしてとりつくか、あわよくば
乗っ取ってしまえばいい。扉の開け放たれたままの司令室らしき部屋へ、グローリアは
するすると入り込んで荷箱の陰に身をひそめた。
「は、早馬を! ザランダへ使いを飛ばせっ」
 グローリアの読み通り、指揮官らしき女の慌てた声が叫ぶ。その声に答えて腰を浮かせた
上級看守の一人が、いきなりもんどりうって宙を舞った。
「馬鹿者が。こんな時に門を開ける奴がいるか」
 ドスのきいた声が、重油のように司令室の床を走って浮き足だった看守達をたちまちに
静めた。ガツリ、とブーツの鋲が石畳を噛む音と、きつい獣臭が司令室を満たす。足元に
銀色の毛並みも艶やかな一頭のクアールを寄り添わせ、白い肌にぴったりと張りついた
ような黒革の軍装に身を包み、現れたのはほとんど異常なほどに巨大な、一人の女であった。
 司令室の天井は高い。贅沢のためではなく、彼女の身長に合わせて作ったからだ。
この女の名を、ヨランダという。この収容所の所長であり、その権力以上に暴力によって、
看守達の上に君臨し続けている女である。
「すべての門を閉ざし、外濠の水に毒を流せ。騒ぎにまぎれて抜け出ようとする奴がいる
はずだ。一人も見逃すな。可能な限りむごたらしく殺せ」



 手にした太い革鞭が、石畳を打つ。たった今その鞭の一撃に吹っ飛ばされた看守を含め、
司令室のすべての人間がその音によって一斉に、弾かれたように動き出した。ヨランダは
鼻を鳴らして満足げにそれを見渡し、それから無造作に、革手袋をはめた手をすっと上げた。
グローリアは、全身の血が逆さまに流れたような気がした。
「手始めに、そこの荷箱の陰にいる奴だ」
 その指はまっすぐ、グローリアの隠れ潜む場所を指していた。たちまち無数の足音が四囲を
取り巻き、首筋を撫でる剣風とともに、グローリアは死を予感した。

「そういえば、グローリアはどこに行った? さっきから姿が見えんな」
「さあ、知らないね。こすい奴だから、どこかで上手くやってるんだろ」
 アグリアスの隣を歩くマルゲはさほど気にした風もなく、剣を腰だめに構え直した。すでに
西館一帯はほぼ陥落し、鬨の声をあげる女囚達の軍団はひとかたまりになって、いよいよ
正門に攻め入ろうとする勢いだ。
 勢いに乗っているとはいえ、しょせんは囚人の群れである。規律も連携もそうは望めない。
アグリアスが解放しようと思っている思想犯、政治犯達の中には、剣を触ったこともない
民間人や貴族なども多い。そういう連中を守りながら、しかも素早く進軍しなければならない。
 囚人達の中に、骸旅団の残党がいたのは僥倖だった。彼女らはまがりなりにも騎士団に
所属した経験があり、軍隊式の動き方を知っている。アグリアスが貴族だと知ると敵意を
むき出す者もいたが、結局は状況が優先された。腕に覚えのある連中を数人選び出し、
矩形の隊列を組んで、アグリアスとマルゲは先陣を切っている。しんがりはラファだ。
「雑魚はあらかた片づいたろう。次あたりは本命が出てくるぞ、気を抜くな」
 抜き身の剣を手に、四囲に油断なく目を配りつつ歩く女たちはみな程度の差こそあれ、
囚人服のあちこちを切り裂かれ、あるいは自ら破りすて、ほとんど半裸に等しい格好だ。
汗ばんだ肌に砂埃がこびりつき、沼地特有の油光りするようなねばついた陽光にてらてらと光る。



