氏作。Part19スレより。


二人の出会いはアカデミーでの訓練だった。
アグリアスがまだ士官候補生の頃、ザルバッグは実戦訓練の非常勤教官としてアカデミーにやってきたのだった。
すでに北天騎士団の一部隊長を任されていたザルバッグは、将来自分の部下になるであろう若き士官候補生の中から、見所の有る者を側近にしようと考えていた。
しかし、実際に士官候補生達と剣を交えてみたが、これという人材はいなかった。
(やれやれ、やはりまだ早かったかな。)
「ザルバッグ様、手合わせ願います。」
そこに立っていたのはアグリアスだった。
(女?剣士コースにも女がいたのか。)
「よかろう、来い。女だからとて手加減はせぬぞ。」
「……、行きます。」
口ではああ言ったものの、ザルバッグは軽く手加減するつもりでいた。
女を馬鹿にするような気持ちはないが、やはり力の差というものは存在すると考えてたからだ。
しかし次の瞬間、その思いは打ち砕かれた。



アグリアスが一瞬のうちに間合いを詰め、ザルバッグの左手に回り込み切りかかる。
油断していたザルバッグはかわすことが出来ず、剣で受けるのが精一杯だった。
アグリアスから放たれた太刀は想像以上の衝撃があり、ザルバッグはよろけそうになるのを必死にこらえた。
剣を弾き返されたアグリアスはひるむことなく次の太刀を放つ。
態勢を立て直したザルバッグは、次々に放たれるアグリアスの太刀を受け流し続ける。
(こいつ…、できるっ。)
そのすさまじい剣技を目の当りにしたザルバッグは、もはや目の前にいる剣士が女だと言うことは忘れていた。
武人としての本能が目覚め、表情が変わった。
アグリアスはその冷徹な気配を感じ取り、小さな恐怖を覚えると後退し間合いを取り直した。


二人は剣を構えたまま微動だにしない。張り詰める空気は周りで見守る者達にも伝わり、静寂が辺りを包んだ。
「もう終わりか?ではこちらからいくぞ!」
ザルバッグの足下の小石が後ろに跳ね飛んだと同時に、甲高い金属音が辺りに響いた。
立場は逆転し、アグリアスは防戦を強いられる。
初めはその重たい太刀筋に戸惑ったものの、冷静さを取り戻すと反撃のチャンスを伺う。
こうして実戦さながらの攻防が繰り広げられた、やはり経験の差からややアグリアスが押される形である。
そして強い者と対峙したときの武人の習性とでも言うのだろうか、ザルバッグは徐々に殺気を身に纏い始める。
その殺気は剣に伝わり、衝撃はさらに強く重くなる。
一瞬アグリアスが態勢を崩す、ザルバッグはそれを見逃さず足払いを放つ。
アグリアスは後ろに倒れ込むと、そのまま間合いをとり態勢を立て直すためさらに後方へと転がろうとする。
しかしザルバッグはその動きを読んでいたのか、すでに回り込んでアグリアスの首に剣を当てる。
「…参りました。」
(しまった、やりすぎたか。)
ザルバッグはそのか細い声を耳にするとやっと我にかえり軽い後悔を覚えながら剣を収めた。


「ほ、本日の訓練はこれで終わりだ、解散しろ。」
ザルバッグの声に息を飲んで見守っていた他の士官候補生達も我にかえり、散会し寮へと足を向けた。
「立てるか?」
ザルバッグはスッと手をアグリアスに差し出した。
「大丈夫、手を借りなくとも立てます。」
アグリアスは差し出された手にそっぽを向き立ち上がった。
(やれやれ、嫌われてしまったかな。)
「では、失礼いたします。」
そっけなく挨拶をし、アグリアスは歩き出した。
ザルバッグはその姿を見送るとため息をついた。


その夜ザルバッグは夕食をとるため、アカデミーの食堂へと足を向けた。
食堂にはたくさんの士官候補生達がすでに食事をとっていた。
ふと目をやると、隅のほうでアグリアスが一人で食事をしているのに気づいた。
ザルバッグは膳を受け取るとアグリアスの元へと向かう。
「皆と一緒に食べないのか?」
アグリアスはザルバッグの声に顔を上げるが、すぐに元に直り食事を続けた。
「一人が好きなんです。」
「そうか?大勢で食べたほうが旨いものだぞ?」
本当は好きで一人でいるわけではなかった。
アグリアスはアカデミー同期の中ではトップクラスの成績であった。
女が首席というをよく思わないものも多く、妬みや僻みからアグリアスを避ける者も多かった。
アグリアスを尊敬し近寄ってくるものもいたのだが、その強気な性格からか心を開くことができずに結果的に孤立してしまったのである。
「私はそうは思いません、大勢での食事がお好みでしたら皆の元へ行かれてはいかがです?」
「ふふっ、そう尖るな、今夜はおまえと席を共にさせてもらおうかな。」
「……ご自由に。」
アグリアスは表情を崩さなかったが内心戸惑っていた。


