氏作。Part17スレより。



 ルザリア北部に広がるユーグォの森は、五十年戦争以来、死霊の徘徊する魔所として
知られている。猟師もめったに立ち入らず、近隣の農民が薪を取るために、時折おっかな
びっくり森の入口付近をうろつく程度で、街道を通る旅人も少ない。
 森の北側には急峻な岩場が盛り上がっており、太いユーグォの根とするどい岩の
からみあう間に小さな洞窟がいくつも口を開けて、一大の奇観を呈している。寒い夜などに、
それらの穴から時折白い蒸気が噴き上がり、あたりに硫黄の臭いのただようことがあるのが、
いつの頃からか死霊の吐く毒の煙であるとされ、ことさら人の寄りつかぬ一帯となっていた。


 その、白くもうもうとけむる岩場のただ中に、人影が一つ、横たわっている。毒の煙を
ものともせずに、岩へ背をもたせかけて心地よさげに目をほそめるその人物は、うつくしい
金色の髪が濡れて額へ貼りつくのをそっとかき上げてつぶやいた。
「はぁ…………いい湯だ」


「お風呂の準備ができましたー。手のあいてる人から入って下さーい」
 イヴァリース人は、たとえばロマンダ人やオルダリーア人と比べて清潔好きであるとされる。
ベルベニア山麓を筆頭に、国内にいくつかの温泉地を持ち、その影響で入浴という習慣が
比較的普及しているためだ。ただ、それも一部の金持ちや知識人の間でのことであり、
一般の都市住民や農民などはまだまだ、体を洗うのに大量の湯をつかうなどという贅沢な
ことはしない。我々の知るような風呂がイヴァリースに普及するのは、まだ数百年ものちの
ことである。
 が、しかし。東方出身の女傭兵・アスカの熱心な伝道によって温泉の魅力を教え込まれ、
すっかり病みつきになってしまった異端者一行が、ここにいた。
「男が先、女があとです。ガスがちょっと濃いめなので、ときどき風を吹かすのを忘れない
ように」
 クラウドの剣を探して初めてベルベニア山麓を訪れた際、彼女の熱心な勧めによって
一緒に温泉につかった女性陣数名が虜になってしまったのを皮切りに、この異国の習慣は
あれよあれよという間に人から人へ伝染していった。



 熱い鉱泉にゆっくり浸かって体を流すのは気持ちがいいのみならず、筋肉がほぐれて
疲労がとれる。傷の治りが早くなる。血行がよくなる。体が清潔になって衛生上もすこぶる
よい。戦略的にもおおいに効果があるというわけで、旅から旅の身の上を利して、街道から
はずれた人気のない山間などに湧湯を探し出しては、通るたびに一風呂つかっていくのが
習慣になった。今では隊の全員がちょっとした温泉通で、この湯は打ち身に効く、この湯は
神経痛にいいなどと効能書きも充実したイヴァリース全国温泉マップが、ラムザの文箱には
大事にしまわれている。
 ちなみにこうして発見、整備された秘湯のうちのいくつかはのちに「異端者の隠し湯」と
して後世に伝わっていくことになるのだが、それはまた別の物語である。
「ふー、気持ちよかった。アグリアス、お先に」
「うむ。……私もそろそろ行くかな」
 今回ラムザ達が立ち寄った、ユーグォの森の死霊の湯は、地図上にも大きく二重丸を
つけられた特上の秘湯の一つ。高い岩壁の陰に掘られた、泳げるほど広い湯船は澄んだ
湯をいっぱいにたたえ、刀傷、武具擦れ、捻挫によい。熱すぎず、ぬるすぎず、湧量きわめて
豊富で、戦塵によごれた連中が立て続けに入っても濁るということがない。何より、人に
見られる心配がまずない。毒の煙などというのはむろん迷信にすぎないが、この森に死霊が
うろついているのは事実だ。ラムザ達ほどの力がなければ、とてもこんな奥深くまで踏み
入れるものではなかった。