 西館の突端を回り込むと、中央館とのあいだを隔てる内塀に、毒沼の侵食を止めるのに
使う土嚢が大量に積み上げられて、バリケードが築かれていた。女囚の一人がフンと鼻を
鳴らして足をかけると、その山の上へ音もなく、ぬうっと姿を現した影がある。
 女達が瞬時に戦闘態勢をとる。三人、五人と現れた男達を見上げたアグリアスの眼が、
すっと細まった。
「ほう、色っぽい連中だぜ」
「殺しても構わないんだろ?」
「勿体ねえよ」
 下卑た物言いと耳障りな笑い声は、ここまで何度か斬り倒してきた男の看守共と同じだ。
だが、目つきが違う。手さばき、足さばきが違う。
「なるほど、本命というわけか」
 リーダーらしき男は、両手に二振りの剣を持っている。その男目がけて、最初にバリケード
足をかけた骸旅団の女モンクが一跳びにアグリアスの脇を駆け抜けた。
「待て、侮るな」
「うるさい! 貴族なんかに!」
 仕方なくアグリアスと、ほかの女囚達も後を追う。たちまちに、土嚢の上は乱戦になった。
「ぎゃあっ」
 最初に上がった悲鳴は、女の声だった。足元を切り払われた先ほどの女モンクが、逆さまに
なって土嚢の坂を転げ落ちる。
「バカ野郎! 後で楽しむんだ、手荒なことすんな」
 ニヤニヤ笑いながら怒鳴る敵の隊長に、アグリアスが斬りかかる。裂帛の気合いを込めた
斬撃は、二本の刃でやすやすと受け止められた。舌打ちをして跳びすさった足の下の土嚢が
くずれ、転びそうになるのを慌ててこらえる。
 土嚢は、わざと崩れやすく積んであるらしい。そこここで崩れ落ち、あるいは袋が破れ、足を
とられる女囚達は満足に戦えない。男達のほうは訓練してあるのか、身軽に飛び回って
こちらを翻弄する。地面に下りようとしても、巧みに回り込まれ、バリケードの上に追い上げ
られる。相手の陣地にうかつに踏み込んだのがやはりまずかった、と後悔しても今は遅い。



「くぅっ」
 きれいなブルネットの、骸旅団でナイトをやっていたという女が、するりと懐へ入り込んできた
手に胸をつかまれて声を上げた。剣を握る手がひるみ、隙のできたところを押さえ込まれ、
ぼろぼろの囚人服を剥ぎ取られる。
「この、助平野郎!」マルゲが棍棒を投げつけると、押さえていた男の頭に命中した。いそいで
立ち上がり、剣をひろって体をかくす陰陽士。そのまま後退した彼女は危地を脱したが、
かわりに素手になったマルゲが敵に囲まれた。
 取り囲む男達の顔に、一様に好色な笑みが浮かんでいる。斬り込み隊を構成する骸旅団の
女達には、容貌の美しい者が多い。そういう女だけが、捉えられても殺されなかったからだ。
反吐の出るようなその笑みを、すこしでも消してやろうと女達はがむしゃらに剣をふるうが、
彼らは本当に手練れだった。アグリアスの指揮と剣技をもってしても、なお互角の戦いしか
できない。
 もっとも、向こうももどかしいのは同じだった。追い込んでいるはずなのに、アグリアス
嵐のような剣先に、取り囲んだ輪がいつまでも縮められない。後方にはまだ、取り押さえるべき
女囚どもが大勢控えているのだ。
 何人目かに斬り結んだ男の剣先が、アグリアスのシャツの胸先をわずかに裂いた。それを
好機と見た隊長が目配せを送るや、
「それっ」
 合図とともに、数人の男達がいっせいにアグリアスへ斬りかかる。致命傷を与えるのが
目的ではない。巧みな防御をくぐり抜けた剣先は、アグリアスの着ている、もうだいぶ原形を
とどめなくなった囚人服の布地だけを狙って切り裂いた。
「!」
 灰色の布きれが幾条も風に舞い、砂塵によごれた、しかし本来の美しさを隠しようもない
白い肢体が、余さずあらわになる。
「ひゅうっ」
 男達の誰かが口笛を吹いた。それは賞賛であると同時に、アグリアスの羞恥心をいっそう
煽る戦略でもあった。美しい女ほど、見た目を気にするものだ。裸にしてしまえば戦うことなど
できまい。そう考えた男達は、必ずしも浅はかとはいえない。先ほどの女ナイトには、狙い
どおりの効果を上げたのだ。しかし、下心を露骨にのぞかせて一歩踏み出した男の目の前で、
裸身が跳ねた。