「そなたは女だてらになかなかの腕を持っているな、余程良い師に恵まれたのではないか?」
「その女と言うのはやめていただけますか、私は剣に生きる戦士です。」
「これは失礼、そう言えば名前をまだ聞いていなかったが。」
アグリアスオークスです。剣は父に教わりました。」
「ほぅ、名のある方か?」
「いえ、ザルバッグ様がご存知ないのであればその程度という事です。」
そう言うとアグリアスは目を伏せた。
(触れてはいけない話か…。)
「ただ、戦い方に気になる点がある。」
「なんでしょうか?」
「そなたの戦い方は剣に頼りすぎる。」
「剣に頼りすぎる?」
「そうだ、攻撃も防御も剣のみで行なっていたぞ。」
「…しかし私は誇り高き…。」
「勘違いするな、別に卑劣な手段を使えと言っているわけではない。
 様々な手段を用いて柔軟な対処をし、戦いを有利に運べと言っているのだ。」
「…。」
「私が足払いをした時、卑怯だと思ったか?」
「いえ、絶妙なコンビネーションだと思いました。」
「こういう事は実戦で学んで行くものだが、そなたのように腕が立ち剣を過信していると初陣で命を落とす事もあるのだぞ。」
「ありがとうございます、肝に命じておきます。」


アグリアスは感嘆していた、流石ベオルブの名を継ぎし者、戦いに関しては超がつく程一流である。
そのような方に教えを説かれる事が本当にありがたく、感動すら覚えていた。
「時にアグリアス、…。」
「ハイ。」
「その若チョコボ手羽先食べないのか?」
「ハ?」
「食べないなら俺によこせ、好物なのだ。」
「……プッ。」
「何がおかしい!手羽先は旨いだろうが!」
「いえすみません、真面目な顔をして急にそんな事言うもんですから…クスクス。」
「失礼な奴だな。で…それ。」
「駄目です、私も好物ですから。」
「なんだ、そうか…。」
「そんなにがっかりしないでください。」
「まぁよい、おまえの笑顔が見られたしな。」
「え…。」
「それでは先に失礼する。」
「あ、はい…おやすみなさいませ。」
「ん、おやすみ。」
アグリアスは去っていくザルバッグの後ろ姿を見つめながら困惑していた。


なぜ私なんかと食事の席を共にしたのだろう、手羽先が目当てだったのだろうか、でも笑顔が見られたと…、そんなこと考えながら胸の辺りに感じる違和感にも気づく。
今までに味わったことのない不思議な感覚、少し苦しいような気もするが決して不快というわけではない。
(なんなんだ…。)
最後の楽しみにととっておいた若チョコボ手羽先に目を移す。
(手羽先、あげればよかったのか…?)
そんなことを考えつつ、手羽先に手を伸ばすとかぶりついた。
一方ザルバッグは、自室に戻るやいなや葡萄酒をグラスに注ぎ口を付けた。
まるで祝杯でもあげているかのようにご機嫌である。
「あいつなら俺の片腕にふさわしい。
 剣の腕は十分、精神面もさして問題はなさそうだ、おまけに笑顔が可愛いときてる。
 ん…笑顔は関係ないか?」
ザルバッグは自嘲気味に笑うとグラスの葡萄酒を飲み干した。
「それに、どこか俺に似ている気がする。」
そう呟くとベッドに横たわった。



ザルバッグはアカデミー時代を思い出していた。
成績は常にトップクラス、性格は無骨で人付き合いもいいほうではない。
確かにアグリアスと似ているが一つ違う点があった。
ザルバッグの周りには常に人が取り巻いていたのだ。
しかしザルバッグは常に孤独感を感じていた。
周りの人間がなぜ自分に近寄ってくるかが良くわかっていたからである。
名門ベオルブ家、その名が人をひきつけていた。
純粋に自分を慕って近寄ってきてくれた者もいたのかもしれない、しかし当時は全て打算で近寄ってくる人間だと思い込んでいた。
事実、そういう人間がほとんどであったのは確かなのだが。
親友と呼べる人間が自分にはいない、そう考えると少し寂しく思っていた。
アグリアスは私の申し出を受けてくれるだろうか?」
自らに問いかけるように小さく呟くと、ザルバッグはそのまま眠りについた。