 そうして、いい具合にあったまった一行が、ほてった体を毛布にくるんで心地よい眠りに
落ちつつある頃。アグリアスはようやく旅装をほどき、月光に照らされた湯の中に、白い肢体を
しずめていた。
 彼女もご多分に漏れず、温泉は好きである。それもどちらかといえば、一人で入るのが
好きだ。メリアドール達のように大勢でにぎやかに楽しむのもいいが、こんなに月のきれいな
晩にはひっそりと一人、しずかに湯につかるのがいい。
 アスカにも、
「貴女は温泉の味わい方がわかってるわ」
 と、誉められたものだ。



「ふう……」
 ゆっくりと両手で湯をかいて、月灯りに波がたつのを眺める。右肩に痛みが走るのをがまん
して、リハビリのつもりで何度もそれをくり返す。
 一昨日、赤チョコボのチョコメテオを肩へまともに受けた。ケアルガとエスナを何度もかけて
もらってなお、肩から二の腕にかけて、見るも痛々しい赤黒い血痣が消えていない。ラムザ
何も言わないが、ルザリアからイグーロス城へ向かうのに、二日余計にかかる北回りのルートを
選んだのは、自分にここで湯治をさせてくれるためでもあったのではないかとアグリアス
思っている。感謝の念とともに、肩を湯にひたして揉むと、筋肉のしこりが湯の中へほぐれて
いくような気がした。


 痛みは、じきに引いた。時折湯気をちらす風が、斬りつけるように冷たい。アグリアス
ばしゃ、と湯で顔を洗っては、ゆったりと岩にもたれて月を眺めた。
 一人で湯につかる夜は、寒いほどいい。凍てつく厳寒の夜気を顔に感じつつ、あつい
湯の中でのびのびと手足をくつろげる快さは、ちょっと言い尽くしがたいものがある。
 思わず、とろとろと眠気をおぼえかけていたアグリアスは、ふいに近づいてくる人の気配を
感じ、眼差しを引きしめた。
 誰かが、足音を殺して岩場をのぼってくる。武装はしていないようだが、衣擦れの音からして、
革鎧を着ている。男だ。
 アグリアスは水音を立てないように半身を乗り出すと、服の上においた短剣をそっと引き
寄せた。アスカやラファなどの比較的寛容な女達ならいざ知らず、アグリアスの入浴を覗きに
来るような命知らずは今まで数えるほどもいなかったのだが、今夜はどうやらムスタディ
あたりが呑み過ぎでもしたものか。気配が最後の角を曲がったのを見すまして、
「何者かッ」
「わっ!?」
 するどい誰何の声とともに飛ばした短剣は湯気をまっすぐに切りさき、その先に揺れていた
金色のくせっ毛をかすめてそばの岩に跳ね返った。紙一重のところで短剣をかわしたその
くせっ毛の持ち主は、
「……ラムザ!?」
アグリアスさん!」



 小脇からすべり落ちた手桶が、コーンと乾いた音を立てて岩肌を転がる。凝然と立ちつくして
いるのはまさしくラムザ・ベオルブであった。アグリアスがさっとタオルで前を隠す。
「貴様、見損なったぞ! や、や、夜陰に乗じてこのような」
「え? ええ!? ちょっと待って、だって」
「いいからあっちを向け、馬鹿!」
 さらに木桶を投げつけられて、ようやくラムザは慌てて後ろを向いた。
「その、ごめんなさい、知らなかったんです。もう誰も入ってないと聞いたので、決して覗くつもり
なんかありませんでした」
 そのまま、闇に向かって弁明を始める。鎧も上着も脱いでシャツ一枚になったラムザの、
首筋が赤くなっているのが月明かりによく見えた。
「だったら何で、こそこそと足音を忍ばせて来た」
「別に忍び足できたわけじゃないです。これ」
 向こうをむいたまま、片足を上げて示す。履いているブーツのかかとに小さな羽根飾りが
ついていることと、立っている方の脚がわずかに地面から浮いていることに、アグリアス
気付いた。フェザーブーツだ。
「湯上がりに冷たい岩の上を歩いて帰るのがいやだったんで、履いてきたんです。足音が
しなかったのはこのせいでしょう」
 なるほど、ラムザらしい細やかな用心だと、アグリアスは納得する。怒気がゆるんだのを
背中で感じ取ったか、ラムザはひょいと肩をすくめ、
「すいませんでした。下の焚き火のとこにいるんで、上がったら教えて下さい」
「あ、待て」
 また岩場を下りていこうとする背中を、つい呼び止めてしまった。
 呼び止めて、そのまま黙っている。呼び止められた方も、止まりはしたものの振り返る
わけにいかず、変なところで棒立ちに立ち止まっている。居心地の悪い沈黙の中で、
アグリアスがひとつ咳払いをした。
「あー……うむ。また、ここまで登ってくるのも面倒だろう。その、あれだ。せっかくだから、
入っていけばいい」