 絶叫が上がり、男達が凍り付いた。二本の剣……一本はアグリアスが元々持っていた
もの、もう一本は不用意に前に出た男が提げていたもの……が、彼らの隊長であった男の
両腕を、根元から断ち落としていた。アグリアスの両手は、しっかりとその剣を握っていた。
 剣を奪われた男の首が次に飛び、もう一人が喉を貫かれた。引き締まった尻の筋肉が
動いて、白い脚が別の一人の顎を強烈に蹴り上げる。豊かな乳房が揺れて、こまかな血の
しぶきを浴びる。アグリアスは二本しかない手を、胸や腰を隠すのに使ったりはしなかった。
 男達が凍り付いていたのはほんの一瞬だったが、その一瞬で充分だった。何よりも、
頭領が斃されたのが決定的であった。
「逃がすなッ」
 檄を飛ばすまでもなく、女達は勇み立っていた。総崩れになった男達は次々にバリケード
上に追いつめられて命を奪われ、時に服を剥いで股間を潰された。やがて、土嚢の上に
動いている男は一人としていなくなった。血と泥をぬぐって見上げたマルゲに、アグリアス
にやりと微笑んでみせる。
「やれやれ、すげえもんだ。本当に貴族様かい、あんた」
「無論だ。淑女たる者、夫となる男以外に肌は見せん。生きている男にはな」
 ひゅん、と風を切ってアグリアスの剣が飛び、死体の陰に潜んでボウガンを構えようと
していた男の眉間を断ち割った。






「そういえば貴公、骸旅団にいたのなら、ミルウーダ・フォルズという女を知っているか」
 先ほど裸にされた骸旅団のナイトは、名をシベールというらしい。彼女と一緒に死体の
中から体を隠せそうな布きれを物色する途中、ふとアグリアスは尋ねてみた。
「ミルウーダを知ってるの?」
 形のくっきりしたシベールの眉が、意外そうにひょいと上がる。「火の玉みたいな人だった。
彼女もいずれここへ来るかしらね」
「いや、来るまい。死んだそうだ」
 誰かのマントをむしり取り、南方の下着のような要領で腰へ巻きつける。別の布をさらし
代わりに胸に巻いて、一応の身じまいは完成した。
「よし、進軍! あと一息だ、頑張ろう!」
 号令をかけてさっさと歩き出したアグリアスを、シベールもいそいで追う。
「あんた、異端者でしょ? 貴族が、なんで異端なんかやってるの」
「教会の都合と、私の都合が合わなかっただけだ。貴族であろうとあるまいと、同じことだ」
「貴族じゃなかったら、教会と合わない都合なんて作ることもできないわ」
「なるほど」
 吐き捨てるシベールを、飄然と横目で見やりながら歩くアグリアス。女囚達の一団は
じきに、正門をのぞむ前庭に出た。
 門の向こうは娑婆である。囚人達から歓声が上がる。先頭を切って前庭に駆け込んだ
シベールの目の前に、突如として奇妙な物体が投げ出された。
 濡れた音を立てて石畳にぶつかったそれは、よく見るとまだかすかに動いているようにも
見えた。大きさはちょうど大型の背負い袋くらいで、どぶ泥のようなその色は、汚れた
囚人服と、吐瀉物と、赤黒い血の色とがまざったものだった。
 それは、変わり果てたグローリアの死体であった。