次の日からもザルバッグはアグリアスに注目していた。
剣の腕に関してはなんら問題はない、むしろその凄すぎる剣の腕が違う心配事を作り出す。
あれほど腕が立つとなると裏切られたときに厄介なのである、それ故精神面、人間性の部分をもっとしっかり見極めねばならないのだ。
ザルバッグは自分の担当する訓練形式の授業以外も、時間が許す限りアグリアスを見る。
そして他の教官達からの評判も聞いて回る。
「勤勉、真面目、堅物、…そんな言葉がぴったりだな。」
殆どの教官達が口を揃えて同じ様な印象を語った、そしてザルバッグの見る限りでもまさにその通りだと思ったのである。
(内面をもう少し知っておきたいが、はたして見えざる鎧を脱いでくれるだろうか…。)


ザルバッグはその晩から夕食をアグリアスと共にしようと決めた。
あまり期待はしていなかったが、直接話してみないことには心の鎧を脱いだ所を見る機会がなさそうだからだ。
そんなザルバッグの思惑も知らず、毎晩食卓を共にしてくる事にアグリアスは戸惑うばかりであった。
(どうしてこのお方は私の所にくるのだ…独りでいる私に同情しているのか?
 それともまた目当ての料理でもあるのか?)
しかし日が立つにつれてアグリアスの心に変化が生まれる。
気づくとザルバッグの姿を探し、共に過ごす時間を楽しみにしていた。
ザルバッグの話はとてもためになり、そして面白かった。
思えばアグリアスを笑顔にしてくれる人間など今までにいなかった。
厳しい家庭に育ち、学校でも常に孤立していたアグリアスにとって、ザルバッグは初めての心を許せる存在になりつつあった。


ある晩、ザルバッグは報告書作成のため夕食の時間もまだ働いていた。
(今日はアグリアスと一緒にというわけにはいかんな。)
しかしアグリアスは待っていた。
アグリアスは食堂につくと膳を受け取り、いつもの場所でザルバッグを待っていた。
しかしザルバッグは現れない。
いつまでたっても現れないザルバッグに最初は苛立っていたが、段々悲しくなってくる。
(別に、約束しているわけじゃないしな…。)
そう思っても、アグリアスは食事に手をつけられずにいた。
他の士官候補生達は食事を終え、各々の自室へと戻っていった。
調理人がアグリアスの元へやってきて声をかける。
「なんだ、全然食ってねぇじゃねぇか。」
「あ、すみません…。」
「いやいいけどよ、ザルバッグ様を待ってたのかい?」
「え?なぜそれを?」
「わかるさ、ここんとこ毎晩一緒だったろ〜。」
「……。」
「あんなに楽しそうに飯食ってるおまえさんは初めてだったからよぉ、おっちゃんも嬉しかったんだよ。」
「楽しそう…でしたか?」
「ああ、むちゃくちゃな。」
「そうですか…。」
「とりあえず料理あっためなおしてやっからさ、今日は食ったら寝ろ。」
「…はい、すみません。」


その時、調理場に向かい男が声をかけた。
「すまんが何か残ってないか?食べられる物ならなんでもいい。」
ザルバッグだった。
「お、王子様がやっと到着したぜ。」
調理人は冷やかすように言ったが、アグリアスの耳には入っていない。
ザルバッグをじっと見つめ、目を潤ませている。
「ザルバッグ様、今何か用意しますから待っててくだせぇ。」
ザルバッグは調理人の声に振り返ると驚いた。
アグリアス?」
その姿を見つけザルバッグは駆け寄ってきた。
「まさか俺を、待っててくれたのか…?」
アグリアスは目を伏せる。
「ザルバッグ様〜、レディを待たせるなんて失礼ですぜ。
 おっと嬢ちゃんの料理も温め直してくっからちょっと待っててな。」
調理人はそういうと調理場へと戻っていった。
しばらく続いた沈黙を破り、ザルバッグは声をかける。
アグリアス…、すまなかったな、随分待たせてしまって。」
「いえ、私が勝手にしたことです。」
「しかし」
「ザルバッグ様に非はありません、お気になさらずに。」
「おまえ…、泣いているのか…?」
「な、何を言われますか!なぜ私が泣かねばならぬのですっ!?」
しかしアグリアスの頬を伝い今も雫が落ちている。


