氏作。Part12スレより。



「起床ぉー!起床ぉー!」
朝を告げる声が寮内に響き渡る。アグリアスはほとんど反射的に目を覚ました。
ルザリアの士官学校。貴族の子弟からなる、エリート育成機関である。
「朝…」
寮の規則正しい生活リズムのおかげで目は覚めるものの、体がついていかない。
朝は苦手なのだ。あと三分だけ、ベッドに抱かれていよう。そう思った時。
「お姉さま、朝だよ!起きて!」
ルームメイトのレモンがカーテンをさあっ、とあけた。陽光の束が床に当たる。
蜂蜜色の髪。同じ色の瞳がクリッとした活発そうな少女だ。
アグリアスと同い年のハズだが、「お姉さま」と慕っている。
「…レモン、もうちょっと静かに…今、起きるから…」
小鳥のような声で連呼されるのは鼓膜にこたえる。アグリアスは緩慢な動作で
起き上がった。長い金髪がさや、と流れた。


「おはよう、アグリアス
「ああ…おはよう、ルーチェ」
もう着替え始めた、もう一人のルームメイトと挨拶を交わす。
性格を写したような、落ち着いたグレーの髪と目。クセなのか、いつも片目を閉じている。
時々左右を交代しているので、両方とも見えているようだが。
「そういえば、今日じゃない?新任の剣術師範が来るのって」
髪をいじりながら、ルーチェ。
「強いかな?楽しみでしょう、アグリアス?」
「お姉さまが一番強いもん!」
レモンが抱きついてくる。
―これがなけりゃ、いい子なんだけど…
心中苦笑して、アグリアスは立ち上がった。


「今日から赴任しました、ハインリッヒです。よろしく」
新任の剣術師範の声の柔らかさは、アグリアスには意外だった。
前任者が「お堅い軍人」の鑑だっただけに、柔和な印象は新鮮だ。
そう思っていると、目が合った。ハインリッヒが微笑する。
思わず目をそらす。一瞬、心臓が止まった気がした。
ハインリッヒはペアになって打ち合うよう指示した。皆のレベルを知りたいのだろう。
アグリアスはルーチェと打ち合った。
ルーチェもこの時ばかりは両目を開けていたが、すぐに防戦一方になった。
「そこっ!」
ガードをこじ開けて一撃しようとした時、視界にハインリッヒが入った。こちらを見ている。
―……!
一瞬、注意がそれた。灰色の髪の少女は素早かった。大きく後ろに跳び、距離をとる。
アグリアスは自分の動揺を無意識に無視した。体勢を立て直し、打ちかかった時。
「そこ、金髪の方。そう、君だ」
ハインリッヒに止められた。
「いい腕をしている。どうだい?僕と手合わせしてみないか?」
柔和な表情の挑戦を、アグリアスは不敵な笑みで受けた。


「え〜っ!?お姉さまが〜!?」
レモンの甲高い声が響く。寮の食堂。広い空間にテーブルが沢山並んでおり、隅には
ピアノが備え付けてある。
「初めてだよね、あんなにあっさり負けたのって」
鍵盤に指を踊らせて、ルーチェ。三人の他には誰もいない食堂に、軽やかなメロディ。
狂想曲の一つらしいが、アグリアスは音楽に疎い。
「…そうだな」
手の中で空のグラスをもてあそぶ。あんな負け方は初めてだ。
攻撃はことごとくいなされ、かすめすらしなかった。ハインリッヒが打ったのはただ一撃。
その一撃で、彼女の剣は床に乾いた音を立てたのだった。悔しかった。
己の未熟を思い知るのは辛い。それを教えた人に乙女めいたものを感じるのは、
いかにも少女らしい感性だ。
そして、彼女はまだ愛を知らない。