「……ッ!」
 シベールが悲鳴を上げた。マルゲが駆け寄ってグローリアを抱き起こし、脈をとろうとして
諦めた。アグリアスは動かず、前庭の鐘楼をじっと睨んでいた。
 大して広くもない前庭の中央に、収容所内でもっとも高い建物である鐘楼がそびえている。
入所してくる女囚達を威圧的に見下ろし、人生の終末を告げるその鐘の下、たった今
グローリアを投げ落とした人物が、悠然と下りてきた。
 巨大である。あまりに大きいので、周囲の物体のスケールが狂ったように見える。思わず
アグリアスは目をこすった。男にしても巨躯の部類に入るマルゲと比べて、なお頭一つ以上
大きい。足元に従えた銀色のクアールが、まるで子犬のようだ。
 脂汗をぬぐったマルゲが、しぼり出すように言った。
「収容所長の、ヨランダだ。化け物だよ、ありゃあ」
 ヨランダが、ゆっくりと手を上げた。とたん、前庭を囲む建物と内塀の上に、ばね仕掛けの
ように一斉に弓兵・魔法兵の列が出現する。アグリアス達は、完全に囲まれていた。
「まだ、これだけの兵がいたか…」
 牢を破って以来初めて、アグリアスの声が苦々しげな響きをおびた。最後の関門である
正門前広場が、包囲するに格好の場所であることは早くからわかっていた。そこまでに
どれだけ敵の人数を削げるかが勝負であり、そのためにわざと派手に立ち回って、できるだけ
戦力を吐き出させるようにしていたのだが。どうやら、相手の方がいくらか上手だったようだ。
「女囚ども!!」
 とどろくような大音声が、前庭を圧した。女達の何人かが、反射的に身をすくませる。
収容所長の恐るべき残酷さ、容赦のなさを知らぬ者はない。ゴールを目の前にして
殺気立っていた女囚達の集団が、一瞬で静まり返ってしまった。
「首謀者は誰だ。前に出るがいい」
 皆の視線がアグリアスに集まる。マルゲの目が「出るな」と言っていたが、アグリアス
迷わず一歩を踏み出した。
 鞭をいやらしく鳴らしながら、収容所長がゆっくりと近づいてくる。舐めるような、ほとんど
物理的な感触さえともなう強い視線がアグリアスの肌の上を這う。長身のアグリアスだが、
ヨランダと並ぶと大人と子供のようだ。アグリアスの頭は、ヨランダの胸にも届かない。



「グローリアを嬲り殺したな」
「何が悪いか」
 凛然と言葉を叩きつけたアグリアスに、傲然とヨランダは言い返す。
「貴様はよくやった。ここまで大規模な脱走は過去に例がない。しかし、ここまでだ。脱走者
どもはここで死ぬ」
「まだ終わってはいない。死ぬか死なぬか、やってみなくてはわからん」
 さも愉快そうに、嘲るようにヨランダは笑った。ひとしきり笑った後、腰の鞭をアグリアス
顎のあたりに突きつける。
「その度胸に免じて、チャンスをやろう。私と貴様と、一対一で決闘をする。貴様が勝てば、
そこの女囚どもを全員解放してやってもいい」
 ざわり、と女囚達が動いた。アグリアスは動かない。当惑と、猜疑と、期待とが入り交じった
視線が、アグリアスとヨランダに注がれる。
「お前が勝ったら、我々をどうする?」
「さて、どうするかな。外の濠に腐毒を流してある。貴様達全員をそこへ放り込んで、息が
絶えるまで見物してやるのもいいか」
 アグリアスは無言で一歩下がり、ヨランダから距離を置いた。気圧されたわけではない。
会話をする間合いから、斬り結ぶ間合いへ移動したのであり、それはヨランダの申し出を
了承したという意味だと、マルゲは察した。
アグリアス! 受けることないわ、罠よ!」
 シベールが叫ぶ。その口を、ラファとマルゲが同時にさえぎった。アグリアスが、目だけで
ちらりと振り向く。
「そうかもしれんな。だが、ほかに手もあるまい」
 それだけ言って向き直り、剣を両手で構えなおす。ヨランダが満足げに微笑み、鞭を振って
クアールを下がらせた。それからおもむろに重たげなマントを脱いで、背後へ放り投げる。
風をはらんでふわりと舞ったそれが、地面に落ちるのを合図に、決闘が始まった。