「すまん…。」
「……。」
再び沈黙が訪れ、二人を気まずい空気が包む。
「ザルバッグ様〜、遅刻した上にいじめるなんてあんまりですぜ。」
調理人が沈黙をやぶり二人の膳を運んできた。
「なっ、俺は別に。」
「冗談ですよ〜、でも嬢ちゃんも困ってますぜ。
 いつも通り楽しい食事をしてくださいや。」
「あ…、そうか。」
「それじゃわたしは先に失礼しますんで、食事が済んだら食器はカウンターの所にでも置いておいてくだせぇ。」
「あぁ、わかった。」
「それじゃ失礼しやす。」
調理人はヤレヤレといったジェスチャーをしながら食堂を後にした。
三度沈黙が訪れる。
ザルバッグはこのままではいけないと意を決し、大きく息を吸い込んだ。
「これは俺のお詫びの気持ちだ、食え!」
そう言うとザルバッグは若チョコボの唐揚げを一つ、アグリアスの皿へと置いた。
唐揚げを見つめるアグリアス
不思議なことになぜかおかしさがこみあげてくる。


笑いそうになるのをなんとか押し殺すと、うつむいたまま口を開く。
「…一つ…」
「んっ?」
「一つだけですか?」
「なんだと?」
「一つだけですかと聞いているのです。」
「なっ、だって二つしかないんだぞ!」
「そうですか、ザルバッグ様のお詫びの気持ちは唐揚げ一つ分ということですね、わかりました。」
「な、お、ちょ、ま、…わかったよ、もう一つやればいいんだろやれば。」
「……プッ、クックック…。」
アグリアスは肩を震わせ笑いをこらえようと必死だったが、全然こらえ切れてなかった。
ザルバッグはそんなアグリアスを見るとホッとすると同時に悔しくなっていた。
「おまえなぁ…、この俺をからかったな。」
「はい、からかいました、すみません。」
「…唐揚げ返せ。」
「いやです、これも好物ですから。」
二人に笑顔が戻った、そして和やかな空気が二人を包む。
いつも通りの楽しい食事が始まり、そして終わる。


二人は膳をカウンターに置き、部屋へと歩き出す。
「それでは失礼します、おやすみなさいませ。」
「おぅ、おやすみ。」
歩き出すアグリアスをしばらく見送るザルバッグ。
「なぁアグリアス。」
「はい?」
「どうしてその…待っててくれたんだ。」
聞かなくてもなんとなくその答えに予想はついていたが、ザルバッグは聞かずにはいられなかった。
すこし間をあけてアグリアスは答える。
「…ザルバッグ様との食事が、とても楽しいからです。」
「そうか。」
「おやすみなさい」
「おやすみ」
アグリアスからの答えは少し予想と違っていた、しかしザルバッグは嬉しかった。
俺を必要としてくれている、ベオルブの人間だからではなく、この俺の存在を必要としてくれている。
それがなにより嬉しかったのである。
ザルバッグは少し照れつつも、満足感でいっぱいのまま眠りについた。


「…眠れん…。」
すっかり夜も更けた頃、ベッドの中で寝返りを繰り返すアグリアス
今夜の出来事がどうしても頭から離れずにいた。
眠ろうと目を閉じると、浮かんでくるザルバッグの顔。
その度に胸の鼓動は速くなり、顔が熱くなるのを感じ目を開く、その繰り返し。
(どうしてその…待っててくれたんだ。)
「食事が楽しいから」その答えに嘘はなかった、しかしそれだけではないという気持ちもあったのは確かだ。
だがそれがなんなのか、アグリアスは自分に説明できずにいる。
会えないのが嫌だった、話せないのが嫌だった、顔を見ることができないのが耐えられなかった、声を聞くことすらできないのが我慢できなかった。
(なぜ?)
(わからない)
(今までは一人でも平気だっただろ?)
(わからない!こんな気持ち初めてなんだ!)
(なぜ泣いた?)
(わからない…)
(嬉しかったのか?)
(そうかもしれない…でもちがうかもしれない)
そんな自問自答を続けているうちに、一つの答えが思い浮かぶ。
「もしかすると…、これが恋というものなのだろうか…?」