「いいんですか!?」
 ラムザの頭のてっぺんの毛がぴょい、と跳ね上がった。驚いているのか喜んでいるのか
わからないが、声がはずんでいるから後者だろう。それでもまだ注意深く向こうを向いている
ラムザに、
「かまわん。……私と、お前の仲だろう」
 一度言ってみたいと前から思っていた台詞を、湯船に身を沈めながら照れたような、拗ねた
ような顔で、アグリアスは口にした。



 実際のところ、アグリアスラムザはそういう仲である。それも、もうだいぶ長いことになる。
 肌を合わせたのも一度や二度ではない。先ほどだって、ラムザだとあらかじめ知らされて
いれば、これほど狼狽はしなかっただろう。そして、知らされていなかったら狼狽してしまうと
いうところに、ぎごちなさの抜けないこの二人の付き合い方がよく表れていた。
 隅の岩棚で体を流したラムザが、波を立てないようアグリアスの隣にすべり込んでくる。
その頭を、アグリアスはじっと見つめた。
 最後に頭から湯をかぶったばかりなので、亜麻色をしたラムザの髪の毛はぺったりと濡れて
頭にはりついている。が、髪から少しずつ水が抜けていくのをしばらく見ていると、やがて
アグリアスの思ったとおり、てっぺんのくせ毛が最初にぴん、と雫をはねて反り返った。
 声を立てて笑ってしまい、ラムザ不本意そうな顔をしているのがおかしくて、また笑った。
「やっぱり、それがないとラムザという気がせんな」
「何ですか、そりゃ」
 憮然としながらも、ラムザもゆっくりと背中の岩に身をもたせかけ、仰向いて月を見上げる。
アグリアスも、ラムザの肩に触れないくらいの間をとったまま、そっとラムザと同じ月を眺めた。
「そういえば、もう誰もここに入っていないというのは誰に聞いた?」
「ラヴィアンですけど」
「……」
 事の発端がわかったような気がする。
 ラヴィアンとアリシアの二人はよく気のつく有能な部下だが、アグリアスラムザの仲を
やたらと面白がって後押ししてくるのが困りものだ。以前にも、川で水浴びをしているところへ、
たくみに誘導されたラムザがひょっこり現れて泡を食ったことがあった。