〈ばぎん〉
 女囚達が最初に耳にしたのは、破裂音とも金属音ともつかない、異様な音だった。
 凄まじい速度で襲いくる鞭の先端を、剣で切り払った音だと見て取れたのは独りラファのみ
である。ヨランダは恐るべき手練れであった。目にも止まらぬ速度で鞭を振るい、アグリアス
剣の間合いに寄せ付けない。ただの革鞭に見えるが芯に鋼線でも仕込まれているのか、
鉄の白刃と真っ向から打ち合って千切れる様子もない。時折狙いを外して地面を打つ、その
土のえぐれ方を見れば、恐るべき威力は感じ取れた。まともに受ければ一撃で皮は裂け、
肉が削げ、骨まで剥き出しになるだろう。
 アグリアスも負けてはいない。雨のように打ちかかる鞭を片端から弾きかえし、わずかな
隙をついては聖剣技を叩き込む。遠間を不得手としないのがホーリーナイトである。
 お互い、防具らしい防具は身につけていない。一撃でも決まれば、それが決定打になる。
鞭のうなりが肩をかすめ、巻いていた布が弾け飛べば、あらわになった白い胸元に赤い
血の筋が走る。黒革のレオタードが青い剣気に吹き飛ばされ、大人の頭ほどもある巨大な
乳房がぶるんとこぼれ出る。
 遠巻きに囲む女囚達は声援を送ることさえ忘れ、息をのんでこの激しい戦いを見守っていた。
「…くッ!」
 ついに、ヨランダの鞭の先端がアグリアスの剣先をとらえた。黒革がしなやかに刀身を
絡めとり、動きを止める。
 次の瞬間アグリアスは躊躇せず、猛然とヨランダめがけて突っ込んだ。途中、剣を思いきり
投げつける。ひるんだ隙を見逃さず、ヨランダの顔面に強烈な跳び蹴りが決まった。
「おのれ!!」
 ヨランダは鞭を投げ捨て、己の鼻柱に食い込んだアグリアスの足をつかむと、へし折らん
ばかりの勢いで地面に叩きつける。したたか背中を打ち付けて一瞬、息の止まったアグリアス
目がけ、体全体で押しつぶすようにしてヨランダがのしかかった。
 シベールが、ひきつった音をたてて息を吸い込んだ。つかみ合いでは体格の差、膂力の差が
ありすぎる。ヨランダの腕は、アグリアスの脚より太いのだ。ラファまでもが顔色を失い、
汗ばんだ拳を握りしめた。



 しかし、ベヒーモスのそれのような収容所長の腕を、アグリアスは両手で懸命にくいとめ、
力をそらして頭上へ投げ飛ばした。しなやかに着地したヨランダが再度つかみかかる時には、
アグリアスも起き上がって体勢を立て直している。突進してくるヨランダの膝頭を蹴りつけて、
体勢を崩す。利き腕をへし折ろうと組み付いたアグリアスの長い髪を、ヨランダがつかんで
力任せに引っ張った。
 掴み合い、殴り合い、地面を転がり回るうちに、お互いの衣服は千切れてどこかへ行っていた。
ほとんど全裸の女二人が、土埃の舞う前庭で取っ組みあっている、それは奇妙な光景だった。
女囚達も、兵の上の衛兵達も声一つ立てず、固唾をのんでその光景を見守っていた。
 ついにヨランダの両手が、アグリアスの右肩をとらえた。腱が伸び、関節が無理矢理外される
嫌な音がして、アグリアスが苦鳴を上げる。勝利を確信したヨランダが高笑いとともに、
アグリアスの喉笛へ巨大な手を伸ばす。間一髪、残った左腕でその手をかわしたアグリアスは、
飛び上がって両脚でヨランダの頸にとりついた。
 首四の字の形にして、左手で右足首を掴み、腿とすねとで力の限り頸動脈を締め上げる。
ヨランダの両腕がアグリアスの脚をつかみ、めちゃめちゃに殴りつけてくるが、頸に巻き付けた
脚は決して離さない。
「げ……びゅっ……」
 ヨランダの声が奇妙な、人間離れのした音色を帯びはじめた。声帯が潰れかけているのだ。
顔面が鬱血し、どす黒い色に変わる。アグリアスの脚をつかむ腕の力が、徐々に弱まっていく。
 ふいに、片手が離れた。力つきたのかと思ったが、違う。空中に伸ばされた指が弱々しく、
パチンと乾いた音を鳴らす。と、それまで鐘楼のそばで眠ったように動かなかったクアールが
起き上がり、猛然とアグリアスめがけて飛びかかった。
「あっ!!」
 不意をつかれて、さすがのアグリアスも体勢を崩す。ヨランダは最後の力を振りしぼって
それを振り落とすと、潰れた喉で力一杯に叫んだ。
「ごろッ…殺せ……橋を落と…射殺せ…!」