アグリアスはルザリア近衛騎士の父の元に生まれ、育てられた。
母は物心つく前に病死していた。
オークス家は代々王家に仕えるルザリア近衛騎士団に所属しており、父はアグリアスにもオークス家の伝統を継がせるべく、幼い頃から剣を持たせ厳しい躾をし騎士道精神を叩き込んだのであった。
そんな少女時代を過ごしてきたアグリアスにとって、男子というものは「絶対に負けてはいけない存在」でしかなかった。
無論恋などというものには無縁であり、同世代の女子が恋愛について騒ぐようになると見下していた。
ザルバッグに対する想いは紛れもなく恋心なのである、しかし恋愛についてたいした知識も経験もなく、相談できる相手もいないアグリアスには確信が持てないでいた。
(恋…、これは恋なのだろうか?
 たとえそうだとしても、この気持ちをどうすれば…。
 いかん!私は騎士を目指し精進する身にある士官候補生なのだぞ!
 恋などにうつつをぬかしている場合ではない!
 明日も訓練が控えている、もう寝よう。)
東の空がわずかに白み始めた頃、ようやく睡魔が勝利し眠りにつくことができた。
「ザルバッグ様…」
夢の中では嘘はつけないようである。



「眠い…。」
完全に睡眠不足だったアグリアスは授業中ずっと睡魔と戦っていた。
どんなに剣の腕が立とうとも、相手が睡魔となると苦戦せざるをえなかった。
次の時間はザルバッグによる実戦訓練である。
腑抜けた姿を見せるわけにはいかないと奮起し、手洗いに行き頭から水をかぶった。
(しっかりしろ、アグリアス。)
鏡に映る自分の姿に向かい心の中で呟いた。
濡れた髪をタオルで拭きながら廊下を歩きつつ小さく一つ溜息をつく。
(憂鬱だな、次の授業……)
「なんだ、池にでも落ちたのか?」
後ろから声をかけたのはザルバッグであった。
「!!……いっいえ、その、ちょっと…。」
「すぐに訓練を始めるぞ、急げよ。」
「…ハイ。」
ザルバッグは事務的に言い放つと足早に訓練場へと歩き出した。
アグリアスは顔を真っ赤にし、しばしボーっとしていたが、我にかえるとあわてて訓練場へと走り出した。


「本日の訓練はウェポンブレイクをくらい素手になったときのことを想定する。
 それぞれ二人一組になり、一方は素手、もう一方は木刀で組手をする。」
アグリアスも同期訓練生と組み、開始の合図を待つ。
「始めぇっ!」
合図と同時に相手が木刀を振り下ろす。
アグリアスはひらりと体をひねってかわし、そのまま回転し手刀を相手の腕に当てようとする。
しかし狙いが甘かったのかかわされてしまう。
その時視界にザルバッグの姿が入った。
一瞬そちらに気をとられてしまうアグリアスの頭上に木刀が降ってくる。
ゴンッ!!
鈍い音と共にアグリアスが倒れた。
「わゎっ!アグリアスさん大丈夫かい!?」
まさかあのアグリアス相手に、当たるとは思っていなかった組手の相手がびっくりして近づく。
「あぁ、だ、大丈夫だ。」
しかしレザーヘルムをしていたとはいえ、脳天直撃の一発にまだ少しクラクラしていた。
ふと気づくとザルバッグがこちらを見ており、その視線は驚きと落胆の色が交じったように見えた。
「!!?」
(くそっ…、ザルバッグ様にこんな姿を見られるなんて…。)
アグリアスは自分の愚かさを恥じ、組手に集中した。


その日の夕食の時間、アグリアスはまだ自室にいた。
訓練中に見たザルバッグの目が頭から離れず、食堂へ向かう足を封じていたのだ。
(どんな顔をすれば良いというのだ…。)
そうして悩んでいる間に、時間は刻一刻と過ぎていく。
(今夜は食事抜きでもいいか…。
 でも……待っていてくれてるかも。)
そうして理由を付けたアグリアスはすぐに部屋を出た。
待たせてはいけないと言う気持ちももちろんあったが、本当はザルバッグと会話のできる数少ないチャンスを逃したくなかったのだ。
食堂ではすでにザルバッグがいつもの場所に座っていた。
アグリアスは膳を手にオドオドしながら近づく。
ザルバッグはアグリアスに気づくと不敵な笑みを浮かべる。
「昨夜の仕返しのつもりかな?」
「ちっ、違います!その、体調が優れなくて…。」
「なんだ、それで訓練の時もあのザマだったんだな。」
「…ハイ…。」
アグリアスがついた他愛もない小さな嘘は、想像以上に胸を締め付けた。
「さ、食うか。」
「良かったらこれ、食べてください。」
「なんだ食欲もないのか?あまり調子が悪いようなら明日は休めよ。」
「いえ、大丈夫です。」
「そうか、ではこれは頂いておこう。」