 そういうことが積み重なって、色恋沙汰にうといこの二人が今のような関係になれたの
だから、感謝こそすれ恨む筋合いではないと、部下達は主張している。それはそれとして、
後でまたとっくりと説教してやらなくてはなるまい。
 ラムザは黙っている。時折心地よさそうにうめく以外、物音もたてない。きっと、アグリアス
同じように静かに湯につかるのが好きなのだろう。隣に目を向けなければ、一人でいた時と
何も変わらない風景のはずだが、肌をつつむ湯の感触が、さっきまでと違っているような
気がした。
 気付けばラムザの視線を、胸元のあたりに感じる。
「どこを見ている」
「そりゃあ、もちろん」
「答えろという意味ではない、ばか」
 ばしゃ、とラムザの顔めがけて湯を跳ねた。苦笑いをして顔をぬぐった、ラムザの手に
剣だこがいくつもできている。
 月が、ゆっくりと闇の上を移動してゆく。黒いすすのような雲がかかって、月光をおおい隠した。
「もうじき、終わるのだろうな、これも」
 ふいに、アグリアスが言った。
 ベスラ要塞は落ち、ラーグ公、ゴルターナ公は斃れた。ディリータ南天騎士団を実質的に
束ね、今頃は戦後を睨んで、教会を相手にするための準備を始めているだろう。獅子戦争の
影にうごめく闇の者達との戦いも、獅子戦争そのものも、もう先がない。どちらに転ぶにせよ、
あと半月もすればけりが付いているだろう。
「終わったら、アグリアスさんはどうします?」
 ラムザがぼんやりとした声で、問い返してきた。アグリアスは少し考えて、
「家に戻れればいいのだがな。何しろ、今の私がどういう扱いになっているのかわからん。
もしかしたら異端者になったことが知れて、絶縁されているかもしれん」
「そうなったら?」
「そうなったら、難しいな。どうやってオヴェリア様のお側にお仕えしたものか。近衛騎士団には
顔見知りが多いから、もぐり込むこともそうそうできまいしな」
「ふむ……。じゃあ、それ僕も手伝いますよ」


「いいのか? 何だ急に」
「今まで、ずっと付き合ってもらってきましたからね。今度は僕が、あなたに付き合う番だ」
「……では、頼りにさせてもらうかな」
 今という時に、戦いの終わった後の話など、どれほどの意味もないということは、二人とも
よくわかっていた。ルカヴィ達との決戦の気配は日に日に高まる。目の前に迫る命懸けの
戦い、攫われたまま行方の知れぬアルマ、聖石の恐るべき力の行き着く先、それら以外の
ことに思いを馳せる余裕などあるはずがない。
 ただ今夜、ラムザと月を眺めるこの時だけは、夢物語でもいいから、その先のことを語り
合ってみたかった。すべてが終わった後も、二人一緒に歩んでいける人生があると、想像
したくなったのだ。
 ラムザは黙っている。このまま、いつまでもこうしていたい気分だったが、
「明日も早い、そろそろ、上がるとするか」
 ざぶりと波を立てて、アグリアスは湯船から身を起こした。横の岩に置いたタオルを取ろうと
手を伸ばしたとき、ちょうど月が雲間からすっかり姿を現した。
「ああ……綺麗だ」
 ラムザが急に大きな声を上げたので、アグリアスは驚いて動きを止めた。目をおおきく
見開いて、感極まったような顔でラムザがこちらを見上げている。恥ずかしいのでタオルを
当てようとすると、ラムザが押しとどめた。
「もう少し……そのままでいてくれませんか」
「?」



 煌々と降る月明かりを受けて、アグリアスの白い肌と金色の髪がかがやくばかりに夜闇の
中に浮かび上がり、湯滴が乳房や腰のゆたかな丸みをふちどって、きらめきながら落下
していく。あえかな湯けむりをまといつかせて立つ姿が神々しいほどに美しく、ラムザ
目を釘付けにしていることに、アグリアスは気付かない。ただその眼差しがあまり真剣なので、
乞われるままにしばらくじっとしていたが、やがて小さくくしゃみをした。
 川の水も凍てつく真冬の夜である。それでラムザも我に返って、あわててアグリアス
手をとって湯の中へ引き戻した。
「すみません、すみません」
「何なのだ、まったく」
 鳥肌の立ってしまった体を湯の中でさすって温めながら、
(風呂は一人限る、と思っていたが。どうも、考えを改めねばならんな……)
と、アグリアスは考える。
「何か、言いました?」
「……冷えてしまった分、お前に暖めてもらわなくてはな、と思ったのさ」
 赤くなったラムザの、湯の珠がのっかった鼻の頭に、くすくす笑いながら、アグリアス
小さくキスをした。




End