 銀色のクアールの犬歯は並外れて長く、人を簡単に噛み殺せるようにヤスリで鋭く
研がれていた。組み伏せられたアグリアスは、今にも喉笛に喰いつかんとする真っ赤な
口の中に腕を突っ込み、長い犬歯を力まかせに折り取った。悲鳴を上げて飛びのくクアールには
構わず、ヨランダに躍りかかり、手の中の犬歯を喉に突き立てた。
「ぎぇッ!!」
 奇妙な、声ともつかぬ声が、ふとい喉からこぼれた。
 その声を最後に、特別女子収容所長ヨランダは絶命し、巨大な体が、喉元にくらいついた
アグリアスごと、ゆっくりと仰向けに倒れた。
アグリアス!!」
 同時に、ラファとマルゲが弾かれたように飛びだした。次の瞬間に降ってくるであろう
矢の雨から、アグリアスを守るためだ。数瞬おくれてシベール達が檄を飛ばし、女囚がどっと
前庭にあふれ出てくる。ヨランダの遺言が執行されて橋が落ちる前に何としても正門を破り、
何人かでも脱出しなければならない。
 だが、いつまでたっても矢は飛んでこず、門の向こうで橋の落ちる音も聞こえなかった。
マルゲが塀の上を見上げると、衛兵達はこちらに背を向け、収容所の外を見て何やら騒然と
している。突然一画で爆炎が上がり、何人かの衛兵が火だるまになって前庭へ落ちてきた。
「やれやれ、やっと来たか」
 小山のようなヨランダの死体の上で、ふらふらとアグリアスが身を起こした。ラファがぱっと
笑顔になる。マルゲがひとり怪訝な顔をしているうちに、轟音とともに正門が破られた。
 正門の向こうには濠をわたる橋がしっかりと残っており、その向こう、瘴気のたちのぼる
湿原の彼方に、ねばつく陽光を受けてにぶく光るものがある。それが鎧であり、鎧を着た
一群の戦団であることを見て取れるまでに、さほど時間はかからなかった。



「……お仲間かい?」
「そうだ。塀の上に弓兵が並んだら攻めてくるよう言っておいた。正直、間に合わぬかと思ったがな」
「それじゃ、もしかして時間稼ぎのためにタイマンを受けたんか」
「無論だ。時間稼ぎで死ぬところだった」
 真っ赤に腫れた脚で地面を踏んで、アグリアスは痛そうに顔をしかめる。マルゲがいそいで
駆け寄って肩を貸す。ラファは脱臼した右肩に手をかざし、治癒の呪文を呟いた。マルゲも、
覚えたての白魔法をたどたどしく唱え始めてみる。それを可笑しげに見やりながら、
「貴公、これからどうする? 今更盗賊団でもあるまい、我らと一緒に来ないか」
「そうだねェ……いや、やめとこう。あそこにゃ、あんたみたいな化けモンが大勢いるんだろう? 
自分が大将になれないのは嫌いな性分でね」
 言ってマルゲはにやりと笑う。二人がかりの白魔法が効き、ほどなくアグリアスはふらつき
ながらも自力で立てるようになった。
「だがまあ、あんたは恩人だ。何かあったらいつでも力(リキ)を貸すよ、言っとくれ」
 アグリアスはしばし考え、それからふと自分の体を見下ろす。そして、思い出したように手で
胸元をかくし、
「そうだな。ではさしあたり、着替えを調達してくれ。淑女として、この格好はあんまりだ」
 元・雷霆団の頭領はゲラゲラ笑いながら、ヨランダが脱ぎ捨てたマントを取りにいった。



 ツィゴリス特別女子収容所は、このようにして消滅した。この時解放された女囚達の中には、
ふたたび毒婦として巷間を跋扈した者も多かった。しかし一方で、のちの英雄王の治世において、
賢臣として名を成した女性も、また少なからずいたという。





End