アグリアスは食事を終え自室へと戻るとそのままベッドに倒れ込んだ。
(私は卑怯者だ…。
 嘘をつき、それをごまかすために料理を差し出してザルバッグ様を騙したのだ…。
 ……最低だ…。)
自己嫌悪に陥るアグリアス、今まで清く正しく生きてきた彼女にとって今日の出来事はかなりこたえていた。
(なぜこんな事になってしまうのだろう…。
 恋とはそういうものなのか?人は恋するとこんなにもおかしくなってしまうものなのか…?
 このままじゃいけない…。)
アグリアスは立ち上がり壁に立てかけてある剣をを手にすると、もう片方の手で後手に結わえていた髪の束を掴んだ。
ザクッザクッザクッ…ボドッ
美しく輝く髪の束が床に落ち、その後を追うようにパラパラと金色の髪の毛が降り注ぐ。
(私は剣に生きると決めたのだ、女である必要など無い。)
アグリアスは大きく深呼吸をすると肩に残る髪の毛を払いベッドに潜り込む。
目を閉じるとやはりザルバッグの顔が思い浮かぶのだが、絶対に寝ると気合いを入れると頭の中で羊を数え始めた。
羊の数が三千を超えた辺りでアグリアスは眠りについた。


次の日の朝、廊下を歩くアグリアスの姿に士官候補生達は目を見張った。
昨日まで腰に届きそうなぐらい長かったアグリアスの髪が、肩に届かぬ程に短くなっていたからである。
(ふん、笑いたくば笑うがいい。)
アグリアスは皆から注がれる視線を気にせずに朝食をすませると、魔法授業の行なわれる教室へと足を向けた。
その途中、廊下の奥からザルバッグが歩いてくるのに気づく。
アグリアスは一瞬ためらい歩く速度を遅くしたが、気合いを入れ直すと胸を張り再び力強く歩き出した。
ザルバッグはアグリアスに気づくと一瞬驚いた表情を見せたがすぐにニコニコと顔を緩めた。
「どうしたんだ?その頭。」
「ちょっとした気分転換です。」
「そうか。」
「そんなにおかしいですか。」
いつまでもニヤニヤしているザルバッグに苛立ったアグリアスは、鋭い目でにらみながら強い口調で言った。
「いや、ショートカットも似合ってるなぁと感心しているのだ。」
「えっ…。」
「おっと、授業の準備をせねば。
 じゃあな。」
「……。」
アグリアスは顔を真っ赤に染めながらその場に立ち尽くしていた。
髪を切り落としてまでした決意は、愛する男の一言で脆くも崩れ去ったのである。


自らの心の弱さに打ちのめされたアグリアスであったが、その日はなんとか問題なく授業をこなす事ができた。
しかしその表情は暗く、元気もなかった。
(とりあえず寝不足にさえならなければ平気か…。)
そんな事を考えながら食堂へと向かう。
今夜もバルザッグはアグリアスの目の前に座っていた。
(ザルバッグ様…なぜあなたは私をこんなにも苦しめるのですか…。)
「どうした、食わないのか?」
「…はい。」
「まだ調子が悪いのか?体調管理もできないようでは騎士失格だぞ。」
騎士失格と言う言葉に敏感に反応したアグリアスは首を強く振りながら弁解しようとする。
「ちっ、違います!体調は、…悪くないです。」
「ならどうした?何か悩み事か?」
「…なんでもありません。」
「しかしなにか、」
「すみません、先に失礼します。」
話が深くなるのを恐れたアグリアスはザルバッグの言葉を遮ると、すぐに立ち上がり早足で歩き出す。
「お、おい。」
ザルバッグの声は届かず、アグリアスは自室へと戻っていった。
アグリアスは部屋の扉を閉めるとその場にへたりこむ。
「どうすればいいんだ…。」
目に涙が溜まりだす。
「助けて…。」




以下、未完。