アグリアスがハインリッヒの所に足繁く通っているのは、寮の女生徒全員の知るところ
となった。知らぬは本人ばかりなり、とはよく言ったもので、アグリアスはバレていない
と信じていた。
「お姉さまが男なんかと〜!」
悔しそうにわめくレモンに、
「人の恋路を邪魔する奴は、ヒュドラに食われて死んじまえ♪」
ルーチェはピアノに合わせてリズミカルに言ってやった。
他の娘より少しだけ大人を知っている彼女は、うぶな友人をやさしく見守るつもり。
ぷうっと頬を膨らますレモンの顔が妙に可笑しい。
実際、「通う」と言っても剣の稽古を受けているだけで、色っぽいことは何もなかった。
本人にしてみれば真面目に腕を磨いているだけ。心のわずかなうねりが意識に上がる
ことはなかった。
その日は休日だった。アグリアスは一人道場に来ていた。
ハインリッヒに「特訓してやる」と言われ、休日返上で来たのだ。
入ると、すでにハインリッヒが待っていた。
「来たね。支度しなさい、すぐに始めよう」
「は、はいっ!」
上擦った声になった理由を彼女は考えなかった。
別室で着替える。刃引きの剣を取り、師範に向き合った。
最初は基本の確認。そして今までの復習。
上達したね、と言われるたび、アグリアスは嬉しくなる。
「ちょっと難しいことをやってみよう。僕のやる通りにやってごらん」
ハインリッヒの構えが変わる。アグリアスも倣うが、しっくりこない。
困惑していると、ハインリッヒが後ろに立ち、二人羽織のように生徒の手を取った。
見た目よりがっしりした体が背中全体で感じられた。
心臓の動きが速くなって、血液が顔に集まってきた。

「……ッ!先生…!?」
その呻きは羞恥より戸惑いの色が強い。
「静かに、オークス君」
ハインリッヒは生徒の耳元にささやくと、手を徐々に移動させた。
アグリアス象牙彫刻のような手から始まり、腕、肘、肩。鎖骨を下り、胸元へと。
もう一方の手は腰を軽く抱き、体を引き寄せる。
アグリアスは沈黙していた。
ハインリッヒを受け入れたのではない。紅の唇を震わすのは、羞恥よりもむしろ、怒り。
心より先に、体に触れられた。
アグリアスの潔癖は、それを拒否した。
肉体は俊敏に反応した。剣を持っていない方の腕が素早く動き、肘を撃ち込む。
「うぐっ!?」
ハインリッヒの手は、アグリアスの胸のふくらみに到達する前に弾き飛ばされた。
小鹿のような体が躍り、男は無様に膝をつく。少女は距離を取って男を見つめた。
「抵抗するのかい、オークス君」
男はギラつく瞳で少女を射抜いた。先ほどまでの紳士はどこかに消えていた。
「あ…」
怒りで火照った体が急激に冷えて行く。氷の蛇が背筋を這い回った。
「さあ、抵抗してみなさい。その方が……」
少女は初めて、男が怖いと感じた。理性よりもむしろ、生理で感じた恐怖だった。
「嫌…嫌っ!来るなっ!」
少女は夢中で剣を振った。型も何もない。
間合いは絶望的に遠かった。



昼下がりの中途半端な時間。午後の授業には間があるし、一眠りするには足りない。
楽しそうに鍵盤に指を走らせるルーチェを横目に、アグリアスは記憶を逆再生していた。
あの時。無我夢中で剣を振った時、確かに彼女は見た。
ハインリッヒの頭上に、青白い透明な水晶が降り注ぐのを。
あれは一体、何だったんだろう…。気がついた時、自室で息を弾ませている自分を発見した。
間もなくハインリッヒは前線に召集された。急な人事だった。
生徒一同見送ったとき、アグリアスを見る彼の目が済まなさそうに泳いでいたのは、
気のせいだろうか。
ピアノが上品に輪舞曲を歌い始めた。
「お姉さま、踊ろ」
レモンが腕を引っ張る。アグリアスは微笑して、思索をやめた。
友人達は何か誤解しているようだが、アグリアスは弁解するのをやめた。
テンポよいメロディに乗って、軽やかにステップ。


視界がセピア色に染まって―


ende